広谷南城(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]
←空堀と土塁
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の中で最も南に位置している。民家の裏にある竹林で立入禁止になっているが、北西にある圏央道の側道から遠目に内部を見ることができる。空堀や土塁が見えるが、遠巻きに眺めるだけなので、どのような配置になっているのかはよくわからない。二重空堀のようにも見えるがはっきりしない。内部探索はできないが、遺構が残っているだけ良しとしたい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.950678/139.426267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の一つである。歴史不詳の城館であるが、近年の研究ではこれらの下広谷の囲郭群は、山内・扇谷両上杉氏が争った長享の乱の中で、1497年、扇谷上杉朝良の本拠河越城を攻撃するために山内上杉顕定が本陣を置いた上戸陣(旧河越氏館)に関連して、陣所または兵站拠点として構築されたものと考えられている。その後、戦国期に小田原北条氏の前進拠点となった河越城を、関東管領上杉憲政・扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏の連合軍が長期攻囲した河越城の戦いでも、これらの囲郭群は再利用されたと思われる。
広谷南城は、下広谷方形囲郭群の中で最も南に位置している。民家の裏にある竹林で立入禁止になっているが、北西にある圏央道の側道から遠目に内部を見ることができる。空堀や土塁が見えるが、遠巻きに眺めるだけなので、どのような配置になっているのかはよくわからない。二重空堀のようにも見えるがはっきりしない。内部探索はできないが、遺構が残っているだけ良しとしたい。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.950678/139.426267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣城