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山名城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]

DSC02177.JPG←主郭下の横堀
 山名城は、寺尾下城とも呼ばれる山城である。源義家の孫で新田氏の祖となった新田義重の子義範は、この城に拠って山名氏を称し、以後8代にわたって居城としたと言う。南北朝の動乱では、山名時氏は新田系では珍しく足利尊氏・直義兄弟に従って各地を転戦し、武功によって伯耆を始めとする中国諸国5ヶ国の守護を兼帯し、三管四職に連なる室町幕府の重鎮となった。時氏の子氏清の時代には更に勢力を伸ばし、一族で11ヶ国の守護となり、ちょうど国内66ヶ国の1/6を領したことから「六分一殿」と称された。この頃の本貫の地である上野国山名郷との関係はよくわからないが、おそらくは完全に離れていたと思われる。一方の山名城は、戦国時代には木部氏の要害城として取り立てられ、1570年に武田信玄によって新たに築かれた根小屋城とほぼ同じ頃に、この城も大改修されたと考えられている。その後は、1590年の小田原の役終結に伴って廃城となったと思われる。

 山名城は、倉賀野城の南西2kmの位置にあり、高崎市西部に張り出した片岡丘陵の東南端近くの峰に築かれている。東西に曲輪を連ね、曲輪間を掘切で分断した、典型的な山城の縄張りである。主郭周囲は堀切がそのまま横堀となって北側を防御している。また主郭・ニノ郭の南側下方にも横堀が設けられて防御を固めている。遺構は良好に残るが、主郭のみ公園化されているもののそれ以外は薮が多く、遺構の確認が容易ではない。しかも堀切は皆大きく、腰曲輪も高低差が大きく取られて配置され、切岸の昇り降りが大変である。虎口や城道がほとんど残っておらず、曲輪間、特に腰曲輪との連絡がよく分からなかった。せっかくハイキングコースが整備されているのだから、もう少し周囲の曲輪も整備してくれると助かるのだが。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.278889/139.028889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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