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津久井城(神奈川県相模原市) [古城めぐり(神奈川)]

DSC09119.JPG←土塁を備えた主郭
 津久井城は、小田原北条氏の重要な支城の一つである。元々の創築は、鎌倉時代に三浦氏の一族筑井太郎二郎義胤によって築城されたと伝えられるが定かではない。津久井城がはっきりと歴史上にその姿を現すのは、北条氏の時代である。津久井城は甲相国境に近く、交通の要衝でもあった為、甲斐武田氏が度々この地に侵入した。関八州平定を目指す北条側からすれば、背後の防衛線を固める上で津久井城は非常に重要な位置を占め、内藤氏が津久井城主となって津久井衆と呼ばれる軍団が組織された。津久井衆の所領には、北条・武田両方の支配を受ける地区が含まれるなど状況が複雑で、このことが津久井城に程近い三増峠の戦いで、内藤氏が積極的な動きを見せなかったことにつながったものと思われる。1590年の小田原の役の際には、津久井城主内藤大和守景豊は小田原城に籠ったので、津久井城は老臣らが150騎で守備し、徳川家康の部将本多忠勝・平岩信吉らに攻め落とされて廃城となった。

 津久井城は、根小屋式山城の典型で、城山南麓の居館跡も明確に残る貴重な山城である。山上の城は、大きく本城曲輪群・飯縄曲輪群・鷹射場の3つの領域に分かれている。それぞれの曲輪群は堀切で分断されているが、いずれもそれほど大きな堀切ではない。それぞれの曲輪群は、中心となる曲輪の周りに腰曲輪を幾つも連ねたもので、虎口構造も割と平易で、北条氏の先進的な築城技術を感じさせるものはあまりない。ただ、家老屋敷と呼ばれる曲輪などに石垣が残っており、北条氏が部分的にではあるが石垣技術を山城に取り込んでいたことは注意してよい。また、津久井城には山上から山麓まで伸びる竪堀が多数あり、特徴的である。しかし城の規模はそれほど大きなものではなく、全体の縄張りから受ける印象も、割と古風な山城という印象である。
家老屋敷の石垣→DSC09074.JPG
DSC09035.JPG←土橋の架かった堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.583042/139.278649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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