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朝日城(兵庫県丹波市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_5121.JPG←主郭後部の櫓台
 朝日城は、丹波の国人領主荻野氏の居城である。荻野氏は、後屋城を本拠とした赤井氏の支族で、鎌倉時代に赤井為家の次男重家が朝日村に分封されて荻野氏を名乗った。荻野氏は、太平記の中でも、丹波国人衆の有力者として度々その名が顕れている。鎌倉末期の1333年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山で挙兵すると、その近臣千種忠顕は六波羅攻めの大将として伯耆から山陰・山陽両道の兵を率いて派遣され、荻野彦六朝忠も丹波国人衆と共に倒幕戦に投じて六波羅攻めの一翼を担ったが、幕府方の反撃に遭い、兵を引いて高山寺城に立て籠もった。その後、足利高氏(尊氏)が丹波篠村で倒幕に挙兵すると、高山寺城に立て籠もっていた朝忠は、足立・児島・位田・本庄・平庄等と共に「今更人の下風に立つ手はない」として高氏の下には参じず、丹後・若狭を経由して北陸道から攻め上ったと言う。また1336年正月の京都争奪戦に敗れた尊氏が九州に落ち延びた際には、室泊の軍議によって足利一族が来るべき再挙東上に備えて西国諸国に配置され、丹波には仁木頼章が大将として派遣され、久下・中沢・荻野・波々伯部らを率いて高山寺城に立て籠もっている。この様に荻野一族は、丹波の有力な国人領主として勢力を蓄えていたことが知られる。時代は下って戦国時代になると、天文年間(1532~55年)に朝日城の荻野氏は、赤井時家の次男才丸を養子として迎えた。これが後に「丹波の赤鬼」と呼ばれて恐れられた丹波随一の勇将、赤井右衛門尉直正である。直正は「悪右衛門」を称し(中世の「悪」は「強い」の意味)、丹波平定に乗り出した明智光秀を散々に打ち破ったことでも知られる。荻野氏時代の直正は朝日城を居城としていたが、1554年に叔父の黒井城主荻野秋清を宴席で刺殺し、そのまま黒井城を乗っ取って居城を移した。その後も朝日城には荻野一族が拠っていたが、1575~6年の明智光秀による黒井城攻めの際に、明智勢によって付城として改修されたと考えられている。

 朝日城は、黒井城の南西にそびえる向山の北麓の、比高30m程の舌状丘陵に築かれた城である。残念なことに城域の北半分は宅地開発で山ごと削り取られて湮滅し、遺構の多くが失われてしまっている。『図解 近畿の城郭』所収の縄張図で言うと残存しているのはⅢ郭以降で、そのため城の前面にあった竪堀群などは全て失われている。しかしⅢ郭~主郭に関しては藪が多いものの遺構はよく残っている。最上部の主郭は背後に大きな櫓台を築き、背後の尾根を掘切で分断しているが、あまり鋭さはない上、櫓台の両脇を抜けて背後の尾根鞍部に通じているので、動線の分断をそれほど意識していない様である。主郭の東斜面には、畝状竪堀があるとされるが、なんとなくそれっぽくは見えるものの竪堀が小さくかなり分かりにくい。それと言われなければ気付かないレベルである。主郭前面には虎口郭を経由してⅡ郭・Ⅲ郭が梯郭式に配置されている。Ⅱ郭の東側斜面には帯曲輪が幾重にも築かれ、中には竪堀状の虎口や土塁を伴っているものもある。入手した縄張図を見て期待して訪れたが、遺構の規模的に少々見劣りする城である。
畝状竪堀とされる地形→IMG_5117.JPG
IMG_5144.JPG←帯曲輪群の竪堀状虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=35.165915,135.084511&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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