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沢村城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0586.JPG←主郭~ニノ郭掘切の横矢掛かり
 沢村城は、那須十氏の一つ沢村氏の居城である。那須氏は源平争乱の際、11人の兄弟の内、太郎光隆をはじめ上から9人は平家に味方し、十郎為隆は屋島の戦いで扇を射よとの命に従わず義経の怒りに触れ、末子の与一宗隆が扇を射て武功を挙げて那須氏の家督を継ぐことになった。そして与一の10人の兄は、那須各地に分知されて那須十氏となって宗家を支えた。沢村氏は与一の兄、七郎満隆に始まる系統である。沢村郷を与えられた満隆は、1187年に沢村城を築いたと言われている。沢村城の南方2kmの位置に九郎朝隆が築いた稗田城があり、両城呼応して塩谷氏に対する前線基地となった。室町中期には、那須本家の資重が沢村氏に入嗣して沢村城主となった。資重が善政を施して声望が上がると、これを妬んだ兄の福原城主那須資之と不和となった。1414年、資之は妻の父上杉禅秀に唆されて、資重の沢村城を攻撃した。資重は興野館に退き、後に稲積城を修築して移り、更に1418年に烏山城を築いて居城を移した(那須氏の分裂)。そこで資之は、孫の須藤五郎を沢村城に入れて沢村氏を名乗らせたと言う。その後の沢村城の歴史は不明である。

 沢村城は、箒川南岸にそびえる比高50m程の丘陵上に築かれている。北側は箒川に臨む断崖となっており、防御の主体は南の斜面に対して構築されている。那須氏の城に多い、直線連郭式を基本形とした縄張りで、西から順に北三ノ郭・主郭・ニノ郭・三ノ郭・南中郭がそれぞれ掘切で隔てられて構築され、本丸外周には更に北ニノ郭が取り巻いている。更に主郭から二ノ郭までの南側には掘切と繋がる形で横堀が廻らされ、更に南側下方の斜面にも横堀による外郭線が構築されている。これらの掘切・横堀のラインは、要所で屈曲し、上方の櫓台から横矢を掛ける技巧的構造があちこちで見られる。こうした特徴からすると、戦国後期まで使用されたと思われる。主郭には大型の櫓台が築かれており、小型の天守程度の規模の建物があったと考えられる。主郭には2つの虎口があり、東虎口からニノ郭間の連絡は、どうも木橋であったらしい。一方、南虎口には土橋が築かれている。この他、ニノ郭北側の断崖沿いには、外に張出した物見台がある。これは自然地形をそのまま利用したものだろう。沢村城は、非常に良好に遺構が残っており見応えがあるが、主郭・北ニノ郭以外は藪が多く、特にニノ郭・三ノ郭は密生していてほとんどまともに遺構の確認をすることができない。折角の遺構であり、石碑なども立てられているので、城址公園として整備してくれるといいのだが。
北ニノ郭~北三ノ郭掘切の横矢→IMG_0531.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/?ll=36.819558,139.968309&z=16&base=std&vs=c1j0l0u0
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