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安中城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_9378.JPG←東門の枡形跡
 安中城は、この地を支配した安中氏の城である。安中氏の出自は諸説あって明確ではない。はっきりするのは、1487年に安中忠親が松井田西城へ移住してからである。忠親の後は、弟の榎下城主安中忠清が家督を継ぎ、その子忠政の時、1559年にこの地に居た窪庭図書を退けて安中城を築いた。これに先立つ1556年、上州に侵攻した武田信玄と、上杉方の箕輪城主長野業政・安中忠政ら上野諸将は瓶尻(みかじり)で戦い、上杉方が敗北した。この敗戦によって武田軍の侵攻に晒されるようになった忠政は、新たに安中城を築いて嫡子忠成を置いて守らせ、自身は松井田城を強化して信玄の侵攻に備えた。1561年、信玄は安中・松井田両城の中間の八幡平に陣城を築いて両城を分断し、連年攻勢を掛けた。1563年に南毛地方を平定した信玄は、翌64年に碓氷に侵攻した。この時安中城はまだ完全ではなく、忠成は武田勢に降伏した。父忠政は松井田城を固守して徹底抗戦したが、衆寡敵せず降伏し、信玄の命で自害した。その後忠成は信玄に属し、名を景繁と改めて、そのまま安中城主となった。1575年の長篠合戦で、安中一族は景繁以下悉く討死にし、安中城は守る者なく荒廃した。1596年、井伊直勝が城を再興し、1615年に安中藩の初代藩主となった。その後、堀田氏・板倉氏・内藤氏と城主が変転し、1749年に再び板倉氏が入封するとそのまま幕末まで至った。

 安中城は、南北を碓氷川と九十九川に挟まれた段丘上に築かれている。城地は、旧中山道(現在の県道125号線)と安中宿を眼下に見下ろす高台に当たる。町中の城の宿命で、市街化によって遺構はほとんど失われている。本丸は安中小学校の校地に当たり、東側の民家の間に大手門跡の区画が空き地となっている。この東には太鼓櫓もあったらしい。本丸北東の堀跡は、現在は駐車場となっていて、わずかに西側の段差が切岸の名残りを残すだけである。台地東端には東門跡の枡形が、現在でも鉤の手の車道として残っている。南東の町口門跡は、道路の形状にその名残りを残し、安中宿を見下ろしている。本丸の北東には太郎兵衛屋敷という高台があり、往時は櫓台も残っていたが、現在は国道17号線が貫通して破壊されている。以上の様に遺構はかなり壊滅的な状況だが、前述の通り大手門跡・東門枡形・町口門跡は概ねその形状を推し量ることができる。また、各所に会所跡・鉄炮場跡などの表示板があり、それを探すのもなかなか楽しい。この他、郡奉行役宅・藩士長屋・碓氷郡役所の建物が残り、大泉寺には井伊直政室・直勝室の墓も残る。これらを探して城の名残りを散策するのも一興である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329993/138.896134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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