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谷村城〔附、谷村陣屋〕(山梨県都留市) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0806.JPG←谷村城跡の現況
 谷村城は、郡内小山田氏の居城である。小山田氏は中津森館を本拠としていたが、1532年に小山田越中守信有は新たに谷村城を築いて居城を移した。以後、小山田氏3代が武田氏重臣として本拠とした。但し、小山田氏時代の谷村城の位置は明確ではない。1582年の織田信長の武田征伐によって武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長が本能寺の変で横死すると、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉3者による争奪戦「天正壬午の乱」が生起した。このとき北条勢は、上野から信濃に入り佐久を南下した北条氏直率いる本軍とは別に、小田原を発した別働隊が都留郡を制圧しており、この別働隊が小山田氏滅亡後の谷村城を押さえた。天正壬午の乱は北条・徳川両者の長期対陣の後、徳川方の優勢下で和睦が成立し、谷村城には徳川家康の家臣鳥居元忠が入城して郡内を支配した。1590年の北条氏滅亡後、徳川氏が関東に移封となると、郡内は羽柴秀勝の領地となり、その家臣三輪近家・加藤光吉・浅野氏重が相次いで谷村城に入った。氏重は、1594年に勝山城を築いたが、谷村城も引き続き統治拠点として機能した。その後、鳥居成次・本堂茂親の後、1633年に秋元泰朝が上州総社城から谷村城に移封となった。秋元氏が3代続いた後、1704年に秋元喬知が川越城に移封となると、谷村城は廃城となり、天領(幕府直轄地)となって谷村代官が置かれ、谷村陣屋が造営されて幕末まで続いた。

 谷村城は、桂川東岸の平地に築かれている。古絵図によれば、谷村第一小学校付近に本丸があり、その北に二の丸・三の丸、南と東に馬出し的な曲輪を配していたらしい。現在は市街化で遺構は完全に湮滅しており、その縄張りを追うことも困難である。わずかに小学校校地の隅に城址標柱が立っているだけである。隣の市役所に解説板があるが、そこに描かれた古絵図は陽に焼けてしまって全く見えなくなってしまっている。
 また谷村陣屋は、甲府地方裁判所 都留支部の付近にあったらしい。これも谷村城同様に遺構はなく、隅に標柱が立っているだけである。
谷村陣屋跡の現況→DSCN0809.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【谷村城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.551991/138.906455/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【谷村陣屋】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/35.552113/138.907743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:近世平城
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