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井波城(富山県南砺市) [古城めぐり(富山)]

DSCN4007.JPG←本丸背後の空堀
 井波城は、本願寺5代綽如が建立した名刹瑞泉寺を城砦化した、寺院城郭である。瑞泉寺は門徒の増大とともに大きな力を有するようになり、これを恐れた福光城主石黒右近光義は1481年、瑞泉寺を討伐するための軍勢を起こし、山田川の田屋川原で一向一揆勢と激突、敗れて安居寺で自刃した。この結果、山田川東岸は瑞泉寺が支配するところとなり、一向衆は瑞泉寺を城砦化した。これが井波城の創築である。以後、越中一向一揆の中心となり、1575年に上杉謙信と和議を結び、上杉氏に属するようになった。しかし1578年に謙信が急死すると、上杉家中の内訌(御館の乱)による隙を衝いて、織田信長の勢力が越中に侵攻した。そして1581年、織田氏の部将佐々成政によって井波城は焼き払われた。その後、井波城には成政の部将前野小兵衛が入って城として整備されたが、1585年に前田利家に攻められて落城した。

 井波城は、元の瑞泉寺が置かれた場所であり、現在の瑞泉寺の東側に隣接した丘の上にある。城内は現在、井波八幡宮・宮司の居宅・金城寺・古城公園などに変貌しているが、遺構はよく残っている。南東に本丸、北半に二ノ丸、南西に三ノ丸を配置した縄張りで、本丸と二ノ丸の外周には土塁を築いて防御し、更に東側背後には水堀・空堀を穿って防御を固めている。本丸背後の土塁は2ヶ所でクランクし、クランクの角には櫓台が築かれている。その下には、水堀・空堀がやはりクランクしている。二ノ丸背後の空堀は、北端で地獄谷と呼ばれる薬研堀に変化している。本丸と二ノ丸の間には水堀があったらしいが、現在は失われている。この他、二ノ丸の北西には、土塁の外に腰曲輪が数段築かれている。夏場で草木が生い茂っていたが、それでも城の形状がよく分かるほど、遺構がよく残っている。
二ノ丸の土塁→DSCN4024.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.559170/136.974181/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集〈3〉西部(氷見市・高岡市・小矢部市・礪波市・南礪市)・補遺編

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  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2021/03/10
  • メディア: 大型本


タグ:中世平山城
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