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鍋倉城(岩手県遠野市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN5852.JPG←二ノ丸西側の腰曲輪群
 鍋倉城は、遠野城とも言い、遠野阿曽沼氏が天正年間(1573~92年)に築いた城で、元の名を横田城と言った。阿曽沼氏は、平将門討伐で軍功を挙げた藤原秀郷の後裔、藤姓足利七郎有綱の4男広綱を祖とし、下野国安蘇郡阿曽沼郷を本領とした(居城は阿曽沼城)。源頼朝の奥州合戦の軍功により閉伊郡遠野保を与えられ、当初は代官を派遣していたらしいが、後に阿曽沼氏庶流が入部して横田城(古城)を本拠とし、遠野阿曽沼氏となった。戦国後期の城主は阿曽沼四郎広郷で、遠野十二郷を支配し、葛西氏領の岩谷堂城を攻撃するなど武威を誇ったが、一方で一族の鱒沢氏らが反抗的な動きを領内で示していた。この広郷の時に、新たに鍋倉山に新城を築いて移り、旧城の名前を継承して横田城(新城)と称した。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で小田原不参の故を以って没落したが、蒲生氏郷らの尽力で南部氏に仕えて家名を保った。翌91年の九戸氏の乱では嫡子広長が参陣した。1600年の関ヶ原の戦いでは、広長は南部利直に属して山形に出征したが、留守中に一族の鱒沢広勝らが反逆して横田城が占拠され、帰城できなくなった広長は妻の実家である気仙郡世田米城に逃れた。その後も広長は横田城奪回を図ったが失敗し、遠野十二郷は南部氏の支配下に入った。以後城代を置いて支配させたが、治安の乱れが続いたため、1627年、利直は一族の八戸領主根城南部直義(直栄)を横田城に移し、12,500石を領する遠野南部氏の歴代の居城となった。直義は城の名を鍋倉城と改め、城下町を再整備した。以後10代240年余り遠野南部氏の支配が続いて明治維新を迎えた。

 鍋倉城は、遠野市街地南方の標高343.5m、比高80m程の鍋倉山に築かれている。城跡は現在鍋倉公園となっていて、夏場でもほとんどの遺構を確認できる。元和の一国一城令によって城ではなく要害屋敷と称されたが、通称は城で、その構造も中世以来の山城そのものである。中心に本丸を置き、南に大堀切を挟んで二ノ丸、北東にも堀切を挟んで三ノ丸を配置している。これらの曲輪には、外周に低土塁が築かれ、外側には腰曲輪が幾重にも築かれている。本丸は三段の平場に分かれ、上段に遠野南部氏の館があったが、現在は礎石が残っているだけである。本丸上段の北側に大手枡形虎口、東に枡形虎口、西に搦手門跡、南に裏門跡が残っている。本丸の北には2段の段曲輪が築かれ、工藤屋敷・澤里屋敷と呼ばれる重臣屋敷があった。また本丸北西にも腰曲輪、その南には竪堀を挟んでコの字土塁で囲まれた横堀、更にその南に搦手門に通じる横堀が構築されていて、本丸西側を防御している。特に搦手門に通じる横堀は、重厚な土塁で防御されている。二ノ丸は遠野南部氏の一族新田小十郎の屋敷があった所で、現在は遠野南部氏の廟所が置かれている。そのため改変を受けているが、二ノ丸への通路は往時の名残を留めているらしく、通路の途中に「御門跡」の標柱があり、虎口状の地形と門の礎石が残っている。三ノ丸には遠野南部氏の一族中舘氏・福田氏の居館があったが、現在は公園化で大きく姿を変えている。本丸から三ノ丸にかけての北斜面には、腰曲輪群が構築され、登城道が残っている。この他、本丸の南東には舌状曲輪が伸び、小新田屋敷と呼ばれている。二ノ丸背後の尾根は自然地形を利用した堀切で区画している。以上が、鍋倉城の遺構で、公園化されているものの往時の遺構をよく残している。この城で聞いたSLの汽笛の音は、ノスタルジックでなんとも忘れ難い。
土塁囲みの横堀→DSCN5752.JPG
DSCN5743.JPG←搦手門跡と横堀
二ノ丸御門の礎石→DSCN5796.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.326007/141.527274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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