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大熊荒城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1520.JPG←主郭のL字状土塁
 大熊荒城は、1486年に諏訪氏の一族大祝継満が築いた城である。「荒城」とは「新城(あらじょう)」と同意である。これに先立つ1483年正月、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした継満は、諏訪氏惣領の政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺した。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。同年12月、先に継満に殺害された政満の2男頼満が上社大祝職に就き、以後、祭政一致に戻った諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。新たな大祝が立ち、存在感が薄くなった継満は1486年5~6月に再び諏訪に戻って大熊に新城を築いた。それが大熊荒城である。これは諏訪還住の意思表明と誰かの支援を期待してのこととの説がある。しかし結局同年9月に継満は没したと言う。

 大熊荒城は、標高1000m、比高230mの山上に築かれている。北麓から鉄塔保守の山道があり、これを登っていけばやがて城に至る。『信濃の山城と館』の縄張図によれば、堀切で区画された一の木戸、二の木戸があり、その先に石積みの残る三の木戸が築かれ、その先に城がある。しかし木戸の堀切は、薮のせいもあってあまりよくわからない。石積みもあるにはあるが、崩れているので実際に石積みだったのかどうかもはっきりしない。しかし主郭と前面の腰曲輪群は明瞭で、主郭にはL字型の土塁が残り、その背後には二ノ郭との間に堀切が穿たれている。二ノ郭から南に、更に2つの曲輪があるとされるが、塁線が不明瞭であまりはっきりしない。この城域の東側に前述の山道が通っているが、側方に土塁状の土盛りを伴っている。いずれにしても、『信濃の山城と館』で「逃亡の身でジリ貧になった継満が、諏訪還住のために密かに少人数で拠点となる場所を確保した城」「いかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造り」と記載している通りの、ささやかな城である。築城時期・築城者がはっきりしている稀有な中世城郭であるが、正直言って登山の苦労が報われない城である。
主郭背後の堀切→DSCN1517.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.995586/138.110676/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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