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武居城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1429.JPG←主郭前面の帯曲輪群
 武居城は、片山古城とも呼ばれ、諏訪氏が築いた古い城である。伝承では、鎌倉末期の1330年に諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の得宗北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を拡大し、山裾の武居平に居を構え、山上に武居城を築いたとされる。時重は、1333年に新田義貞の鎌倉攻めで北条氏が滅亡した際、高時を介錯して自身も自害したと言う。しかし、諏訪時重と言う武士は史料上確認できない。太平記によれば、北条高時とともに鎌倉東勝寺で自害した武士として諏訪入道直性(宗経か?)の名がある。また得宗家の被官諏訪三郎盛高は、高時の子北条時行を保護して密かに信濃に落ち降り、諏訪一族の元に匿った。そして1335年、時行を奉じて挙兵したのが諏訪頼重らの信濃武士であった。この中先代の乱で、頼重らは一時は鎌倉を制圧したが、京都から攻め降った足利尊氏率いる軍勢に瞬く間に駆逐され、鎌倉で自刃したことが知られる。従って、建武新政期に史書に現れる諏訪一族の中に時重と言う武士は出て来ない。とは言え、得宗家被官の諏訪一族が諏訪大社上社本宮に近い武居城を築いた事実はあったのだろう。いずれにしてもその後の城主は知られず、城も放棄されていたらしい。1483年、諏訪大祝継満は、惣領家の諏訪政満とその一族を前宮の神殿に招いて謀殺し、惣領家の所領を奪って上社の祭政両権を握ろうとした。しかし諏訪氏の一家眷属に攻撃されて、立て籠もっていた干沢城から没落し、伊那高遠に落ち延びた。翌84年5月3日、小笠原政貞ら伊那諸豪の援助を得た継満は、杖突峠を越えて諏訪に侵入し、片山古城(武居城)を取り立てて干沢城の惣領勢と対峙したが、攻撃を受けて退去した。天文年間(1532~55年)には、諏訪頼重の家臣篠原与三郎が武居城代となった。しかし1542年に武田信玄が諏訪を攻略すると、武居城は落城した。その後は諏訪大祝が城を預かったが、1582年の天正壬午の乱の中で諏訪頼忠が諏訪を回復すると、高島城(茶臼山城)を本拠とした。以後、武居城は使われず、そのまま廃城となった。

 武居城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高940m、比高170mの城の峯に築かれている。中腹には竹居平・保科畠と言う広大な平坦地があり、城主居館や家臣団屋敷があったとされる。武居城はその背後の山上にあり、主郭が武居城跡森林公園になっているので、車道の脇から登山道が整備されている。この登山道は「ショイビキ(背負い引き)道」と呼ばれ、近世には切り出した木を背負って下った道らしい。そのため深い竪堀状の道となっている。この道を登っていくと、途中で横堀が分岐している。この横堀は、城の北東斜面中腹を防御するように穿たれている。その上には段曲輪群が構築され、主郭に近づくと円弧状の長い帯曲輪群に変化する。最上部に主郭があるが、切岸だけで区画されており、土塁は残っていない。主郭の南北の斜面にも帯曲輪が数段築かれている。主郭背後の南西の尾根は一騎駆け状の土橋となっているが、堀切は見られない。『信濃の山城と館』では、ショイビキ道のために堀を埋めてしまった可能性を指摘している。いずれにしても、主郭以外は多段曲輪だけで構成された城で、縄張りにほとんど技巧性は見られない。戦国期には、ほとんど役目を終えていた城だったのだろう。
 尚、沢を挟んだ東の山上には支砦の天狗山砦があるが、これもただの平場群だけの城砦のようなのでパスした。
山腹の横堀→DSCN1399.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.992409/138.121190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃の山城と館〈第6巻〉諏訪・下伊那編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2013/08/01
  • メディア: 単行本


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