SSブログ

知久平城(長野県飯田市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1853.JPG←三ノ郭の土塁跡
 知久平城は、諏訪氏の分流でこの地の豪族であった知久氏の神之峰城以前の居城である。知久氏は当初上伊那郡の上の平城を居城としていたが、鎌倉中期の正嘉年間(1257~59年)に地頭としてこの地に移り、知久平城を築いて居城とした。時代は下って戦国前期頃、神之峰城を築いて本拠を移したらしく、以後は出城として機能した。1554年の武田信玄による伊那制圧・知久氏没落後は知久平一帯は吉岡城主下條氏の支配下となった。1582年、武田氏滅亡・織田信長横死後は天正壬午の乱を経て伊那谷は徳川家康の支配下となり、1583年に菅沼小大膳定利が伊那郡司を任され、翌年にかけて知久平城を居城として改修した。しかし間もなく飯田城に居城を移し、1588年に知久平城は廃城となった。

 知久平城は、天竜川東岸の河岸段丘上に築かれている。かなり広い城域を有する城であったが、城内は宅地化・耕地化による改変が進み、散発的に堀跡や土塁が残るだけとなっている。北端から順に出丸(物見台)・主郭・二ノ郭・三ノ郭が空堀を挟んで並び、更に南と東に外郭を廻らした縄張りであったらしい。主郭は民家裏の畑・墓場等になっており、土塁跡の高まりが残る。以前は主郭内に標柱・解説板があったらしいが今は失われている。主郭の先にはつなぎの平場を挟んで高台になった出丸があり、標柱・解説板がある。二ノ郭もほとんど民家・果樹園となっているが、南側にわずかに堀跡らしい窪地が見られる。また保育園の西側には、三ノ郭の土塁跡がわずかに残っている。この他、主郭の北側下方に殿様井戸があるが、民家の庭先なので立入りのお断りが必要である。外郭に2ヶ所、解説板が立てられているが、遺構の残存状況が悪く、ちょっと残念な城である。
高台になった出丸→DSCN1914.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.478294/137.849793/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の山城を極める 厳選22城

戦国の山城を極める 厳選22城

  • 出版社/メーカー: 学研プラス
  • 発売日: 2019/09/10
  • メディア: Kindle版


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント