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溝口上ノ城(長野県伊那市) [古城めぐり(長野)]

DSCN3801.JPG←主郭北の空堀
 溝口上ノ城は、南北朝期に北条時行が立て籠もって戦った大徳王寺城と推測されている城である。最後の得宗北条高時の遺児時行は、鎌倉幕府滅亡後に諏訪氏に匿われ、1335年に中先代の乱を起こした。女影ヶ原、府中と立て続けに鎌倉府の軍勢を破った中先代軍は、一旦は鎌倉を制圧したが、東下した足利尊氏に鎮圧され、諏訪頼重らは自刃し、時行は行方をくらました。1337年の北畠顕家の2度めの上洛戦の際、時行は勅免を蒙り、顕家軍に合流して足利勢と戦った。しかし畿内の戦いで顕家軍が敗北して四散すると、時行は再び行方知れずとなった。その後、1340年6月に時行は伊那の大徳王寺城に立て籠った。これに呼応して諏訪頼継も大徳王寺城に馳せ参じた。北朝方の信濃守護小笠原貞宗は、直ちに討伐軍を編成して城を取り囲んだが、城は容易に落ちず、4ヶ月の籠城戦の末にようやく落城したと言う。この大徳王寺城は、長年その位置が確認できず幻の古戦場とされたが、大徳王寺城の戦いを記した諏訪大社上社神長官の『守矢貞実手記』の解読により、溝口丸山の上ノ城であることが推考されたと言う。但し、大徳王寺城は、高遠城など他の場所との説もある他、大徳王寺城の戦い自体が実際のものか明確ではないので、考証の余地が多い様である。
 また時代は下って、戦国時代の天文年間(1532~55年)には、保科弾正忠正辰の次男溝口民部正慶が溝口上ノ城に居住したと言う。正慶は、1556年の武田信玄の伊那侵攻の際に抗戦して捕えられ、正慶ら8人衆は狐島で磔にされ、八人塚に葬られた。

 溝口上ノ城は、小犬沢が刻んだ断崖南の段丘上に築かれている。切岸で囲まれた長円形の主郭があり、北には空堀が穿たれ、その北側に「御山」と呼ばれる独立丘状の土壇がある。ここには、後醍醐天皇の皇子で信濃宮と呼ばれた宗良親王のものとされる無縫塔が祀られている。御山の東には竪堀が穿たれている。主郭の西や南には平場が広がっているが、西は畑に、南は宅地になっていて、どこまでが城域であったのかはわからない。また主郭も畑や宅地になっていて、一部改変されている。空堀は残るものの城の遺構としては少々物足りなさを感じるが、大徳王寺城の推定地の一つであり、宗良親王の墓があるなど、南朝の残影を色濃く残す土地である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.792623/138.087566/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世崖端城
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