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本栖城(山梨県富士河口湖町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN8934.JPG←主郭の真っ黒な石垣
 本栖城は、武田氏が築いた甲駿国境地帯の最前線の城である。創築時期は不明であるが、天文・永禄年間(1532〜70年)には武田氏関係の文書に現れる。甲斐駿河を結ぶ重要街道である中道往還を押さえる要衝で、西之海衆と呼ばれる土豪達によって守られていたものと推測されている。1582年に北条・徳川両氏が武田遺領をめぐって争った天正壬午の乱の際には、渡辺囚獄佑(ひとやのすけ)ら九一色衆17騎は徳川氏に従属し、徳川方としてこの城を守り、北条軍別働隊の侵攻を撃退した。

 本栖城は、標高1056m、比高120mの城山に築かれている。南東麓の国道139号線脇から登道が付いており、迷うことなく登ることができる。登道が尾根上に達した後、更にしばらく尾根を辿っていくと、最初の四重堀切が現れる。この多重堀切群はなかなか見応えがある。その上には小郭1つと舌状の三ノ郭・二ノ郭が前衛として築かれており、その上に主郭がある。主郭は細長い長円形の曲輪で、城内で最大の広さがある。これらの曲輪の塁線には真っ黒い溶岩を積み上げた石垣が築かれている。真っ黒な石垣というのはちょっと特異である。主郭周辺には特に至るところに石垣が散在しているので、往時は石垣で囲まれた主郭だった可能性がある。主郭手前には小型の枡形虎口が築かれ、石塁で補強されている。主郭の後ろには細長い四ノ郭があり、その最後部には石塁で築かれた土壇があり、烽火台とされている。四ノ郭の背後の細尾根には3本の堀切が穿たれて、搦手を防御している。また主郭の北側下方には広い腰曲輪が築かれている。腰曲輪から見上げた主郭切岸の斜面には、崩落した石垣の石が散乱している。この腰曲輪の北西辺には、坂土橋状の石塁が残っている。以上が本栖城の遺構で、比較的小規模な城とは言うものの厳重な縄張りは、この城の重要性をよく示している。
 尚、この城の石垣は、どこも急斜面に築かれているので、一つ間違えれば滑落の危険もあり、撮影が大変である。
四重堀切→DSCN8859.JPG
DSCN8993.JPG←腰曲輪の坂土橋状の石塁

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.472790/138.608730/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

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