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里矢場上屋敷館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2246.JPG←民家の外周に残る土塁
 里矢場上屋敷館は、歴史不詳の城館である。矢場川小学校の北、神明宮の西に位置し、民家の裏にL字型の土塁がよく残っている。北西にもわずかに土塁が残存しており、概ね方形の区画が想定される。おそらく方形居館であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310241/139.425044/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2012/08/07
  • メディア: 文庫


タグ:居館
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松本城(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2221.JPG←土塁と空堀状地形
 松本城は、歴史不詳の城である。足利尊氏の執事を務めた高師直の曽祖父、高重氏は松本入道と称していたことから、その屋敷が松本郷にあったと考えられ、松本城を居城としていたことが推測される。また重氏の子師氏は、足利家時(尊氏の祖父)・貞氏(尊氏の父)2代に執事として仕え、やはり松本入道と呼ばれていたらしいことから、師氏も松本城を居城としていたことが考えられる。

 松本城は、小俣川東方の丘陵端の段丘にあったらしい。日枝神社の北側にあり、西側に広がる住宅地より一段高い平場となっている。この平場は一部が畑となり、その他は雑木林となっているが、周囲には切岸と腰曲輪らしいものが見られ、背後に物見台状の土塁と空堀状の地形も残る。その裏の斜面には段々の平場が築かれているが、畑の跡であるらしい。この他、主郭と思われる高台の入口のところも、虎口の様に見えなくはない。後世の改変が疑われるため遺構は明確にできないが、『足利市遺跡地図』では主郭・虎口・腰曲輪・土塁が残るとされる。もし鎌倉期の高氏にまつわる遺跡であれば、非常に貴重である。
段丘の南西角部→DSCN2214.JPG
DSCN2206.JPG←西側の腰曲輪らしい平場

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.387787/139.381120/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

高 師直: 室町新秩序の創造者 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/07/21
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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板倉中妻居館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2199.JPG←館跡付近の現況
 板倉中妻居館は、板倉城主板倉渋川氏の居館の一つである。板倉渋川氏は、根小屋・中妻・駒場と居を移したと伝えられている。
 板倉中妻居館は、板倉城のある要害山の北麓の微高地にあった。松田川支流の小河川の東側で、現在は北半分が保育園、南半分が空き地となっており、遺構は全く残っていない。残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.375142/139.404144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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丹南藩五十部陣屋(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2192.JPG←石垣
 丹南藩五十部(よべ)陣屋は、河内丹南藩の高木氏が足利郡の所領を治める為に造営した陣屋である。代官には在地土豪の岡田氏が任命され、岡田氏が代々職を務めた。
 丹南藩五十部陣屋は、通称「代官山」の南東麓に位置している。高台となっているが、平坦地内には古びた住宅が数棟建っている。南東面の切岸には石垣が残っている。わずかではあるが貴重な遺構であり、是非保護の手立てを講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.351417/139.426718/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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岡田氏館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2187.JPG←館跡付近の現況
 岡田氏館は、足利長尾氏の家臣で富士山城主であった岡田長親・秀親父子の居館である。富士山の西側の谷状に奥まった部分にあったと推測されており、かつては石垣も残存していたと言う。しかし現在は住宅地となっていて、遺構は完全に湮滅している。もし今でも石垣が残っていればと惜しまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.328913/139.440880/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史 (県史)

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
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足利藩陣屋(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2176.JPG←陣屋跡
 足利藩陣屋は、江戸中期の1705年、徳川譜代家臣の戸田忠利が1万1千石に加増を受け、大名として足利藩を立藩した。この時、陣屋が造営された。以後、戸田氏は幕末まで足利藩の藩主であった。最後の藩主戸田忠行は、幕末に陸軍奉行並に抜擢されたが、戊辰戦争では宗家の宇都宮藩戸田家が新政府軍に恭順したので、足利藩も新政府方に付いた。1869年(明治2年)に足利藩知事に任じられたが、2年後の廃藩置県で職を免ぜられ、忠行は東京に移住した。陣屋は1876年に火災で全焼した。

 足利藩陣屋は、現在の雪輪町一帯にあった。足利戸田家の馬印が「雪輪」だったことから、この町名が付いたと言う。現在は住宅地となっていて遺構はほとんど残っていない。陣屋の井戸が民家の脇にあったが、その民家は現在更地となっていて、足利市が整備中の様である。また北東にある栄富稲荷神社は、足利戸田家に所縁のある神社らしい。おそらく鬼門除けなのだろう。陣屋から南に真っ直ぐ伸びる陣屋大門通りは、かつての陣屋大手道がそのまま残っている。この他、足利市内の民有地に陣屋表門が移築されて残っているが、解説板はほとんど字が消え、門も傾いており、このままでは倒壊してしまいそうである。そうしたら、表門を探訪してから数ヶ月後に、陣屋門が倒壊の危機にあると言うニュースが取り上げられていた。早急な手当てを望みたい。
陣屋大門跡→DSCN2171.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.336761/139.448787/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
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タグ:陣屋
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助戸宮脇館(栃木県足利市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2159.JPG←館跡付近の現況
 助戸宮脇館は、歴史不詳の城館である。かつては付近に中妻・南小路・東小路・西小路、南側に東前田・西前田、西方に馬場の小字名があり、館跡であったことが推定されると言う。

 助戸宮脇館は、『足利市遺跡地図』によれば助戸公民館を中心とする一帯にあったらしい。現在は市街化で遺構は確認できない。しかし公民館の敷地には、「旧木村輸出織物工場」という明治に建てられた古い建物があり、県の文化財に指定されていて、そちらの方が見所がある。
旧木村輸出織物工場の事務所棟→DSCN2161.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329950/139.466715/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

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  • 発売日: 2012/02/01
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タグ:居館
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吉水陣屋(栃木県佐野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2154.JPG←石碑の建つ公園
 吉水陣屋は、吉水城とも呼ばれ、1616年に徳川家康の側近本多正純によって築かれた陣屋である。正純は、駿府城の徳川家康に仕えていわゆる大御所政治を支えた重臣で、1608年に小山藩3万3千石(1616年に5万3千石に加増)、更に1619年に宇都宮藩15万5千石へと累進したが、1622年に失脚し、改易された。吉水陣屋は1619年の宇都宮藩転封の際に天領となり、廃されたと言う。

 吉水陣屋は、清水城(興聖寺城)の東方に築かれていたらしい。昭和時代まで遺構の一部が残っていたらしいが、吉水駅前区画整理事業で完全に湮滅したと言う。現在周囲一帯は住宅団地となり、新吉水第1公園の中に城址碑が立っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.348375/139.579368/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県謎解き散歩 (新人物往来社文庫)

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タグ:陣屋
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梅沢兵庫正勝館(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2126.JPG←宝蓮寺周囲の段差
 梅沢兵庫正勝館は、梅沢城主梅沢石見守義久の一族梅沢兵庫正勝の居館である。『栃木県の中世城館跡』の梅沢城の項では、宝蓮寺を梅沢兵庫正勝の居館跡と推測していることから、ここでは梅沢兵庫正勝館として記載する。

 梅沢兵庫正勝館は、前述の通り宝蓮寺となっている。境内に掲げられた宝蓮寺の寺伝には、梅沢氏のことは何も書かれておらず、日光を開山した勝道上人が創建した寺とのことで、梅沢氏よりも遥かに歴史のある寺であるらしい。『栃木県の中世城館跡』が何を根拠に梅沢兵庫正勝の居館と推測したのかは不明だが、境内は確かに周囲の平地より一段高い高台となっていて、館跡らしい雰囲気を残しているのは事実である。
 尚、宝蓮寺から永野川を挟んで対面には藤沢城があり、北西600mの山上には不摩城があって、これらと連携していたことをうかがわせる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.446755/139.642174/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

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  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
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皆川城外郭(栃木県栃木市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN2085.JPG←墓地裏の空堀
 あまり知られていないかもしれないが、皆川城には外郭遺構がある。『栃木県の中世城館跡』の縄張図によれば、本城の置かれている城山の東に台地となった高台が2段あり、外周に切岸・土塁の防御線が構築されている。2段の内、下段の南東部には白山台と呼ばれる高台があり、古墳時代の祭祀遺構でもあるが、ここに最初に皆川庄を与えられて入部した長沼宗員系のいわゆる第一次皆川氏の居館があったと考えられている。この外郭から更に300~400m東に離れて皆川氏の氏神である東宮神社があるが、ここも切岸・土塁で囲まれた高台となっていて、出丸となっていたらしい。

 5月下旬にコロナ下で遠出もできなかったので、これらの遺構を探索した。最初に一番東にある東宮神社からスタートした。東宮神社の境内は、比高7~8mの高台となり、南側に明確な切岸がある。また神社の北側は運動公園となって変貌しているが、東西と南の神社との境に土塁が築かれており、西側にはわずかに空堀も残っている。また城山東の2段の外郭にも、民有地の脇に土塁と切岸が残っている。旧居館跡とされる白山台は、民有地の奥にある山林なので、踏査していないが遠目にも高台になっていることがわかる。東の外郭を、上段の切岸を通過して城山に近づいていくと、城山東南東の裾野に墓地があるが、その裏に大きくクランクする空堀が穿たれている。この空堀は、本城外周の防衛線を成す空堀の一部で、空堀内側の土塁は土橋を兼ねて空堀外側に繋がっており、この土橋の両側で、南の空堀と東の墓地裏の空堀が食い違いの形となっている。墓地裏の空堀は、90度折れて南東に降った後、更に南側に折れている。空堀の外側には墓地から民家まで取り巻くように、クランクする土塁が築かれている。
 栃木県内で、これほど外郭遺構がよく残る城は他に例がなく、見逃し難い遺構群である。

出丸西側の土塁と空堀→DSCN2061.JPG
DSCN2072.JPG←外郭下段の土塁
外郭奥の白山台(奥の杉林)→DSCN2076.JPG
DSCN2077.JPG←外郭上段の切岸
墓地裏から伸びる空堀・土塁→DSCN2116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:【東宮神社・運動公園の出丸】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.396493/139.691226/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【白山台】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395284/139.687461/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【墓地裏の空堀】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.395974/139.684896/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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小泉館(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1917.JPG←畑の北辺に残る土塁
 小泉館は、田野城主羽石内蔵介の幕下であった小泉小三郎の居館であったと伝えられる。1585年に久下田城主で結城氏麾下の勇将として名高い水谷蟠龍斎正村が田野城を攻略した田野合戦の際、羽石方の武将として小泉小吉左衛門秀兼・小泉次郎兵衛秀行・小泉七郎等の名が見える。しかし羽石氏滅亡と共に小泉氏も滅亡した。また、祖母井の平石家文書によれば、祖母井信濃守九郎兵衛定久(国胤)が小泉に居を構え、後に祖母井に移ったとも伝えられる。

 小泉館は、小泉集落南方の高台に位置しているが、現在は麦畑や果樹園に変貌しており、遺構はかなり失われている。しかし北辺に土塁が残存しており、土塁の北面は切岸による段差となっている。土塁は西端部が一番高くなっていて、櫓台が置かれていたと思われる。夏場で雑草が繁茂していたので土塁上の踏査はしなかったが、櫓台の所には祠が祀られているらしく、地元の方の話では水神さんと呼ばれているらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、畑の中に明確に方形の区画が確認できるが、現在残っているのは北辺部の塁線だけである。外周には空堀も廻らされていたようだが、これも現在は失われている。
 尚、この館の場所の特定に当たっては、益子町中央公民館の生涯学習課の方に情報を教えていただいた。この場を借りて御礼申し上げます。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.414160/140.084481/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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坪山城(栃木県下野市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1897.JPG←城址付近の現況
 坪山城は、1289年に下条民部太夫重慶が築城した城である。下条氏の事績については不明だが、勢力圏としては小山氏の領域になるので、小山氏の家臣であったものだろうか?1441年に結城合戦により結城城と共に落城し、廃城となったと伝えられる。

 坪山城は、田川東岸の平地に築かれた平城で、現在は一面の水田地帯に変貌し、遺構は残っていない。ただ、城址の北東にある東権現神社(廃工場の東に隣接)の碑の裏面に坪山城の事が書かれている。碑文によれば、神社より西南方約300mの位置にあり、東権現神社は城の守護社であったと言う。神社の南西ということは、逆に言うと城の北東、即ち鬼門の方角に神社があったことになるので、城の鬼門除けとして神社が祀られたのだろう。昭和30年代の航空写真を見ると、神社の南西に方形に近い形状の水田の区画が見えるので、これが城跡と思われる。現在は田圃整理で完全に痕跡は失われている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.370978/139.903722/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
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タグ:中世平城
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朝比奈館(栃木県壬生町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1788.JPG←朝比奈の五輪塔
 朝比奈館は、歴史不詳の城館である。実際に城館があったのかどうかも不明であるが、地勢としては恵川東岸の比高5m程の低台地の突端に当たり、城館が置かれても不思議のない場所である。その伝承も、伝説の色彩が濃厚で、鎌倉幕府の初代侍所別当の和田義盛の3男朝比奈三郎義秀にまつわるものであるらしい。館跡とされる丘には、「朝比奈の五輪塔」として町の史跡に指定されている大型の五輪塔があり、これが朝比奈義秀の墓と伝えられている。和田合戦で義盛が滅亡した際、義秀はこの地まで逃れ、追手の目をくらませるために自分の墓に見せかけてこの五輪塔を建て、その後いずこともなく去っていたと言う。しかし朝比奈義秀に関係する伝説的な史跡は東日本の各地にあるので、ここもその一つであり、俄には信じ難い。

 また朝比奈館から南東約500mの水田の中には、御熊野塚・尼恋塚という朝比奈義秀伝説に関連する塚も残っている。
水田の中に残る御熊野塚→DSCN1794.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:【朝比奈の五輪塔】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.490533/139.819629/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【御熊野塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486496/139.821882/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【尼恋塚】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.486789/139.822011/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館 墓所
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沼野井館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1769.JPG←館跡の高台
 沼野井館は、伊王野城主伊王野氏の家臣沼野井氏の居館である。文献上では永正年間(1504~21年)の上那須氏内紛の頃から現れ、簗瀬氏らと共に伊王野氏の家臣として活躍した。近世の初めには度々現れ、豊臣時代に水戸藩に出仕や帰農するような事情があり、館は廃されたらしい。沼野井氏の出自には二説あり、一つは1155年に鹿子畑から移り住んだという説、もう一つは鎌倉初期に那須氏の庶流須藤源蔵が沼野井に入部して沼野井氏の祖となったという説である。二説の内、どちらが正かは判然としないと言う。

 沼野井館は、余笹川西岸の丘陵の一突端上に築かれている。西だけが丘陵続きとなった高台で、現在は宅地や耕地となっている。高台という地勢以外は、明確な遺構は残っていない様である。民家の庭先のような畑なので入ることもできず、遠景を眺めたのみであった。
 尚、南方にある堂山はこの館の砦と言われる他、付近には「じんしろ」と呼ばれている所があり、一種の砦(陣城)と考えられると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.951341/140.125980/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
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簗瀬城(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1710.JPG←帯曲輪から見た主郭切岸
 簗瀬城は、簗瀬要害とも言い、下野の名族那須氏の庶流簗瀬氏の詰城である。那須資隆の3男幹隆は芋渕に分封されて芋渕氏を称し、芋渕要害に拠っていた。芋渕氏は、室町時代に入ると梁瀬に移って簗瀬氏を称し、簗瀬城を築いたと言う。梁瀬への移転時期は不明であるが、室町中期以降と考えられている。簗瀬氏は、永正年間(1504~21年)頃から諸記録にその名が現れ、伊王野氏麾下で活躍した。後に梁瀬は大関氏領となり、簗瀬氏は大関氏に仕えて、やがて黒羽に移り住んだと言う。

 簗瀬城は、余笹川流域から山一つ奥に入った山間の、標高283m、比高50mの山上に築かれている。西側の谷の所から小道が伸びており、これを登っていくと城の北の尾根に登ることができる。但し、この道の入口はほとんど薮に埋もれており、パッと見では道があるとはわかりにくい。登り着いた尾根を南に辿っていくと、やがて主郭北側の堀切が現れる。主郭は三方に尾根が伸びる頂部に位置しており、そのためT字を横にした様な、ちょっと変わった形の曲輪となっている。しかも郭内は何段もの段差に分かれており、北端部が一番高くなっている。最初に現れた北側の堀切は、東側に帯曲輪を伴っており、この帯曲輪はそのまま北東の尾根に繋がっている。北東尾根の先には段曲輪が数段築かれている。また前述の帯曲輪は主郭の東側に伸びている。主郭の南部は切岸が不明瞭なほぼ自然地形の幅広の尾根で、東斜面に横堀が穿たれ、南尾根には小堀切と小郭が置かれている。主郭の西部は明確な段差で数段に区画され、西尾根を堀切で分断している。この他、主郭からやや北西に離れたところにも段曲輪や小堀切がある。簗瀬城は、ほとんど単郭に近い小規模な城で、あくまで有事の際の詰城の位置付けであったと思われるが、周辺尾根にも守兵を配置して守りを固めていたことがうかがわれる。
主郭北側の堀切→DSCN1712.JPG
DSCN1747.JPG←主郭西側の堀切
主郭西部の段々の平場→DSCN1760.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.938959/140.152438/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

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田中要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1620.JPG←主郭と土橋・横堀(クリックで拡大)
 田中要害は、伊王野城主伊王野氏の家臣田中氏の居城と伝えられる。天正年間(1573~92年)に築かれたが、江戸初期に廃城となったと言う。

 田中要害は、民家の裏にある比高30m程の丘陵上に築かれている。南西麓の民家の裏から登り道があるので、民家のご主人に許可を頂いて訪城した。ほぼ単郭の小城砦で、主郭の周りには全周に横堀・帯曲輪を廻らしている。虎口は南側にあり、土橋が架かっている。主郭内は2段の平場に分かれ、下段は南に向かって傾斜している。外周の帯曲輪は、一部が横堀となり、背後の尾根筋も堀切となって区画している。防御の重要な部分だけ、横堀にして防御性を増している様である。地形も比較的なだらかなので、大した防御性を持たない城で、要害と言うよりは丘上の居館という感じの城である。戦国末期の城であるのに単純な縄張りであるのは、佐竹氏の侵攻に備えて平地の居館を丘上に移したためであるのかもしれない。
背後の尾根の堀切→DSCN1659.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.934603/140.168402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城

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  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/08/26
  • メディア: 単行本


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桜田要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1517.JPG←3郭虎口に架かる土橋
 桜田要害は、歴史不詳の城である。ただ、城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の情報によれば、永禄年間(1558~70年)頃に常陸の戦国大名佐竹義昭が武茂城を経由して白旗城に侵攻した際、小滝城を攻め落とすと青木要害は自落し、桜田要害の兵は降伏してきたと言う。従って、桜田要害は青木要害と共に那須氏の勢力によって築かれた城砦であったことがわかる。

 桜田要害は、標高290mの山上に築かれている。この山は直接街道に面しておらず、丘陵を一つ挟んだ奥に隠れるようにして築かれている。この様な選地の城は類例が少なく、私が過去に訪城した中では相模湯ノ沢城ぐらいしかなかったと思う。桜田要害へは、北の谷に入る林道があり、これを県道27号線から270m程西に入ると、南に登っていく作業用林道(南に入り込んだ谷の向かっれ右側の道)が分岐しているので、これを登って尾根上に至り、尾根を北西に辿れば城のすぐ南まで楽に行くことができる。道から逸れて山林の中に入ると、すぐに平場群が現れる。全部で5段の曲輪群がひな壇状に築かれていて、3段目(3郭)の外に空堀が穿たれている。空堀の中央には土橋が架かり、虎口に向かって右側(城内からだと左側)に横矢掛りの張出しが設けられている。いわゆる左袖である。この張出した塁線に沿って土橋脇の空堀はL字型に曲がっており、江戸時代の軍学風に言うと三日月堀と言うことになるだろう。土橋から3郭に進入すると、出枡形の虎口郭が2郭の外に突出している。最上部が主郭で、主郭の後部に櫓台・土塁が築かれている。この土塁は、くの字型に曲がって北東の細尾根に続いており、尾根上には小郭群が築かれ、先端部は物見台となっている。主郭背後には帯曲輪が築かれ、北西に伸びる背後の尾根筋に小郭2段と小堀切が穿たれている。桜田要害は、城の形態をよく留めているが、いずれの曲輪もそれほど大きくなく、段差の切岸もあまり鋭さがない。こうした遺構の状況と、街道筋から丘陵背後の尾根に隠れるように存在することから推測して、街道監視などはせず、伏兵を置いたり、或いは一部の兵の逃げ込み城であったりと、明確な意図を持って存在を隠した城だった様に思われる。
3郭周囲の空堀→DSCN1608.JPG
DSCN1593.JPG←北西尾根の小堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.905834/140.141795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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青木要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1368.JPG←腰曲輪から見た堀切・二ノ郭・横堀
 青木要害は、室町時代後期にこの地の土豪青木三河守という武士が築いて居城としたと伝えられる。城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の情報によれば、永禄年間(1558~70年)頃に常陸の戦国大名佐竹義昭が武茂城を経由して白旗城に侵攻した際、小滝城を攻め落とすと青木要害は自落し、桜田要害の兵は降伏してきたと言う。その他の歴史は不明である。

 青木要害は、龍念寺の背後にそびえる標高290mの山の北東の尾根に築かれている。普通ならば山頂に主郭を置くところだが、この城では山頂ではなく、そこから降った尾根の途中に主郭置く珍しい縄張りとなっている。城郭関係HPで下調べした時にはこの事がよくわからず、またWebに載っている縄張図とスーパー地形との整合がよく掴めなかったため、城の縄張りがよくわからない中での訪城となった。山中での城の位置関係がわかっていなかったので、とりあえず龍念寺の墓地奥から山林の斜面に適当に取り付いて、山頂から南東に伸びる尾根に登った。この尾根には段曲輪や小規模な枡形虎口があり、城域の一部であったらしい。この尾根を登って山頂に至ると、ゴツゴツした岩場だらけで、岩の上に祠が置かれている。ここから西の尾根にも段曲輪があるが、これらは外郭に当たる。主城部は、山頂から北東に降ったところにある。ちょっと尾根を降ると浅い堀切が穿たれ、更に降っていくと深い堀切が現れる。これが主郭背後を分断する堀切で、ここから東側が主城部となる。
 青木要害は、大きく3つの曲輪で構成されている。尾根上に主郭を置き、堀切を挟んで東に扇形に開いた形状の二ノ郭を配置し、主郭の北東にも堀切を挟んで三ノ郭が配置されている。主郭は後部に土塁を築いているが、最高所は単なる物見台でほとんど居住性はない。また郭内は細尾根となって傾斜し、下方に末広がりの平場が2段築かれている。この平場が主郭の本体である。つまり主郭は、山形の砂子沢楯の二ノ郭と同様に、下方に主体となる平場を置き、その上には自然地形の斜面があって、最高所に櫓台(物見台)曲輪をそびえさせた構造となっている。主郭の北東には腰曲輪が築かれ、二ノ郭・三ノ郭に通じている。二ノ郭・三ノ郭はやや削平の甘い曲輪で、内部が傾斜している。この城で出色なのは、各曲輪の外周に廻らされた横堀とそこから落ちる竪堀である。まず主郭は、背後の堀切から主郭の尾根の南北両側に横堀が伸び、南側の横堀は直角に曲がって竪堀となって落ちている。また北側の横堀は、途中でクランクしており、そこから竪堀が落ちている。クランクの先の横堀は、主郭の下段平場の北側まで伸びて、先端で直角に曲がって竪堀となって落ちている。また主郭の竪堀状虎口とも繋がっている。二ノ郭も北側に延々と横堀を穿っており、先端近くでクランクすている。堀の外側の土塁は、東端部が北の谷に向かって緩斜面となって広がり、ここに腰曲輪群が築かれている。また二ノ郭南東角には堀切が穿たれ、二ノ郭南側の帯曲輪から竪堀が落ちている。三ノ郭も北西側に横堀が延々と穿たれており、やはり先端近くでクランクしている。これらの横堀はいずれも堀切と繋がっている。三ノ郭の先端には、段曲輪群が築かれており、横堀はその横を竪堀となって落ちている。尚、下山時に気が付いたが、山頂から南東に伸びる尾根の先端付近(寺の背後)にも堀切が穿たれている。
 以上が青木要害の遺構で、横堀のオンパレードで、要所で横矢掛りを設け、堀切・竪堀を効果的に組み合わせている。規模は異なるが、まるで岩櫃城の様で、那須地域でも屈指の山城である。
主郭の横堀・堀切→DSCN1309.JPG
DSCN1455.JPG←主郭南側の竪堀
二ノ郭の横堀→DSCN1377.JPG
DSCN1327.JPG←堀切と三ノ郭
三ノ郭の横堀→DSCN1352.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.913460/140.142578/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


廃城をゆく (イカロス・ムック)

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  • 出版社/メーカー: イカロス出版
  • 発売日: 2010/06/28
  • メディア: ムック


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てんちゃんが星になってから2ヶ月 [日記]

DSC_8531.JPGありし日のてんちゃん

うちの愛娘、セキセイインコのてんちゃんが星になってから、
早いものでもう2ヶ月が経ちました。

家にいる日は毎日、庭の片隅に作ったお墓にお参りしています。

てんちゃんの愛らしい仕草は、永遠に忘れられないでしょう。

てんちゃん、天国でも毎日楽しく遊んでいてね。

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大塚要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1232.JPG←二ノ郭の土塁と空堀
 大塚要害は、大関氏の家臣矢野氏の城と伝えられる。矢野氏は下野の名族小山氏の一族で、天正年間(1573~92年)の末頃に大関氏を頼ってこの地に移り、大塚要害を築いたと言う。

 大塚要害は、東に突き出た比高10m程の低丘陵の先端部に築かれている。城地は現在、南半分が畑となっており、しかも土取りされているらしく丘陵より低くなってしまっている。従って遺構が残っているのは畑の北側の山林部分となる。ここは進入困難な劇薮と乱雑に伐採された薮がそのまま放置されているので、踏査が大変である。東端に主郭を置き、その西側に二ノ郭を配置していた様である。前述の通り劇薮なので全体像が把握しづらいが、主郭は西から北にかけてL字型に土塁と空堀が築かれ、二ノ郭は西から南にやはりL字型に折れた空堀と土塁が確認できる。但し二ノ郭の空堀は、外側に当たる西に向かって折れている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、主郭部分には薄っすらと方形の区画が確認できるので、主郭は方形の曲輪だったらしい。残っている遺構だけでも、整備と保護の手立てを講じてほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.920323/140.144230/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史 (県史)

栃木県の歴史 (県史)

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2012/02/01
  • メディア: 単行本


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羽黒山要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1112.JPG←下から見上げた2段の帯曲輪
 羽黒山要害は、この地の土豪大久保氏が築いた城と考えられている。北西麓の平地には大久保氏の居館である大久保館があり、それに対する有事の際の詰城であったのだろう。

 羽黒山要害は、前松葉川と木佐美沢の合流点南側にそびえる標高373m、比高130mの羽黒山に築かれている。北麓に木佐美沢を渡る小さい橋があり、そこから登城した。途中まで山道があるが、東の谷沿いに登っていってしまい、挙句の果てに道が消失してしまうので、適当な所から右手の北尾根に取り付いて、尾根筋を登った。尾根にはわずかな踏み跡があり、それを登っていくと、途中に曲輪らしい平場と堀切が現れる。主郭は更にしばらく登った位置にある。山頂の主郭には羽黒山神社が祀られ、黒羽山の会が設置した「羽黒山 373m」というプレートがある。主郭は小さな円形の曲輪で、わずかに土塁も見られる。主郭の外周には、北西から南・南東にかけて、2段の帯曲輪が廻らされている。下段の帯曲輪は土塁を伴って横堀状になっている。東に尾根を降っていくと、広い緩斜面が広がっており、明確な普請の跡はあまりないが外郭だったと思われる。外郭のある尾根は南東に降っていて、その先にわずかな段差があって腰曲輪が築かれている。その先には物見台のような高台があり、その先を明確な堀切で尾根筋を分断している。以上が羽黒山要害の遺構で、規模は小さいものの普請は明確であり、詰城らしい様相を示している。
北尾根の堀切→DSCN1106.JPG
DSCN1129.JPG←主郭
横堀状の帯曲輪→DSCN1149.JPG
DSCN1169.JPG←南東端の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.905431/140.167469/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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田沢要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1062.JPG←龍蓋山の山頂(主郭?)
 田沢要害は、歴史不詳の城である。恩地要害・山口館などと野上川沿いの沖積地を隔てて相対する位置にあり、常陸道や両郷道を脚下に見られる地点であることから、それらに備えた砦と推測されている。この地は天正年間(1573~92年)末頃まで伊王野城主伊王野氏の領地であったので、伊王野氏が築いた砦であろうか?

 田沢要害は、標高370.9mの龍蓋山に築かれていると思われる。龍蓋(りゅうがい)とは即ち要害の転訛である。城郭関係のHPでは登山した情報は皆無であるが、登山関係のHPに情報があるので、それらを参考にして登城した。国道461号線から龍蓋山の南西麓に至る小道があり、それを谷にちょっと入った所で左の尾根に取り付いて登った。踏み跡はわかるかわからないか程度で、途中でほとんど消失してしまい、結局斜面を直登することになった。山頂部はほとんど自然地形の平場で、黒羽山の会が設置した「龍蓋山 371m」のプレートと三角点がある。山頂の南側にわずかに腰曲輪らしい平場がある他、東に続く尾根に段曲輪っぽいものが見られる。しかしいずれも普請はわずかであり、自然地形に近い。堀切もなく、結局龍蓋という名前以外に、ここが城砦跡という確証は得られなかった。単なる物見の砦であったのだろうか?
南の腰曲輪らしい平場→DSCN1060.JPG
DSCN1070.JPG←東尾根の段曲輪らしい平場

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.871038/140.160688/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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館野御前要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1017.JPG←丘陵西端部の腰曲輪状の平場
 館野御前要害は、館野氏が築いた城と言われる。築城者は館野宝賢と伝えられるが、館野氏についても宝賢についても、その事績は不明である。

 館野御前要害は、那珂川東岸の比高60m程の丘陵上に築かれている。ただ、本当にこの場所が要害跡なのか確証はなく、城巡りの先達「余湖くんのお城のページ」の記載に従った。丘陵の南に谷があり、そこを登っていく小道があるので、そこを途中まで登って丘陵に取り付いた。この丘陵は、後部は高台となっているが背後のくびれ部に堀切はなく、あまり城郭らしさが感じられない。ただ丘陵の南斜面には2段の帯曲輪らしい平場があり、丘陵の西端部にも腰曲輪らしい平場がある。但しこれらも遺構ではなく、植林や耕作で改変された地形である可能性もある。何しろ丘陵の内部は広い緩傾斜地で、全くの自然地形の様である。仮に城であったとしても、土豪の城館というよりは、軍団を駐屯させるための一時的な陣城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.837660/140.134875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

  • 作者: 松岡 進
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/02/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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恩地要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0971.JPG←主郭背後の堀切
 恩地要害は、恩地城とも言い、大関氏の家臣益子但馬守信勝の居城と伝えられる。信勝は、宇都宮氏の重臣益子氏の一族と思われるが、天正年間(1573~92年)の末頃に益子を逃れて大関氏を頼って来て、この地を与えられて移り住んだと言う。

 恩地要害は、野上川南岸に連なる丘陵地の一角に築かれている。比高60m程で、北西に伸びる尾根上に城地がある。北西から林道が伸びているので、訪城は容易である。この林道は上まで登ると尾根を貫通しているが、これが恩地要害の堀切である。堀切の北西が主郭で、主郭南東端の堀切沿いには土塁が築かれている。また東には枡形虎口と思われる土塁が見られる。また主郭の堀切沿いの南側に段曲輪も見られる。しかし肝心の主郭はほぼ自然地形で、北端も切岸がなくダラダラと降っている。恩地要害は、あまり防備を固めた城館ではなく、益子氏が亡命者という立場上、強固に守りを固めた城館は必要なかったということなのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.864446/140.153264/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


パーツから考える戦国期城郭論

パーツから考える戦国期城郭論

  • 作者: 西股総生
  • 出版社/メーカー: ワン・パブリッシング
  • 発売日: 2021/03/01
  • メディア: 単行本


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尻高田要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0952.JPG←主郭外周の横堀
 尻高田要害は、那須七騎の一、伊王野城主伊王野氏が天正年間(1573~92年)に佐竹氏の侵攻に備えて築いた城と伝えられている。この地は伊王野からは離れているが、伊王野氏の所領であった。

 尻高田要害は、野上川西岸の標高336m、比高90mの山上に築かれている。北麓に発電設備と掲示されフェンスで囲まれた小屋があり、その脇を山に入る小道が通っている(小川に架かる丸太の小橋がある)。その道は、北尾根の東斜面を登っていくが、途中で道がわからなくなったので、適当なところから北尾根に登り、あとは細尾根を南に登っていけば城に至る。最初に現れるのが前面の円弧状の堀切で、その手前には土塁が築かれ、堀切の両側は竪堀で落としている。また堀切の西側には帯曲輪が延々と伸びている。この時は帯曲輪を先まで追うことはしなかったが、スーパー地形で見ると延々と二ノ郭の西から南まで巡って、二ノ郭背後の堀切まで繋がってる様である。最初の円弧状堀切の上には主郭外周を廻る横堀が構築されている。主郭が楕円形をしているので、横堀もそれに沿って半円形になっている。横堀の北には竪堀状虎口があり、北東部にも竪堀が落ちている。横堀の南東端部も竪堀となって落ちている。楕円形の主郭内には段差があるが、郭内はイノシシで荒らされており、表土が至る所でほじくり返されてしまっている。主郭の背後には堀切を挟んで二ノ郭がある。二ノ郭は劇薮で、ほとんど踏査できない。二ノ郭の南には二重堀切が穿たれている。二ノ郭の南東にはくの字状の尾根に築かれた三ノ郭がある。三ノ郭の南から西にかけても横堀が穿たれて、城域が終わっている。横堀を多用した城であるが、横矢掛りは見られず、縄張りにはあまり技巧性は感じられない。
三ノ郭外周の横堀→DSCN0930.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.859862/140.170108/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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須賀川要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0675.JPG←帯曲輪の上にそびえる主城部
 須賀川要害は、常陸の戦国大名佐竹氏が那須氏の侵攻に備えて築いた城とされる。戦国時代にこの一帯は佐竹氏の領地であったらしい。しかし、那須氏が佐竹氏に備えて築いた城との説もある。いずれにしても、戦国後期の佐竹義重の時代には、佐竹氏は度々那須氏の領国に攻め込んでいるので、その頃に境目の城として重視されたのだろう。

 須賀川要害は、栃木・茨城の県境に近い須賀川集落の西の山上に築かれている。押川西岸の標高366m、比高80m程の山で、南東麓から西の谷戸に入る山道があり、その道の途中から南東の支尾根に登ればよい。この支尾根には前衛となる大手曲輪群が築かれており、平場群の他に堀切も確認できる。大手曲輪群の最上段となる東郭には腰曲輪が築かれ、東の支尾根にも段曲輪群が築かれている。東郭から更に北西に尾根を辿ると、3段程の段曲輪群の上に主城部がそびえている。主城部は、南西に伸びる尾根上に築かれており、4つの曲輪を堀切で分断して配置した連郭式の縄張りである。整備された山林なので、段曲輪から主城部を見上げると、東側に築かれた2段の帯曲輪の上にそびえる切岸がきれいに眺められる。尾根上の曲輪は、北東端に二ノ郭を置き、土橋の架かった堀切を挟んで主郭がある。主郭の南西には堀切を挟んで三ノ郭、更に堀切を挟んで四ノ郭が配置されている。主郭と三ノ郭の西側にも帯曲輪が築かれ、主郭背後の堀切は長い竪堀となって落ち、西の帯曲輪を貫通している。また主郭の東に支尾根があり、そこにも帯曲輪群が幾重にも築かれている。須賀川要害は、大規模な城ではないが、普請はかなりしっかりしており、境目を守る重要な城であったことをうかがわせる。
主郭背後の堀切→DSCN0786.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.842761/140.231155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国佐竹氏研究の最前線

戦国佐竹氏研究の最前線

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/03/30
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金丸氏要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0405.JPG←主郭外周の横堀
 金丸氏要害は、下野の豪族那須氏の庶流金丸氏の居城である。正平年間(1346~70年)に那須資藤の次男資国が金丸の地を与えられて金丸肥前守と称し、根小屋館を築いて居館とした。その後、応永年間(1394~1428年)に大関氏が根小屋館の北方に白旗城を築いて居城を移すと、金丸氏は亀山の地を与えられて要害を築き(金丸氏要害)、居城を移したと言う。永正年間(1504~21年)には、上那須資親の実子資久が3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗り、金丸肥前守義政は大田原美作守胤清と共に資久を預かり養育したと言う。当時、那須氏は上・下那須両家に分裂しており、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたが、養父資親は実子資久の後継を望み、このことが上那須氏を滅亡させることとなった。その経緯は福原城の項に記載する。尚、資久が山田城に入ったのは、金丸氏がわずか3歳の資久を庇護するため、居城のすぐ北に独立峰としてそびえる山田城が適地とされたためであろう。その後金丸氏は、下那須氏によって再統一された那須氏の家臣として各地の合戦に従軍した。しかし1590年の小田原の役の際、豊臣秀吉の元に参陣した大関高増は、金丸氏を家来として申し出たため、金丸氏の領地は大関領として秀吉に認められてしまった。一方で那須氏は改易されたため、以後金丸氏は大関氏の家臣となり、居城を捨て麓に移り住んだと言う。

 金丸氏要害は、標高201m、比高60mの丘陵上に築かれている。北の県道27号線から南に入る林道があり、未舗装路で少々荒れているが、車で城のすぐ脇まで行くことができる。主郭を中央に置き、北西に細長く伸びる二ノ郭を配し、南には三ノ郭・四ノ郭を配置した縄張りとなっている。いずれの曲輪も規模が大きい。主郭は至るところで塁線が内側に歪んでいて、複雑な横矢掛りを形成し、全周横矢とも言うべき構造になっている。主郭の東から北にかけては大規模な空堀が廻らされ、二ノ郭・三ノ郭との間は大きな堀切で分断している。主郭内には土塁や櫓台らしい土壇が築かれ、南西に築かれた主郭虎口には小規模な枡形虎口が構築されている。虎口の外側前面には高台の堡塁が置かれて、虎口に攻め込む敵兵を背後から攻撃できるようにしている。二ノ郭は基部に土塁が築かれ、東西に腰曲輪が廻らされている。西側の腰曲輪の一部は横堀となっている。主郭と二ノ郭の土塁配置からすると、両郭は木橋で連結されていたらしい。主郭南の三ノ郭は広大で、郭内は西側が一段低くなり、東西には横堀が構築されている。主郭と三ノ郭の西側にかけては広い腰曲輪が広がり、その南端部から北西に向かって堀底道が下っており、往時の大手道であったと考えられる。この大手道が腰曲輪に繋がる部分の北側には櫓台が築かれて、大手を厳重に監視している。三ノ郭の南には浅い堀切を挟んで四ノ郭がある。四ノ郭は南東に向かって3段に分かれ、徐々に降る形となっている。四ノ郭の南には台地基部を分断する堀切が穿たれ、更に南東の斜面に大竪堀が落ちている。以上が金丸氏要害の構造で、大型の横堀群を多用して防御を固めた、戦国期の城の姿をよく留めている。堀はほとんどが箱堀形状となっていて、幅を広く持たせているのもこの城の特徴である。ただ全体に薮がひどく、特に三ノ郭やその西の腰曲輪は激薮で、見栄えしないのが残念である。
堀底道となっている大手道→DSCN0560.JPG
DSCN0609.JPG←四ノ郭の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.812360/140.141033/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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亀山城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0316.JPG←土塁で囲まれた主郭
 亀山城は、山田城とも言い、鎌倉初期に那須資隆の8男片田(堅田)八郎義隆によって築かれたと伝えられる。南西の平地には山田館(大関城)があり、義隆は山田館を平時の居館とし、亀山城を詰城としたと思われるが、後に片平城を築いて本拠を移し、以後は片平氏を称した。時代は下って戦国前期、那須氏が上・下那須両家に分裂していた時代に、上那須資親の実子資久は3歳で山田城(亀山城)に移され、山田次郎を名乗った。これは、既に白河結城氏から入嗣した資永が上那須氏の家督を継いでいたからであった。しかし資親は、資永を廃して実子資久に跡を継がせたいと思うようになり、重臣の大田原胤清・金丸義政に相談したが間もなく死没した。大田原・金丸両氏は資親の遺命を奉じて、資永のいる福原城を攻撃した。資永は、関義時・田川時法に命じて山田城を襲撃し、資久を奪取して福原城において刺殺した。このため山田氏は資久一代で滅亡したと言う。資久を殺した資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。しかし結果として資永・資久を失った上那須氏は断絶となり、下那須資房が跡を継いで両家を統一した。資房は、白河結城氏の攻撃に備えるため、1516年に山田城に子の政資を置いた。1520年、白河結城氏・岩城氏が山田城を攻撃し、これがきっかけで縄釣台(なわつるしだい)合戦が生起したと伝えられる。縄釣台合戦については不明点も多いが、那須氏が勝利したらしい。その後の亀山城の歴史は不明である。

 亀山城は、上那須家の滅亡に直接関わる重要な城であるが、城そのものは至って小さい。金丸氏要害のすぐ北西に隣接する比高50mの山上に築かれている。県道298号線と県道343号線が交わる片田交差点から少し南へ歩いた所に竹薮があるので、そこを突っ切って北西の尾根に取り付くと、小道が付いている。ほぼ単郭の城で、山上に主郭を置き、南西と北側に腰曲輪を設けただけの縄張りである。主郭が外周に土塁がよく残っており、北に大手虎口が設けられ、北東部に横矢の張出しが構築されている。また西と南西に南西の腰曲輪への虎口が2ヶ所築かれている。主郭の北側の腰曲輪は細長く伸びており、北東では横堀となっている。主郭の南東部は採石で土塁ごと消滅している。この他、北東から登る大手道には小郭らしい平場や竪堀が見られる。また北側の最下段には高台になった平場があり、根古屋があった可能性がある。小規模ではあるが普請がしっかりされており、横矢掛りなど戦国期の城の形態をよく留めている。
大手道脇の竪堀→DSCN0306.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.815280/140.139939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


栃木県の歴史散歩

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  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


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佐久山館要害(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN0249.JPG←堀切と二ノ郭切岸
 佐久山館要害は、この地の土豪大輪氏の要害と伝えられているが、大輪氏の事績は不明で、築城年代も不明である。

 佐久山館要害は、那須与一宗隆の父資隆が築いたと伝承される高館城の南東に隣接して築かれている。高館城の南の駐車場から、東に尾根を進んでいくと登りの尾根となり、すぐに段曲輪群が現れる。ここからが佐久山館要害の城域となる。段曲輪群の中ほどには片堀切状の窪地がある。段曲輪群を登り切ると、尾根上には二ノ郭がある。二ノ郭はL字型をした曲輪で、その一番奥に高台となった主郭が置かれている。ただ主郭と二ノ郭の間の段差は傾斜が緩く、あまり明確には区画されていない。主郭・二ノ郭の周囲には腰曲輪が延々と築かれており、その一部は横堀となっている。二ノ郭の北東には堀切を挟んで三ノ郭がある。三ノ郭は細長い曲輪で、先端はL字に曲がって北に向かって下る尾根となっているが、ここには段曲輪群が築かれている。この段曲輪群の東側方には坂道状の腰曲輪が築かれている。三ノ郭には、南側から東側にかけて横堀が構築されているが、この外周の横堀は一部で腰曲輪+土塁の形状となっている。佐久山館要害は、比較的素朴な縄張りの城で、戦国時代以前の構築を想像させる。
主郭周囲の横堀→DSCN0228.JPG
DSCN0272.JPG←三ノ郭周囲の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.906752/140.131763/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

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  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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八幡館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN1019.JPG←横矢掛りの堀切
 八幡館は、黒羽城の前身となる城である。那須氏の重臣角田氏の居城で、角田庄右衛門の築城と言われる。角田氏は三浦氏の後裔を称し、後に大関氏に従った。天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いて移り、奥沢氏を称したと言う。

 八幡館は、黒羽城中心部の北東にやや離れて位置し、黒羽城が拡張整備された際にその外郭の一部となったらしい。黒羽体育館が建つ黒羽城二ノ丸の北東に上城(石上台)と呼ばれる一郭があるが、ここから北が八幡館の城域となる。上城・本館・北館の3郭が南北に並んだ連郭式の縄張りとなっている。上城の郭内は、宅地・山林・畑となっており、南半分は大きく改変を受けている。上城の北には横矢掛りのクランクがある大きな堀切が穿たれている。この堀切に沿って、上城側には土塁が築かれているが、主郭である北の本館側にはほとんど土塁がない。従ってこの部分は黒羽城築城の際に大きく改修されたことがわかる。堀切の北は縦長の本館で、主郭に相当する。広い曲輪で東西に腰曲輪を伴っている他、東側の一部には車道脇に横堀が残存している。本館の北端近くには鎮国神社が建ち、北端を幅広の堀切で分断している。その北には舌状の北館があり、北館の北端部には数段の段曲輪が築かれて城域が終わっている。遺構を見る限り、八幡館は黒羽城築城の際に大きく改修されている様で、当初の姿は想像する他ないが、黒羽城の北の外郭遺構としても立派な姿を残している。
本館北側の堀切→DSCN1060.JPG
DSCN1105.JPG←車道脇に残る横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.873270/140.123974/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

戦国の城の一生: つくる・壊す・蘇る (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 英文, 竹井
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2018/09/18
  • メディア: 単行本


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