四条氏屋敷(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]
←四条金吾頼基夫妻の墓
四条氏屋敷は、鎌倉後期に北条氏一門の江馬氏の被官であった四条金吾頼基の屋敷である。頼基は中務三郎左衛門を称し、唐名により四条金吾と呼ばれた。日蓮に深く帰依し、1300年3月15日に71歳で没すると、屋敷跡を寺としたと伝えられる。その寺が内船寺であると言う。但し、内船寺は1288年に四条金吾が開基したとも言われ、いずれが正しいのかはわからない。
四条氏屋敷は、前述の通り内船寺の境内となっている。内船集落背後の丘陵上に位置し、眺望に優れる要害の地であり、土豪の居館を置くには適地であったと思われる。但し土塁などの遺構は残っていない。内船寺の墓地には、四条金吾頼基夫妻の墓がある。
ちなみに、Google日本語入力で「四条金吾」と入力すると、変換候補一覧の中に「四条金吾殿御返事」と出るので、何だろうとググったら、日蓮上人の御書全集に出てくる文書で、日蓮が四条金吾頼基宛に佐渡の配流地などから出した手紙のことらしい。四条金吾頼基は、創価学会では有名人らしい。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.287903/138.465972/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
四条氏屋敷は、鎌倉後期に北条氏一門の江馬氏の被官であった四条金吾頼基の屋敷である。頼基は中務三郎左衛門を称し、唐名により四条金吾と呼ばれた。日蓮に深く帰依し、1300年3月15日に71歳で没すると、屋敷跡を寺としたと伝えられる。その寺が内船寺であると言う。但し、内船寺は1288年に四条金吾が開基したとも言われ、いずれが正しいのかはわからない。
四条氏屋敷は、前述の通り内船寺の境内となっている。内船集落背後の丘陵上に位置し、眺望に優れる要害の地であり、土豪の居館を置くには適地であったと思われる。但し土塁などの遺構は残っていない。内船寺の墓地には、四条金吾頼基夫妻の墓がある。
ちなみに、Google日本語入力で「四条金吾」と入力すると、変換候補一覧の中に「四条金吾殿御返事」と出るので、何だろうとググったら、日蓮上人の御書全集に出てくる文書で、日蓮が四条金吾頼基宛に佐渡の配流地などから出した手紙のことらしい。四条金吾頼基は、創価学会では有名人らしい。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.287903/138.465972/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館