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菅沼城(山梨県身延町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN3413.JPG←南西斜面の腰曲輪群
 菅沼城は、1582年の天正壬午の乱の際に徳川氏によって新規築城された城である。1582年6月2日本能寺の変が起こり、堺に滞在していた徳川家康は、決死の伊賀越を敢行して6月4日に岡崎城に帰還した。そして領内に密かに匿っていた武田遺臣達を次々と召し出し、甲信の国人衆へ徳川方に帰属するよう工作を開始した。6月6日には、駿河衆の岡部次郎右衛門正綱に命じて、下山地域に築城することを命じた。こうして築かれたのが菅沼城である。下山地域は武田一族で勝頼を裏切って織田方に投じた穴山梅雪(信君)の所領であったが、本能寺の変後の混乱の中で梅雪とその重臣達が落人狩りで落命し、穴山氏には幼い嗣子勝千代が残されただけであった。家康は、穴山氏家臣団を徳川方に従属させるとともに、徳川領北方の備え、及び甲斐侵攻に当たっての富士川沿いの軍事・補給ルートの確保を企図していたと考えられる。この後、甲斐に侵攻した家康は、小田原北条氏の侵攻に対応するため、諸将を各地の城に配置した。菅沼城には菅沼藤蔵定政を置いて富士川筋の守備に当たらせた。菅沼城の呼称は、城将菅沼氏に由来する。天正壬午の乱終結後の菅沼城の動向は不明であるが、1587年に穴山勝千代が夭折して穴山氏が事実上断絶すると、穴山氏旧領の河内領9千石は菅沼定政に与えられた。1590年の小田原の役では河内郷士21騎を率いて下総小金城に出陣した。小田原の役後、菅沼氏は下総守谷城に移封となり、菅沼城は1602年に廃城になったと言う。

 菅沼城は、冨士川西岸の比高70m程の丘陵南端に築かれている。古い航空写真を調べると、1970年代前半に中富中学校が主郭跡に建設されて主要部の遺構が破壊されてしまった。その中学校も2016年に廃校となり、現在はドローン会社の所有地になっている。その為主郭内の無断踏査はできない。旧校地の南東には舌状に張り出した二ノ郭があり、その西側の南斜面から西斜面にかけては腰曲輪群が築かれている。しかし夏場だと二ノ郭は草茫々である。また腰曲輪群の中にはコンクリートの護岸があり、腰曲輪も改変を受けているらしい。山林の中に城道らしい山道が南麓から残っていて、往時の大手道であるらしい。以上が現在の遺構の状況であるが、1950年代後半の航空写真を見ると、二ノ郭は現在残るよりも北に大きく広がっており、主郭とは横矢掛りの屈曲を伴う切岸で区画されていたらしい。また主郭の北西端には物見台のような突出部があり、西側には延々と腰曲輪が築かれていた様である。築城時期が明確な、戦国末期の貴重な城であったが、高度成長期の開発で失ったものは大きい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.470361/138.442283/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


天正壬午の乱 増補改訂版

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