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安楽寺城(富山県小矢部市) [古城めぐり(富山)]

DSCN7001.JPG←主郭の土塁
 安楽寺城は、この地の土豪高橋氏の居城と伝えられる。南北朝期の1369年には高橋與次衛門が居住していたと伝えられる。天文年間(1532~55年)には高橋與十郎則秋が城主であったが、木舟城主石黒左近将監と争い、野寺村で討死したと言う。その後、松岡新左衛門、久兵衛という武士がこの城に立て籠もったとされる。

 安楽寺城は、幹線国道8号線の源平トンネルの真上、標高172m、比高122mの山上にある。登道は、源平トンネル西出口のすぐ脇に付いていて、これを登って尾根上の鉄塔まで行き、そこから更に南東方向に進むと城域に至る。しかし現在城跡は、背丈ほどもある笹薮で主郭以外の全域が埋もれており、道も途絶しかかっていて山城上級者でなければ迷って遭難するリスクがあるので、山城初心者は訪城はやめた方が良い。遺構は笹薮でわかりにくいが、鉄塔の先を進んでいくと鞍部の地形があり、堀切であるらしい。しかも現地解説板の縄張図によれば二重堀切であるらしいのだが、二重かどうか全くわからない。その先は広い平場になっていて、曲輪が築かれ、土塁もあるらしいが、これも全くわからない。辛うじて方形の主郭だけ、土塁の囲郭になっていることがわかる。主郭の北と西には空堀が穿たれているが、これもほとんど形状を追うことができない。主郭の東下方には井戸跡が残っている。この他、主郭周囲にも緩斜面が広がっており、腰曲輪となっていたらしい。南の尾根には2本の堀切もあるようだが、笹薮が酷くて未確認である。以上が安楽寺城の遺構で、10年程前は綺麗に薮払いされていたようだが、現在では踏査を阻む薮に覆われて、残念な状況である。
鞍部の二重堀切→DSCN6983.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.676998/136.840081/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

越中中世城郭図面集 3 西部(氷見市・高岡市・小矢部市・砺波

  • 作者: 佐伯 哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2013/12/01
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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鴨城・元取山砦(富山県高岡市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6875.JPG←広大な二ノ郭
 鴨城は、南北朝時代に室町幕府方の軍勢が一時駐屯していた城である。『二宮円阿軍忠状』によれば、足利一族の名門斯波高経の重臣であった二宮円阿は、1362年に2代将軍足利義詮と主君高経の命を受け、観応の擾乱以来室町幕府に敵対していた元越中守護桃井直常を討伐する為越中国に出陣した。和田合戦などを転戦した後、約5ヶ月間、和田城(増山城か?)を警固した。1363年3月、和田城において「鴨城衆」を命じられて鴨城に入り、5月12日に鴨城衆と共に頭高城(頭川城か?)を攻略し、焼き払ったと言う。

 鴨城は、標高155mのカモ山に築かれている。城は市の史跡に指定されており、散策路が完備されているので迷うこと無く登ることができる。登り口は複数あるが、私は東麓の七曲坂登り口から登城した。カモ山山頂付近には広大な平坦地が広がっており、城はこの平坦地をそのまま軍団の駐屯地としていたらしい。現地標識に従えばここは二ノ郭で、緩やかな傾斜地が広がっている。南西に向かって上り勾配となっており、南西端は高台となっている。頂部は小さな平場があり、ここが主郭とされる。主郭周辺には腰曲輪状の平場が付随している。南にも腰曲輪が数段あるようだが、草木が繁茂していて形状が把握できない。この城で出色なのは、二ノ郭の北と西に穿たれた横堀で、城内通路を兼ね、北西部で2つの堀が直交している。北の横堀は東に進むに従って腰曲輪に変化している。また二ノ郭の南東に張り出した尾根先端部には「にらみ山砦」と言う出丸があり、その名の通り眼下を監視する物見であったのだろう。この尾根の付け根には、両翼にわずかに堀切が穿たれている。

 元取山砦は、鴨城の背後に築かれた物見の砦で、標高195.7mの元取山に築かれている。位置関係からして鴨城と一体となって機能していたことは疑いがない。鴨城から繋がる尾根の鞍部を越えて西に進むと、4つの小堀切があり、その先に元取山山頂がある。鴨城本丸以上に小さな平場であるが、眺望に優れ、小矢部川から庄川の間に広がる平野部が一望できる。

 以上が鴨城・元取山砦の遺構で、大雑把な城の構造はいかにも南北朝期の城らしい。遺構から見る限り、戦国期にはあまり顧みられなかったようである。
二ノ郭西の横堀→DSCN6917.JPG
DSCN6934.JPG←元取山砦手前の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【鴨城】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.728300/136.915998/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【元取山砦】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/36.726924/136.912651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 森 茂暁
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2014/01/16
  • メディア: Kindle版


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蜷川館(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6821.JPG←西の土塁
 蜷川館は、蜷川氏の居館である。蜷川氏は、1180年の源頼朝挙兵の際に宮道親直が参陣した軍功により、越中国砺波・新川両郡を拝領し、新川郡蜷川郷に住して蜷川氏を称したことに始まる。室町時代には、幕府の政所執事となった伊勢氏と強い紐帯で結ばれ、伊勢氏に仕えて政所代を務めた。この頃には蜷川氏宗家は本拠を丹波国に移し、当主は新右衛門を名乗った。一方、越中国の蜷川館には、蜷川氏一族が残って代々の居館としたらしい。1566年、12代常嗣は神保氏との戦いで敗死し、蜷川館は落城した。

 蜷川館は、最勝寺と富山県健康増進センターの敷地にあった。南北2郭で構成され、最勝寺境内が南郭、健康増進センター敷地の西半が北郭であったらしい。北郭は改変により遺構は完全に消滅しているが、南郭は寺の周囲に土塁の一部が残存している。明確なのは境内西側の土塁である。また南と北の土塁も部分的ではあるが、遺構であることがわかりやすい。寺の北西のわずかな土盛りも土塁遺構とされるが、こちらはほとんど消滅しかかっている。尚、北の土塁沿いに蜷川氏一族の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.645223/137.207179/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


図説 室町幕府 増補改訂版

図説 室町幕府 増補改訂版

  • 作者: 丸山裕之
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2024/01/24
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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上熊野城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6781.JPG←神明社背後に残る土塁
 上熊野城は、戦国後期に二宮左衛門大夫の居城であったと伝えられる。二宮氏は、南北朝期に元越中守護桃井播磨守直常に従って足利尊氏と戦い、1355年に直常の身代わりとなって討死した二宮兵庫の後裔とされる。戦国後期の二宮氏は初め、越中守護代神保長職に仕えた。1571年、越後上杉方の武将村田弥三郎・安達清蔵の拠る津毛城を攻撃したが敗れたと言う。その後、1574年には上杉氏に属した。1578年、上杉謙信の急死後、織田信長方の神保長住が越中侵攻を開始すると、二宮氏は織田方に服属して、同年5月17日に長住より知行を安堵され、更に同年7月8日には信長からも知行安堵の朱印状を与えられた。浄蓮寺の寺伝では、城は上杉方の攻撃により焼かれ、後に二宮一族が城跡に浄蓮寺を建立したと言う。1582年の織田信長の横死により、劣勢にあった上杉勢の反攻が始まっているので、上熊野城はその攻防の中で落城し、二宮氏も滅亡したものだろうか。

 上熊野城は、現在の神明社と浄蓮寺の境内一帯にあったと推測されている。改変を受けているため遺構はあまり明瞭ではないが、神社背後の土盛りは残存土塁とされている。また南側の水路はかつての堀跡であるらしい。遺構はわずかであるが、城の解説板が建つほか、浄蓮寺の由緒書きにも城の歴史が記されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.619119/137.222908/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2024/04/18
  • メディア: 単行本


タグ:中世平城
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樫ノ木城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6649.JPG←扇状曲輪群中央の大切岸
 樫ノ木城は、上杉謙信が飛騨方面に対する軍事拠点としていたと伝えられる。部将の村田与十郎(大炊介)を置いたと言われ、そのため村田城とも呼ばれたらしい。1570年の謙信書状からは、飛騨の三木良頼に軍役として樫ノ木城を守らせていたことがわかる。また附之城(津毛城)は、三木良頼の部将で戸川(栂尾)城主塩屋筑前守秋貞が樫ノ木城を攻撃した際に出城として築いたとも伝えられる。いずれにしても謙信は、越中南部の城を飛騨武将に守らせて飛越国境を固めていたものと思われる。

 樫ノ木城は、樫ノ木集落南の標高330mの山上に築かれている。東麓の小道の脇から西の薮に分け入る登り道があり(目印があまりないのでわかりにくいが、赤テープが垂れている)、これを登っていけば城域に至る。城は山頂に主郭を置き、その西下方に内枡形を備えた二ノ郭、その北側下方に扇状に広がる曲輪群を展開した縄張りとなっている。主郭・二ノ郭はいずれも小規模な曲輪で、砦レベルのものである。中腹の扇状曲輪群は、大切岸と空堀によって上下2つの区域に分かれている。上の区画は更に上下2段の平場に分かれ、上段曲輪は中央に坂虎口を築き、西端の土塁は坂土橋となって二ノ郭に接続する曲輪群に繋がっている。下段曲輪も中央に虎口を設け、虎口脇には土塁を築き、土塁はそのまま東に伸びている。下段曲輪の西端部には張出し部分があって、その左右に竪堀が落ちている。張出し部の後ろには坂土橋があって上段曲輪に通じている。下段曲輪の前面は大切岸となり、その前面には浅い空堀が穿たれている。この障壁構造は大道城によく似ている。扇状曲輪群の下の区画は以前は畑地であったため、どこまで往時の遺構を留めているのかよくわからないが、緩斜面に幾重もの段が築かれている。北西端には二重堀切が穿たれ、横の竪堀と繋がっているが。この二重堀切は山形県に多い中間阻塞型の堀切で、この地方では珍しい。北東端は大手虎口があったらしく、土塁や竪堀が見られる。この他、主郭の後部の峰の先には小堀切が穿たれ、更にその南の峰の先にも堀切がある。以上が樫ノ木城の遺構であるが、全体的に薮が多く遺構が見づらい。遺構としても、扇状曲輪群を分割する中央の空堀・切岸以外は、やや取り留めのない縄張りと感じた。
扇状曲輪群の土橋・虎口→DSCN6652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.573466/137.289619/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉謙信 (307) (人物叢書 新装版)

上杉謙信 (307) (人物叢書 新装版)

  • 作者: 山田 邦明
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2020/08/31
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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論田山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6519.JPG←土塁で囲まれた主郭
 論田山城は、小見城とも言い、歴史不詳の城である。中地山城のある山地から、川一つ隔てて東の山地の峰上に築かれており、中地山城を背後から支えるような位置にあることから、1578年に上杉謙信という後ろ盾を失った飛騨の豪族江馬輝盛が、中地山城を補強するために築いた城と推測されている。また江馬氏の貴重な財源であった亀谷銀山を確保する目的もあったと考えられている。しかし間もなく江馬氏は飛騨に撤退した。

 論田山城は、常願寺川と和田川の合流点の東にそびえる、標高500mの山上に築かれている。明確な登り道はないが、城のある峰の西中腹に水力発電所用の貯水池があるのでそこまで車で行き、あとは尾根伝いに東に登っていけば、やがて城域に至る。Y字型に曲輪を配置した城で、中心となる曲輪は主尾根上に配置された3つの連続する土塁囲郭である。中央の曲輪が最も面積が広く、主郭と考えられる。主郭後部の曲輪は小さな方形郭で、背後に堀切を穿っている。主郭前面の曲輪は虎口郭を兼ねた方形郭である。この方形郭へは前面の土塁を迂回する様に進入路が設けられている。また方形郭の後方には主郭に登る虎口が築かれている。主郭と後部の曲輪は北面には土塁がなく、北に築かれた腰曲輪に段差だけで接続している。これら中心となる曲輪の西と南西に曲輪群が展開している。西曲輪群は、コの字土塁で囲み内部を掘り下げた曲輪を置き、その西側下方に平場群を配置している。先端には堀切が穿たれている。南西曲輪群は、全体的に自然地形に近いが、ここにも西曲輪群同様に内部を掘り下げた一郭がある。西曲輪群と南西曲輪群の間は緩斜面で繋がっているが、ほとんど自然地形で曲輪と呼べる様な普請はされていない。ただ中央に、下方に通じる竪土塁があり、大手道と推測されている。この他、主城部の北西にあるピークの先にも堀切が穿たれている。以上が論田山城の遺構で、囲郭を多用した特徴的な縄張りではあるものの、土塁の規模は小さく、普請もややざっくりした感じで、ややとりとめのない縄張りである。その割に、背後の堀切は大きく後方遮断を重視する特徴も見られる。
後部の堀切→DSCN6533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.571053/137.388250/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 36巻)

上杉謙信 (シリーズ・中世関東武士の研究 36巻)

  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2024/02/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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中地山城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6336.JPG←内堀
 中地山城は、飛騨国高原郷を支配した江馬輝盛によって、越中進出の拠点として永禄年間(1558~70年)に築城されたと推測されている。輝盛は、越後の上杉謙信と親交があり、1564年の謙信の書状では、輝盛が越中境に出兵し、上杉方のために働いたことが知られ、これ以後上杉氏に協力して越中方面で活動している。この頃に中地山に進出して城を築いたと思われる。城主は江馬氏重臣の河上中務丞富信であったと言う。1569年には反上杉方に走った池田城主寺島職定を牽制している。また1572年、加賀一向一揆が富山城を占拠した時には、謙信の富山城攻めに加わっている。1578年、謙信が急死すると、中地山城は織田勢(三木・斉藤氏)の攻撃により落城し廃城となったと言う。

 中地山城は、常願寺川と小口川の合流点南東の台地上に築かれている。市の史跡となっており、南西麓から散策路が敷設されているが、城内の解説板の所から主郭に通じる道は雑草だらけで、散策路もほとんど埋もれてわかりにくくなっている。城のある台地は起伏に富んだ地形で、この起伏を利用して曲輪を配置し、二重の空堀で中心部を囲んでいる。しかし城域は広いが、普請はざっくりしていて、求心性のない縄張りである。現地解説板の縄張図に従うと、城は大きく5つの曲輪群で構成されている。A郭は城山地区で主郭、B郭は城天地区で屋敷跡、C郭が外郭、D郭が馬場・馬屋跡、E郭は日本垣地区で出丸とされている。A郭には北東部に大きな土壇があるが、面積がほとんど無い小山で、櫓台や物見台の類ではなく、信仰上の塚であったように感じられる。A郭の北と南に虎口が開かれていて、その脇には土塁が築かれている。しかし構造はやや不明瞭で、原初的な枡形虎口の一種の様である。北虎口を降るとB郭で、広めの平場が段状に連なり、物見台状の土塁が2ヶ所ほど築かれ、北西下方には「城天の袖」という腰曲輪があり、土塁が築かれている。一方、南虎口を出ると、C郭に至る城道が屈曲しながら下っている。C郭はほとんど雑草に埋もれていて、曲輪の形状がわからない。C郭の西側下方にも「城の腰」という腰曲輪群があるが、耕作放棄地の薮となっている。C郭外周に内堀が穿たれ、大きく弧を描いてB郭の東側まで区画している。C郭から内堀を挟んで東にD郭があるが、近代に地形が改変されているらしい。B郭から内堀を挟んで東にはE郭があり、その南東に小丸山という物見台がそびえている。この他、城域の一番南には窪地があり外堀とされているが、形状は内堀ほど明瞭ではない。以上が中地山城の遺構で、飛騨勢の越中進出のための軍団の駐屯地と言う感じで、ここに立て籠もって守り切ると言うよりも軍団の中継拠点として整備された兵站基地だったと思われる。
A郭の大土壇→DSCN6412.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.569933/137.368863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

戦国の北陸動乱と城郭 (図説 日本の城郭シリーズ 5)

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/08/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世平山城
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文珠寺城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6170.JPG←二ノ郭北端の物見台
 文珠寺城は、西小俣城とも呼ばれる。明確な歴史は不明であるが、幕府管領細川高国から上野彦次郎に宛てた1516年と推定される感状によれば、同年に越後守護代の長尾為景が越中国太田保に侵攻した際、上野彦次郎が文珠寺において防戦して戦功を挙げており、この戦いで上野氏が拠った城が文珠寺城であろうと推測されている。

 文珠寺城は、西小俣集落から南西にやや奥まった、標高356m、比高156mの山上に築かれている。明確な道はわからなかったが、集落から南の畑地を登っていく小道(国土地理院1/25000地形図に記載されている道)があり、途中で沢を越えてこの道を終点まで行くと、小さな水路のトンネル出口に至る(標高260m付近)。ここで道は終わってしまうので、右手の斜面を直登すると畑跡のような平場に出るので、ここから西に尾根に向かって薮を直登する。尾根に至るとはっきりした踏み跡があり、その先には踏み段も設置されているので、北尾根のどこかから登山道が整備されているらしいが、登り口は確認できていない。
 城は、南北に長い尾根に配された南北2郭から構成され、要所を堀切で区画した縄張りとなっている。北の二ノ郭、南の主郭共に、曲輪前面の防御に重点が置かれている。二ノ郭は北端に物見台を築き、城道はこの物見台を迂回するように敷設されている。物見台の前には舌状小郭が置かれ、小郭前面に小堀切、小郭の後部側方には竪堀を落として、二ノ郭前面を防御している。この少し北に離れた所にも土橋を残した小堀切がある。二ノ郭は南北に長いのっぺりした曲輪で物見台以外に特徴はない。二ノ郭と主郭の間には堀切が穿たれているが、鋭さはない。主郭も前面に舌状小郭を配し、小郭後部に堀切を穿っている。主郭も南北に長い平場で、北西の支尾根に小堀切を穿っている。主郭の東側方には腰曲輪を置き、1ヶ所竪堀を落としている。主郭の南半分には仕切り土塁や塚の様な土盛りが2ヶ所見られるが、明確な防御構造とは少々言い難い。主郭後部に土塁があり、その先にも堀切が穿たれているが、中央の土橋が広すぎ、堀切と言うよりも曲輪の端っこを竪堀で切り落としてるだけという形態になっている。その先の南尾根にも小堀切があるが、これも鋭さはない。以上が文珠寺城の遺構で、急ごしらえ&戦国前期の築城技術がまだ発展途上の城という趣である。
二ノ郭の小郭前面の堀切→DSCN6277.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.579170/137.307365/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


廃城をゆく5 イカロスMOOK

廃城をゆく5 イカロスMOOK

  • 作者: かみゆ歴史編集部
  • 出版社/メーカー: イカロス出版
  • 発売日: 2022/06/22
  • メディア: Kindle版


タグ:中世山城
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湯端城(富山県富山市) [古城めぐり(富山)]

DSCN6077.JPG←土塁と空堀の屈曲部
 湯端城は、飛騨の武将畑氏の居城と伝えられる。『三州志』に戦国期の中地山城に在城した河上中務丞(飛騨江馬氏の家臣)が湯端城の畑九郎と戦ったと記されているのが、史料上の唯一の記録である。

 湯端城は、常願寺川と熊野川に挟まれた南北に長い丘陵上の、幅の狭い縊れ部上方の段丘辺縁部に築かれている。崖に臨む東以外の三方を土塁と空堀で囲んだ、ほぼ方形単郭の城館で、城内は山林となっている。城のすぐ脇には車道が通っており、東側に土塁・空堀が無いのは道路建設で破壊されたか、元々なかったのか、よくわかっていないらしい。南側の土塁・空堀の中央には、小規模ながら櫓台の張出しがあり、横矢掛りを意識している。西と北には虎口が開かれている。北側は空堀が一部無く、北に広がる平場とは段差だけで区画されている。この平場は腰曲輪であったと思われ、北西斜面には空堀と土塁が築かれている。また城の西側には南北に堀状地形が見られ、これも外郭遺構と推測される。この堀状地形の中ほどは、中間土塁を設けた二重堀となっている。この他、車道を挟んで東に残る山林内にも堀状地形が残る。城の南が民家の敷地になっているので、往時の外郭がどこまで広がっていたのか、わからなくなってしまっている。遺構はよく残っているが、全体的に普請の規模が小さく、陣城的な使われ方をした城だった可能性も考えられる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.593815/137.314146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

越中中世城郭図面集 1(中央部編(富山市・中新川郡

  • 作者: 佐伯哲也
  • 出版社/メーカー: 桂書房
  • 発売日: 2024/03/27
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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鉄砲池古戦場(岐阜県中津川市)

DSCN5978.JPG←鉄砲池と解説板
 鉄砲池古戦場は、1583年に苗木城主苗木遠山氏と金山(兼山)城主森氏との激戦地である。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、織田氏配下の諸将による勢力争いが激しく行われた。翌83年、豊臣秀吉方に付いた金山城主森長可は東濃に勢力を伸ばそうと、配下の岩村城代各務兵庫を大将として遠山友忠・友政父子の拠る苗木城攻略を図った。これは法泉寺坂の戦いと呼ばれ、中でも「遠の巣」付近は両軍の最も激しい攻防が繰り広げられた。森勢はこの合戦で敗退したが、体制を整えて同年5月に再度侵攻した。この再戦で苗木城は落城したが、両軍ともに多数の戦死者が出て、多くの屍がこの池に沈められたと伝えられる。戦乱が収まった後、池の中から多数の鉄砲玉が出てきたことから、この池は「鉄砲池」と呼ばれるようになったと言う。城を攻略された友忠・友政父子は、徳川家康を頼って浜松に逃れた。

 鉄砲池古戦場は、苗木城西方の丘陵地帯の只中にある。現在は小さなため池しかないが、道路改良等で池の範囲が著しく狭められてしまったらしい。他の地域ではおそらく全く知られていない合戦だが、苗木遠山氏の命運に関わる重要な合戦であった。しかし苗木遠山氏は居城を奪われて没落したかに見えたが、徳川家康を頼ったことで運が開け、関ヶ原合戦の一連の動きの中で苗木城の奪還に成功して近世大名に返り咲き、そのうえ江戸時代を通して一度も移封とならずに若年寄まで務めるほど幕府の信任を受ける家柄となった。何がどう転ぶかわからない、歴史の不思議がここにはある。

場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.531502/137.431390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関ヶ原合戦全史 1582-1615

関ヶ原合戦全史 1582-1615

  • 作者: 渡邊 大門
  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2021/01/25
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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