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桑折西山城(福島県桑折町) [古城めぐり(福島)]

DSC00534.JPG←本丸南の空堀と土橋
 桑折西山城は、戦国前期の伊達氏の本城である。その前身は、伊達郡に入部して高子岡城を居城とした伊達朝宗(念西)が築いた赤館と言われている。1400年、伊達氏中興の祖といわれる9代大膳太夫政宗(儀山公)が、鎌倉公方足利満兼に反旗を翻して長倉館と共に拠点としたのが、この赤館である。1523年に奥州守護職に補任された14代稙宗は、1532年に守護の府城を梁川城から桑折西山城に移し、城下町を整備して城を現在残る規模に修築した。しかしその後、奥州を二分する大乱となった伊達氏家中の騒乱「天文の乱」が起こり、稙宗は嫡子晴宗と激しく争うこととなった。この乱の最中、常に渦中にあったのが桑折西山城である。6年に及ぶ大乱は終盤に至って晴宗の優勢で推移し、足利将軍家の調停によって和睦がなり終結した。稙宗は丸森城に隠居し、勝った晴宗は西山城を破却して居城を米沢城に移した。時代は下って、明治元年の戊辰戦争の際に、仙台藩は西山城の地に砲台を築いた。

 桑折西山城は、さすがに奥州の雄伊達氏の本城だけあって規模が大きい。現在、国の指定史跡となっているのでかなり整備されており、遺構の隅々まで見ることができる。東の高館と呼ばれる部分に本丸と二ノ丸を置き、間は空堀で分断、周囲には腰曲輪を置いて防御を固めている。本丸には東と南西の2ヶ所の虎口があり、更に南に空堀に掛かった土橋を渡って腰曲輪に連結するルートもあるようだ。本丸~二ノ丸間の空堀は畝があり、どうも畝掘であった可能性がある。また本丸の搦め手筋を降った所の虎口は、草むらの中に石積みが残っている。こちらの本城部分から西にやや離れた所には、中館・西館と呼ばれる曲輪がある。こちらの遺構も出色で、全周を土塁が囲み、中館・西館の間は大きな空堀で分断する。更に中館南西の枡形虎口、西館南の枡形虎口は極めて良好に残っている。西館南の虎口は、出枡形以外に内枡形もあったらしく、二重枡形を形成していた様である。また、中館・西館周囲の土塁にはかなり広範囲に石積みが残っており、なかなか素晴らしい。東北の中世城郭にこれ程の石積みがあるとは思わなかった。良く見ると腰曲輪などにも石積みがあるようだ。ただ近年の発掘調査の結果では、これらの石積みはもっと時代が下ったものである可能性があるとのことで、謎が残っている。いずれにしてもどの曲輪も広大で、非常に規模の大きい城であることがよく分かった。現在も発掘整備が進められているので、数年後にはまた違った姿を見せてくれるかも知れない。今後の整備が楽しみである。
中館の枡形虎口→DSC00581.JPG
DSC01533.JPG←中館~西館間の空堀
西館に残る石積み→DSC00622.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.855279/140.508764/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
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ねじまき鳥

発掘調査の結果はどうでしたか。
by ねじまき鳥 (2011-02-09 02:02) 

アテンザ23Z

>ねじまき鳥さん
発掘調査の現説資料はネット上で見れますが、
一度実際に参加してみたいです。
by アテンザ23Z (2011-02-10 00:21) 

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