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要害城(山梨県甲府市) [古城めぐり(山梨)]

IMG_2370.JPG←矩形土塁による桝形
 要害城(要害山城)は、甲斐武田氏3代(信虎・信玄晴信・勝頼)の居館、躑躅ヶ崎館に対する詰城である。戦国武田氏の歴史を綴った同時代資料である『高白斎記』に、1520年に築城が開始されたことが明記されている。躑躅ヶ崎館はそれに先立つ1519年8月~12月に築館されており、要害城が立て続けに築城されたことは、平時の居館である躑躅ヶ崎館と一体となって運用される前提で築城されたことを物語る。築城したのは武田信玄の父信虎でこの時27歳、最初の城番は駒井昌頼(政武・高白斎)であった。築城翌年の1521年、駿河の今川氏親の重臣福島正成が15000の軍勢を率いて甲斐に侵攻した。迎え撃った信虎は大島合戦で破れ、富田城を福島勢に攻略されて危機に陥った為、身重であった正室大井夫人を要害城へ避難させた。正成は信虎の本拠躑躅ヶ崎館に向かって進軍したが、信虎が館の西方を流れる荒川を防衛戦とした為、両軍は荒川を挟んで対峙し、飯田河原で激戦が展開された。ここでは武田方が勝ち、戦勝に沸き立つ中、嫡男晴信(信玄)が生まれた。信玄生誕の地は、要害城内とも、要害山南麓の積翠寺とも言われる。いずれにしても、武田時代に要害城が実用に供された記録は、この時だけである。その後、駒井昌頼の子昌直・日向玄東斎が要害城を守備した。時代は下って長篠合戦後の1576年、武田勝頼は織田・徳川連合軍の侵攻に備える為、急遽要害城の修築を行った。しかし1581年に新府城を新造して居城を移した。翌82年3月、織田信長による武田征伐で甲斐源氏の名門武田氏は滅亡し、甲斐には信長の家臣河尻秀隆が入ったが、わずか3ヶ月後、本能寺で信長が横死し、武田遺領を支配し始めたばかりの織田勢力は瓦解した。その後、権力の空白地帯となった武田遺領を巡って、北条・徳川・上杉による争奪戦(天正壬午の乱)が行われ、甲斐全域は徳川氏の支配下に入った。その後、豊臣秀吉の家臣加藤光泰が甲斐に入部し、加藤時代に要害城は石積みなどを施されて修復された。しかし甲府城が築城されたため、1600年に要害城は廃城となった。

 要害城は、甲府市街地北方にそびえる標高780m、比高260mの要害山に築かれている。現在国の史跡となっており(但し、史跡名称は城名ではなく山名の「要害山」)、登道が整備されている。9月下旬に日本城郭史学会の見学会があったので、それに参加した。山頂に土塁で囲まれた縦長長方形の主郭を置き、その前面に幾重にも曲輪群を築いて前衛とし、背後の尾根には3本の堀切と小型の曲輪を数個築いて防衛している。行ったのがまだ残暑の時期であったので、草薮が繁茂していて遺構が見にくい部分もあったが、登道はしっかりしており、城へ登るには全く支障なかった。前衛の曲輪群は広さがある曲輪が多く、L字またはコの字型に土塁を築いて櫓門だったと思われる城門を置いた桝形虎口も数ヶ所に確認できる。虎口の横などには小規模ではあるが石垣が積まれている。矩形をした枡形虎口と櫓門の構築は武田の城らしくなく、いわゆる織豊系城郭に多く見られる形であるので、石垣の構築と合わせて武田以降の加藤時代の改修によるものではないかと思う。また前衛の曲輪群の正面や側方には竪堀が何本か穿たれ、敵兵による斜面の横移動を防いでいる。一方、主郭背後の3本の堀切にはいずれも土橋が架けられ、特に主郭裏のものは土橋の横と堀切に沿って石垣が築かれている。3つの土橋の上には土塁・堡塁がそびえ、上方から敵兵の接近を阻止できるように構築されている。この他、前衛曲輪群には諏訪水と呼ばれる石組み井戸も残っている。
 要害城は、戦国武田3代の詰城とは言うものの、外周を防御する横堀もなく、全体を囲む放射状竪堀もなく、武田系城郭のトレードマークとも言うべき丸馬出もない。これらは地形上の制約にもよるのかもしれないが、その縄張りには武田色が薄いと感じられた。しかしそれはそれとして、十分見応えのある城である。
後部の土塁から見た主郭→IMG_2472.JPG
IMG_2487.JPG←堡塁上から見た土橋・堀切

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.703084/138.598377/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

縄張図・断面図・鳥瞰図で見る 甲斐の山城と館

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2020/01/31
  • メディア: 単行本


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史学会帰り新参

当日は天気が悪ければ予定変更だったのでよかったです。9月の終わりでしたが少し暑かった気がしますが、山城見学に支障はなかったです。
武田の城といっても大永元年の信虎築城の城なので
一般的にいわれる天文後半から永禄、元亀、天正の信玄、勝頼の武田の城は城と比べると違いますね。プロトタイプの城でしょうか。武田の城と織豊期のコラボもあり面白い城ですね。
by 史学会帰り新参 (2020-02-03 20:45) 

アテンザ23Z

>史学会帰り新参さん
その節はお疲れさまでした。まだ野生動物&クモ&マダニの活動期だったので心配しましたが、思いの外問題なかったですね。薮は少々多くて、遺構が見づらい部分もありましたが。
城としては、個人的にはこの後に行った熊城の方が良かったですね。
by アテンザ23Z (2020-02-04 18:08) 

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