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高根城(宮城県色麻町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN1472.JPG←主郭の切岸
(2020年2月訪城)
 高根城は、高根楯(高根館)とも呼ばれ、大崎氏の家臣笠原内記の居城と伝えられる。元々は南北朝時代或いは室町時代に大崎氏が、四家老の一人、仁木遠江守高家に高根城を築かせたと言う。築城時期には2説ある。一つは南北朝時代で、足利一門でも最高の家格を持つ斯波高経の弟家兼(大崎氏の祖)が、1354年に将軍足利尊氏から奥州管領(後の奥州探題)に任ぜられて奥州に下向し、中新田城に治府を置き、仁木高家を四家老の一人に任じた時とも、もう一つは室町中期の1441年頃であったとも伝えられる。戦国末期には、八木沢城主八木沢備前の弟笠原内記(近江守直康)の居城となり、1590年の奥州仕置による大崎氏改易まで居住したと言う。大崎氏改易後、内記は息子隆康と共に出羽の秋田城之介の元に去ったと言う。
 尚、仁木遠江守高家について詳細は伝えられていないが、仁木と言う姓からすると、同じ足利一門の仁木氏の一族であるかもしれない。仁木氏は一門中ではかなり低い家格で、鎌倉時代には足利宗家の家臣並みの扱いであったから、宗家に匹敵する家格を有した斯波氏(鎌倉時代には足利尾張守家と称し、足利の姓を名乗っていた)にも家臣として仕えた者がいても不思議はない。

 高根城は、色麻町と加美町の境にある標高100m、比高50m程の丘陵上に築かれている。東中腹に墓地があり、その裏手に登るともう城域である。墓地も一郭であっただろう。ちなみにこの墓地は、現在は廃寺となっているが仁木高家が高根城の守護寺として開山した慶樹寺のもので、墓地に立つ記念碑にそのことが刻まれている。高根城の縄張りは、◇―の形をした主郭が中心にそびえ、主郭背後(西側)に低土塁を築き、城内通路を兼ねた堀切で分断している。堀切の西側には二ノ郭が置かれ、その前後に土塁を築き、西側背後を二重堀切で分断している。その先には細尾根上の西郭が築かれ、その先は自然の谷になって城域が終わっている。前述の二重堀切は、南側に長い二重竪堀となって落ちている。西郭の北側には二重横堀が構築されているが、前述の谷に繋がっており、虎口を兼ねていた可能性もある。一方、主郭・二ノ郭の周りには広い腰曲輪が幾重にも築かれている。特に北側は大きな腰曲輪が広がっており、二重竪堀状の城道などの構造が見られる。主郭の南では、主郭の張り出した塁線の先に土塁が突き出し、腰曲輪間を区切っている。この土塁から、西側下方の腰曲輪を見下ろせるようになっている。この他、主郭先端からは、北東と南の2方向に尾根上の曲輪が伸び、その周りにも腰曲輪群が築かれており、両翼に大きく羽を広げたような形になっている。前述の慶樹寺墓地は、この両翼の丁度真ん中の東中腹にある。主郭と南尾根の曲輪の間も、城内通路を兼ねた堀切で分断されている。
 以上が高根城の概要であるが、周囲に築かれた腰曲輪群がどこまで続いているのかはっきりせず、『日本城郭大系』に「かなり大きな館跡でどこまで(城の)範囲にするか判断するのが困難であった」と記す通りである。特に北側は斜度が緩いので、城域が判然としない。全体としては、梨崎楯に似ている印象で、築城主体が同じ大崎氏であった可能性を示唆しているかもしれない。
二重堀切から落ちる二重竪堀→DSCN1538.JPG
DSCN1568.JPG←北側腰曲輪の二重竪堀状の城道
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.561690/140.798110/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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