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勝山城(石川県中能登町) [古城めぐり(石川)]

DSCN7989.JPG←中城の巨大竪堀
(2020年11月訪城)
 勝山城は、1555年に生起した能登守護畠山氏の内紛「弘治の内乱」の際に築かれた城である。畠山義綱は実権を取り戻すため、実権を握っていた重臣の温井総貞(紹春)を暗殺した。これをきっかけに温井氏と温井氏と親しい三宅氏は畠山晴俊を当主として擁立し、加賀一向一揆を味方につけて大規模な反乱を起こした。これが「弘治の内乱」で、温井・三宅連合軍は、勝山城を反乱拠点として築城したとされる。一時は義綱方を七尾城に追い込んだが、その後は劣勢となり、1558年3月に勝山城は落城し、反乱軍は鎮圧されて畠山晴俊・温井続宗らは討死したと言う。1584年、越中を支配した佐々成政の命を受けて、成政の重臣の守山城主神保氏張は能越国境の要衝として勝山城を取り立て、部将の袋井隼人を勝山城に置いたと言う。七尾城にいた前田安勝はこれを知り、前田良継・高畠定吉・中川光重らに勝山城を攻撃させたが、撃退された。同年9月の末森合戦では、佐々勢を撃退した前田利家は、佐々勢が撤退した荒山城・勝山城を占領した。翌85年、豊臣秀吉の富山遠征によって成政が秀吉に降伏すると、勝山城はその使命を終えたと思われる。

 勝山城は、邑知地溝帯の南に連なる丘陵地帯の一角、標高230m、比高130mの山上に築かれている。主尾根から北東に弓なりに伸びる尾根の北端部に登り口がある。車道脇の民家の裏に解説板があり、その奥が登道の入口である。登道と言ってもわずかな踏み跡程度のものだが、細尾根なので迷うことはない。勝山城は、能登国内としては勿論、石川県全域で見ても5本の指に入る巨大城郭で、城内は大きく3つのブロックに分かれる。ここでは便宜上、それぞれ北城・中城・南城と呼称する。

北東尾根の物見台→DSCN7859.JPG
DSCN7884.JPG←北東尾根の曲輪の一つ
主郭後部の切岸→DSCN7924.JPG
 北城は勝山城の中心的な郭群で、頂部に主郭を置き、北に伸びる尾根と北東に伸びる弓なりの尾根とに曲輪群を連ねている。大手は北東の弓なりの尾根で、主郭の東斜面から尾根の先端まで、びっしりと曲輪群が築かれている。それぞれ切岸で明瞭に区画され、途中には物見台が2ヶ所ほど見られる他、細尾根の動線を制限する片堀切が構築されている。尾根の付け根は一騎駆け状の長い土橋となっている。その先に腰曲輪群があり、尾根筋からはL字型の坂土橋が構築され、上段の腰曲輪に登っていく。腰曲輪群を登っていくと、北城の主郭に至る。主郭は後部に土塁を築いて防御し、北に向かって数段の舌状曲輪を連ねている。その先は2本の坂土橋で下の曲輪に通じている。先端部には数段の小郭が築かれて城域が終わっている。一方、主郭の東側から南側には南郭が置かれ、西辺に短い土塁があり、土塁と主郭切岸との間は堀切となっている。北城の南郭から南の尾根を登っていくと、土橋状通路の先に中城がある。

DSCN7969.JPG←中城前面の大堀切
土塁で囲まれた中城の主郭→DSCN7972.JPG
 中城は、まず前面に前衛となる小郭数段を置き、その後部に土塁を築き、背後を大堀切で分断している。その南側にあるのが中城の主郭で、南から東面にかけて大きくL字状に土塁を築いて防御している。その背後にも大堀切が穿たれ、ここから北東に向かって巨大な竪堀が落ちている。この大竪堀は100m以上も伸びる圧巻の規模で、これに近いものは上野岩櫃城や下野山田城でしか見たことがなく、それを凌駕する長さである。大竪堀の内側(中城側)には竪土塁が延々と構築され、南にある南城との間を完全に分断している。竪土塁を下っていくと、竪土塁は下方で2ヶ所の折れを持ち、その内側に腰曲輪群を構築している。この様に中城は、前後の大堀切と東の大竪堀で防御されている。竪土塁・大竪堀の南側にあるのが南城である。

DSCN8015.JPG←南城から見た大竪堀
南城の腰曲輪群→DSCN8011.JPG
DSCN8025.JPG←南城の主郭
 南城は、尾根上に小さな主郭を置き、主郭後部には土塁が築かれ、その南に南郭、また主郭の前面には虎口を伴った北郭が置かれている。これら3つの曲輪の東斜面に、多数の腰曲輪群が築かれ、前述の大竪堀沿いにもびっしりと段が連なっている。また南郭から伸びる細い南尾根には堀切が3本穿たれて城域が終わっている。
南尾根の堀切→DSCN8054.JPG

 この様に勝山城は、並の山城3つ分の規模を有する巨大山城で、ネット上ではほとんど無名というのが信じられない。薮もそれほどひどくないので、遺構も比較的確認しやすい。

 ここでちょっと勝山城の構造について考察してみたい。北城・中城・南城と分かれた区画は、それぞれ城の構造が全く異なっており、それぞれの役割の違いを表していると考えられる。一つの仮説として、北城の主郭は実力者の温井続宗が在陣し、それより高所にある中城の主郭は主君として擁立された畠山晴俊の御座所が置かれたとも推測できる。その場合、大竪堀で分断された南城との関係が問題になる。南城は明らかに軍兵の駐屯地であり、畠山晴俊と兵卒の身分差が大竪堀に表れたのだろうか。また別の仮設として、七尾城を攻略した上杉謙信が勝山城を支配していた時代があったのかもしれない。その際に、上杉氏によって大竪堀と南城が拡張されたとも考えられる。有数の戦国大名が、山城を拡張して外郭を独立した区画として新規構築した例は、北条氏の房総半島の城などにその類例がある。ただ能登の上杉系城郭でよく見られる畝状竪堀が構築されていないのは、ちょっと引っかかる。一方で、大堀切・大竪堀は織田勢力の城ではあまり見られず、逆に織田勢力の城の特徴である直線的な塁線や枡形虎口がこの城にはなく、佐々氏・前田氏が整備拡張したとは考えにくい。なかなか考えさせられる城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.960746/136.926717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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