小堤城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]
←水堀と土塁
小堤城は、円満寺城とも呼ばれ、古河公方足利氏の家臣諏訪三河守頼方が築いたと言われる。頼方は、元々は信濃の諏訪氏の一族であったらしい。足利成氏に従って関東に下向した様である。その後、大永年間(1521~27年)に廃城となったと言う。
小堤城は、現在の円満寺の地を中心に築かれていた。現在は寺の周囲、北側と西側に土塁と空堀が良好に残っている。空堀の北西部分では水堀となっており、湧水があるらしい。かつては三重堀を擁する平城だったと推測されている様だが、はっきりと分かるのは内堀部分のみである。
三重堀の外堀は、円満寺から北に400m程離れており、県道190号線の東西に土塁と空堀が一直線状に残っている。しかしこれは、城の一部と言うより街道閉塞施設か野馬除けの様な遺構である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、2つの小河川に挟まれた台地を、この空堀・土塁で南北に仕切っていたらしい。ちょうど結城長塁と同様のものであろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.208520/139.766736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
小堤城は、円満寺城とも呼ばれ、古河公方足利氏の家臣諏訪三河守頼方が築いたと言われる。頼方は、元々は信濃の諏訪氏の一族であったらしい。足利成氏に従って関東に下向した様である。その後、大永年間(1521~27年)に廃城となったと言う。
小堤城は、現在の円満寺の地を中心に築かれていた。現在は寺の周囲、北側と西側に土塁と空堀が良好に残っている。空堀の北西部分では水堀となっており、湧水があるらしい。かつては三重堀を擁する平城だったと推測されている様だが、はっきりと分かるのは内堀部分のみである。
三重堀の外堀は、円満寺から北に400m程離れており、県道190号線の東西に土塁と空堀が一直線状に残っている。しかしこれは、城の一部と言うより街道閉塞施設か野馬除けの様な遺構である。昭和20年代前半の航空写真を見ると、2つの小河川に挟まれた台地を、この空堀・土塁で南北に仕切っていたらしい。ちょうど結城長塁と同様のものであろう。
県道脇の外堀→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.208520/139.766736/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0