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甲山城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4947.JPG←南東部の主郭張出し部
 甲山城は、常陸の名族小田氏の支城である。小田氏4代時知の3男時義が、小神野氏を称して甲山城を築いて居城したと言われる。戦国後期の10代経憲の時、佐竹氏の攻撃を受けて落城し、経憲は土浦城に逃れたと伝えられる。

 甲山城は、標高98.3m、比高60m程の比較的なだらかな丘陵上に築かれている。城内に三十番神社があり、南麓からの参道(と言ってもただの山道)を使って城まで登ることができる。ほぼ単郭に近い小規模な城であるが、それには不釣り合いなぐらいしっかりした横矢掛かりを設けた縄張りとなっている。主郭は、三角形に近い縦長の台形状の曲輪で、西側は直接斜面に面しているが、北・東・南の三方に土塁と空堀を巡らして防御している。南東部には横矢の張り出しがあり、東辺へも南辺へも両方に張り出している。この主郭の姿は、規模は異なるが田渡城に似た印象である。周囲の空堀は、そのまま西斜面まで掘り切っている。主郭の周りは、斜面となった西面以外は緩斜面が広がっているが、塚がある他はあまり明確な普請の跡は見られない。一方、西斜面には腰曲輪が築かれている。この他、参道を登った中腹に曲輪があり、大手の曲輪だったと考えられる。小さい城だが、見事な横矢掛かりが印象に残る。
東面の土塁と空堀→IMG_4965.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.157376/140.167823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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宝篋城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4904.JPG←南斜面の大堀切
 宝篋城は、南北朝時代に鎌倉府執事として関東に下向し、常陸南朝方を征討した高師冬が、小田城攻めの際に本陣を置いた城である。1338年、関東の南朝勢力再建の為に下向した南朝の重臣北畠親房は、神宮寺城阿波崎城を経て、小田治久を頼って小田城に立て籠もっていた。将軍足利尊氏の執事高師直の従兄弟・高師冬は関東に下向し、各地を転戦して常陸南朝方を討伐した。親房は、小田城において有名な神皇正統記を著すなど、各地の有力武士を味方につけるための必死の工作を続けたが、師冬率いる北朝方の軍勢の攻囲の前に、治久は降伏し、親房は小田城を脱出して関宗祐を頼って関城に逃れた。この小田城攻めの本陣となったのが宝篋城である。

 宝篋城は、ハイキングコースとして有名な宝篋山(標高460.7m)に築かれている。宝篋山城とも呼ばれるが、現地では宝篋城と書かれている。山頂には山名の由来となった大きな宝篋印塔が立つ他、テレビの電波塔が建っており、山頂付近はかなり改変を受けている。しかしいくつかの平場らしい跡が見られ、北東尾根には堀切も確認できる。山頂から尾根を南に降った先に平坦な第2ピークがあるが、こちらが宝篋城の中心で、主郭があったらしい。一部に土塁が見られる他、南側に段曲輪が数段築かれている。その南斜面下方に円弧状に大堀切が穿たれている。更にその南は広大な緩斜面の平坦地が広がっており、いかにも高師冬の率いる大兵力が駐屯可能な地形である。城の中心が、山頂ではなく、南寄りに置かれているのは、宝篋印塔を憚ったからであろうか。城内はハイキングコースとして綺麗に整備されているので、遺構がよく確認できる。想像していたよりしっかりとした遺構が残っており、特に大堀切は外側の土塁の規模も大きく見応えがある。
主郭南側の段曲輪→IMG_4880.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.166090/140.130594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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小田前山城・舟ヶ城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

 小田前山城・舟ヶ城は、常陸の名族小田氏の居城小田城の、外郭の一部を形成する山城である。小田城では、平地の小田城を大きく包み込むように惣構の堀が伸び、小田城の北にそびえる前山の稜線まで包み込んで外郭線を形成していたと考えられている。前山城と舟ヶ城はこの外郭線上に築かれた山城である。

 小田前山城・舟ヶ城は、標高110m、比高90mの前山に築かれている。前山城と舟ヶ城は稜線続きにあって、峠道の西のピークである富岡山を中心に築かれているのが前山城、東の広い平坦な尾根に築かれているのが舟ヶ城である。ネット上では前山城の名だけが記載されているが、現地案内板には舟ヶ城の名があるので、ここでは分けて記載している。両城は、以前は未整備のガサ藪に覆われていたらしいが、現在は宝篋山に通じるトレッキングコースが整備されていて、多くのハイカーで賑わっているので、遺構の確認がし易くなっている。

IMG_4743.JPG←主郭東側の段曲輪
 まず前山城であるが、こちらは小振りながらしっかりと曲輪群が築かれ、はっきりと城であることがわかる。中腹の愛宕神社脇から登ると稜線の峠に至る。おそらくこの峠自体が堀切を兼ねていたと思われる。その西側に2段の段曲輪があり、主郭である富岡山展望所に至る。主郭は削平が不徹底で、ほとんど居住性はない。主郭から西に土塁道が伸び、その南側に2段の曲輪が築かれ、その先に城道を兼ねた堀切を挟んで、西端の曲輪が築かれている。西端の曲輪には、物見台と思われる小さな高台が見られる。また堀切から南に幅広の竪堀状の通路が下り、その下方で通路がクランクした空間があり、枡形虎口であったと思われる。前山城では、主郭は単なる物見程度であるが、周辺の段曲輪がしっかりと普請されている。
枡形虎口→IMG_4783.JPG


IMG_8329.JPG←108mのピーク
 次に舟ヶ城は、前述の峠道から東に広く広がっている。山の一部が採石で削られており、一部遺構が失われていると思われる。東の108mのピークが最高所で、展望櫓が建ち、南端に「要害展望所」がある。この山には「要害」の地名が残っているらしい。しかしこの辺りはほとんど自然地形で、平場があることはあるが明確な普請の跡は確認できない。このピークの北西に緩斜面の広幅の尾根が広がり、一部に段差が見られ、曲輪の跡の様である。その先にやはり峠道があり、堀切を兼ねていた様だ。この峠道の北西はかなり広大な平場となっており、その形から舟ヶ城の名が付いたのだろうか。この平場は、前山城の東側を画する堀切(峠道)まで続いている。舟ヶ城は、前山城と比べると城の造りは雑然として、言われなければ城とは気づかないレベルである。
堀切状の峠道→IMG_8372.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:【前山城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.158832/140.113449/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0

    【舟ヶ城】http://maps.gsi.go.jp/#16/36.156649/140.116131/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0


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若森城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4641.JPG←主郭外周の土塁
 若森城は、下妻城主多賀谷氏が築いた城である。元亀年間(1570~73年)に多賀谷政経が築城し、その家臣白井対馬守を城主としたと言われる。以後、小田城攻略の前進拠点として機能した。佐竹氏が小田城を攻略した後の若森城の動向は不明である。江戸時代になると、徳川家旗本の堀田氏がこの地に若森陣屋を置いたが、幕末の1863年に撤去された。明治時代に入ると、1869年(明治2年)に若森県庁が陣屋跡に置かれた。しかし、設立からわずか2年9ヶ月で若森県は新治県と茨城県に統合され消滅した。

 若森城は、桜川西岸に南から突き出た舌状台地の上に築かれている。史跡としては、「若森県庁跡」として市指定史跡となっているが、遺構を見る限り中世城郭そのものである。北端に主郭を置き、その南に二ノ郭が置かれている。二ノ郭は民家があって無断進入はできないので、北端の斜面から登って主郭周りだけ見て回った。主郭は斜面に面した外周に低土塁を築き、北西斜面と東斜面に腰曲輪を築いている。特に東腰曲輪には土塁が外周に築かれ、その下方には横堀が穿たれている。主郭と二ノ郭の間は、西半分は土塁で仕切られ、東半分は幅の広い堀切で分断されている。仕切り土塁と堀切の間は幅広の通路となっている。堀切の東側には土橋が架かって主郭南東部と二ノ郭北東部を繋いでいる。土橋の東側にも堀切が続き、円弧状に北に伸びている。その先は前述の東斜面の横堀に繋がっているが、ここにも土橋が掛けられ、主郭東の腰曲輪と二ノ郭東の腰曲輪を連結している。また横堀は、この土橋部分で東に屈曲して東山腹に伸びており、そこでは湧水があるらしく水堀となっている。二ノ郭の周りにも土塁が築かれ、西側には横堀状の腰曲輪が築かれている。二ノ郭東の腰曲輪は、前述の通り円弧状になった堀切に沿って北にツノ状に突き出しており、横矢掛かりを意識した配置となっている(土橋はこの先端から斜めに架かっている)。若森城は中々技巧的で、人知れず、素晴らしい遺構が山林の中に眠っている。
主郭~二ノ郭間の土橋→IMG_4661.JPG
IMG_4665.JPG←腰曲輪間の土橋と堀切・横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.151590/140.086842/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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高友古塁(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4595.JPG←外周の空堀、上は丸山古墳
 高友古塁は、高友古館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。一説には、佐志能神社の神官の居館があったとも言われるが、確証はない。

 高友古塁は、柿岡市街地の北方に位置する標高60m、比高40m程の独立丘陵(高友丘陵)に築かれている。城内には丸山古墳があり、これを物見台としての利用か、宗教的な意図で、取り込んだ形で築かれている。公園化されているので、夏でも訪城できるだろう。基本的に外周に空堀を廻らしただけの単郭の城砦であるが、方形ではなくややひしゃげた扇形形状をした比較的珍しい曲輪形状である。曲輪内部はやや傾斜している他、古墳以外にもなだらかな土盛りが見られる。曲輪外周には低土塁が確認できるが、虎口付近を除いてあまり防御を意識していないレベルのものである。虎口は現在公園の入口となっており、公園化の改変の可能性も考えられるが、この入口付近だけ土塁が重厚に築かれているので、往時の虎口もあったのではないかと推測される。空堀は全周を囲繞し、最大で深さ4~5m程もあり、比較的規模が大きい。空堀の外側にも土塁が築かれており、この土塁は内側のものよりはっきりと残っている。高友古塁は、単郭の簡素な構造の城砦であるが、それにしては曲輪の面積が広い。丸山古墳に祀られた豊城入彦命(崇神天皇の第一皇子)を守護神として祀る神官の居館があって、祭祀を司ったものという見方もあり得るが、個人的には古代のチャシに似ている印象を受けた。

 尚、ここの丸山古墳の解説板で、初めて前方後方墳と言う形態を知って珍しいと思ったが、後で調べると東日本には多い形態らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.252138/140.198936/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
タグ:中世平山城
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猿壁城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4512.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 猿壁城は、小田城主小田氏の庶流上曽氏が築いた詰城と言われている。上曽氏は、小田氏 2 代知重の4男知賢が上曽郷に分封されて、上曽氏を称したことに始まる。上曽城を居城とし、有事の際の詰城として猿壁城を築いたらしいが、築城時期は不明である。よく城巡りの参考にさせていただいているHP「北緯36度付近の中世城郭」では、高所に築かれた気合の入った城の姿は、抗争の緊迫感の反映と考えられ、現在残る猿壁城は小田氏が佐竹氏の侵攻に曝されていた戦国後期に整備されたもの、と推測している。しかし結局小田氏は佐竹氏の激しい攻勢の前に衰退を余儀なくされ、上曽氏は佐竹氏に服属した。佐竹氏が出羽秋田に移封となると、上曽氏も佐竹氏に従って秋田に移り、この地を離れた。

 猿壁城は、足尾山から東南東に伸びる尾根上の、標高241.8m、比高190m程の猿壁山に築かれている。登り道がよくわからなかったので、1/25000地形図に記載されている登道の内、比較的傾斜がゆるいと思われた南東麓からのルートを選択した。しかしこれが大誤算であった。南東尾根のルートは、途中までは踏み跡もあり、緩い上り坂が続いていたが、しばらくすると目の前に急峻な断崖の様な斜面が立ち塞がった。厳しい急斜面の直登となり、かなりの苦労を強いられた。高齢の方は、このルートは絶対にやめた方が良い。何とか登りきると、山上の広く緩やかな尾根に至る。ここはもう城域で、主郭南東の曲輪群に当たる。ほとんど自然地形に近く、削平は甘く、切岸も不明瞭である。しかし主郭とは明確な切岸で区画され、切岸前には浅い片堀切が穿たれている。主郭は、内部が数段に分かれているようだが、三角点のある頂部平場とその周囲の平場との間だけ、比較的段差が明瞭だが、それ以外は段差が明確ではなく、全体に傾斜した曲輪である。しかし外周の塁線は明確で、北側には虎口もある。この虎口は主郭とその西側にある二ノ郭との間を分断する堀切に繋がっている。最初、搦手虎口かと思ったが、南東曲輪群の防御性の甘さと主郭背後の遺構の充実度を考えると、こちらが大手虎口らしい。大手と思った南東尾根筋は、自然地形の急斜面で守られているので、登城道はなかったと考えた方が適切な様だ。主郭背後には円弧状に堀切が穿たれ、その先に小さな二ノ郭がある。主郭堀切は、北面に竪堀となって落ちる一方、主郭北側に向かって横堀が繋がっており、東へと下っている。二ノ郭の北面と西面には低土塁が築かれ、北側に土塁で囲まれた小さな腰曲輪、南西には虎口が築かれている。二ノ郭の背後も円弧状の堀切が穿たれているが、主郭のものと比べるとかなり浅く、形状としては横堀に近い。二ノ郭の南西尾根がどうやら大手らしく、腰曲輪群が6~7段築かれている。その先には二重枡形らしい進入路も見られるが、規模が小さく不明瞭である。猿壁城は、主郭背後の遺構は比較的しっかりとした遺構であるものの、あまり大規模な普請は見られず、峻険な地勢そのものを武器とした城であったことが窺われる。
二ノ郭の堀切→IMG_4495.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.272208/140.164926/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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大増城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4332.JPG←南東に落ちる大竪堀
 大増城は、この地の豪族古尾谷氏の居城である。『真壁氏文書』等によれば、1383年に鎌倉公方足利氏満は、前肥後守の古尾谷朝景に真壁郡源法寺郷を与えたとあり、これが常陸古尾谷氏の文献上の初出であるらしい。また1387年には、古尾谷肥後守朝景が安部田郷(真壁郡大和村)に入部したとある。1446年には、古尾谷憲景は関東管領山内上杉氏に属し、憲景に継嗣がなかったため縁戚に当たる臼田勘解由左衛門尉の子・藤四郎政重を養子に迎えて所領を譲り渡している。戦国中期の1549年には小田城主小田氏治が古尾谷広四郎に領地を宛行っており、小田原北条氏に河越夜戦で敗れて没落した山内上杉氏から離れ、小田氏の属将となっていた様である。古尾谷氏がいつから大増城を居城としたかは不明であるが、1555年には「大増城主」古尾谷隠岐守治貞が城下の顕徳院を祈願所とし、1559年に治貞は城下に正法寺を開基して古尾谷氏の菩提寺としていることから、戦国中期までには大増城を居城としていた。その後、佐竹氏が勢力を拡張し、敗れた小田氏が衰退すると、古尾谷氏は佐竹氏に従った。1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、古尾谷氏も秋田に移ってこの地を離れた。大増城はこの時廃城になったと推測される。

 大増城は、加波山の東の裾野に位置する標高100m、比高50m程の丘陵上に築かれている。山頂の主郭から北東に広がる緩斜面上にいくつもの曲輪を段々に配置している。丘陵は更に東へも広がっているが、どこまで城域であったのかは明確ではない。この東の丘陵地は旧畑地で北麓から登道も付いているが、現在は完全に放置され、物凄いガサ藪で進入不能である。ちょっと諦めかけたが、正面が無理なら横に回り込んで攻め登るのが城攻めの基本!ということで、前述の登道から南西の台地上に取り付いて訪城した。山林内に綺麗に段々の曲輪群が残っており、二ノ郭北東には坂土橋が付いている。二ノ郭と主郭は基本的に切岸だけで区画されているが、主郭前面に横矢掛かりの入隅があり、主郭東側には空堀が穿たれて、その外側に土塁が築かれている。実はこの土塁が主郭への大手道で、土塁道はそのまま右に約45°曲がって土橋となり、主郭側方に築かれた大手虎口に繋がっている。土橋の側方には竪堀が穿たれ、前述の空堀と共に虎口の動線を狭めている。これは、小田原北条氏勢力の城に多く見られる構造で、同様な例は武蔵天神山城の東出郭・下野唐沢山城の南東遺構群・下野諏訪山城・上野真下城などで見られる。大増城に北条的築城技法が使われていることについては、後ほど考究することにする。主郭は、後部に大きな土壇と土塁を築いており、櫓が建てられていた可能性もある。北西斜面には横堀が穿たれ、横堀中間部では北麓に向かって竪堀状の城道が伸びている。おそらく搦手であろう。従って、この横堀は堀底道として機能していたことがわかる。横堀は主郭背後の堀切に繋がっている。主郭背後は二重堀切が穿たれ、更に尾根上の小郭・土壇を経由して、もう1本の堀切で城域が終わっている。一方、主郭背後の堀切(二重堀切の内堀)から南東に大竪堀が落ちており、その側方には大きな竪土塁も築かれている。大竪堀の東側には段状に曲輪群が築かれ、竪堀に対して物見台も築かれており、この側方曲輪群から竪堀底の敵を迎撃できる構造となっている。以上が大増城の遺構の概要である。

 さて、小田原北条氏勢力の城に多く見られる、竪堀・横堀連携型の屈曲土橋の構造が大増城でも見られる件であるが、これはどういうことであろうか?小田氏は、最後の当主小田氏治時代に凋落し、佐竹氏に攻め込まれ、北条氏に支援を求めている。その結果であろう。小田氏の本城、小田城でも発掘調査の結果、北条氏の築城技術として名高い障子堀が見つかっていることを考え合わせれば、北条氏の領国に完全に組み込まれなかったにしても、佐竹氏への対抗上、北条氏が小田氏に技術支援をしていた可能性が考えられる。

 尚、以下に顕徳院の方から伺った話を記載しておく。大関集落は宿場町で、東に関所があった。集落内(お寺の方の表現だと「その辺」)に城主居館があった。城主の古尾谷氏は、寺を集落の周辺に配置して小京都みたいな町を作ろうとしたらしい。城主の墓は、以前に他の寺にあったらしいが今は失われてしまった。顕徳院は、昔の火事で古文書がかなり焼失してしまっており、昔の歴史があまり伝わっていない。等の話を伺うことができた。
主郭大手の土橋→IMG_4291.JPG
IMG_4311.JPG←主郭北西斜面の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.305485/140.170505/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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富谷城(茨城県桜川市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4227.JPG←主郭北東の入隅部
 富谷城は、宇都宮氏の家臣で紀清両党と謳われた軍団の一翼を担った益子氏の支城である。益子氏は、隣の笠間氏(宇都宮氏の庶流)と共に元々同じ宇都宮氏に属していたが、領域が隣接していた為、天正年間(1573~92年)に入ると関係が悪化して紛争が多発した。この頃に益子重綱が笠間氏との境目の城として築いたのが富谷城で、家臣の加藤大隅守を置いて守らせ、笠間氏の橋本城と対峙した。『関東古戦録』によれば、1581年以降、益子・笠間の百姓間の境界騒動に端を発し、益子方の富谷城主加藤大隅守と笠間方の橋本城主谷中玄蕃が鋭く対立した。1583年には、両者が交戦し、谷中玄蕃を討死させた。翌年の谷中玄蕃の一周忌に、玄蕃の嫡子孫八郎は弔い合戦に出陣し、富谷城を攻め落としたと言う。

 富谷城は、富谷山の南麓の裾野に築かれている。城の北西部は車道建設でやや破壊を受けているが、その他の部分は遺構が良く残っている。主郭はほぼ方形の曲輪で、北側に土塁を築き、北東隅部は横矢掛かりと鬼門除けを兼ねたと思われる入隅となっている。主郭の北面から西面に掛けては二ノ郭がL字状に取り巻き、主郭との間は空堀が穿たれている。主郭の南西端は南に張出しており、先端に物見台が築かれ、その側方に大手虎口と城道が残っている。主郭南側は段差だけで区画された腰曲輪となっている。主郭北東の入隅の外側には主郭・二ノ郭とそれぞれ空堀で分断された独立小郭があり、櫓台となって主郭東側を監視していた様である。主郭東側は自然地形の谷戸になっている様だが、ここだけ藪が多くわかりにくい。二ノ郭は北辺の一部に土塁が築かれ、北西端に土壇があり、西辺にも低土塁が築かれている。二ノ郭の北側は現在未舗装の車道が通っているが、空堀だった様である。富谷城は、守りの固い城というわけではないが、よく遺構が残っている。特に北東の櫓台(独立小郭)と空堀の配置は巧妙である。
北東の独立小郭→IMG_4225.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.377932/140.103364/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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一栗城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4024.JPG←小館から見た大堀切と中館切岸
 一栗城は、大崎氏の重臣で岩手沢城主氏家氏の一族一栗氏の居城である。当初は一栗放牛が古館を築いて居城としたが、戦国末期にその孫の兵部隆春が新たに一栗城を築いて居城を移したと言われる。城内は、東館(三ノ郭)・中館(主郭)・小館(二ノ郭)・西館(四ノ郭)が馬蹄形に配置され、中館には城主一栗兵部隆春が、東館には隆春の家臣千田雅楽之丞が、小館には同じく家臣の半田土佐守が、西館には隆春の祖父で隠居していた一栗放牛が居住していたと言う。1590年に生起した葛西大崎一揆の時、隆春は一栗城に二百数十名の郎党と立て籠もって、一揆鎮圧を進める伊達政宗の軍勢を迎え撃とうとしたが、政宗は一栗城を無視して東の栗原郡に向かって兵を進めた。これは、一栗氏を含む氏家一族が大崎家中では親伊達派であったため、政宗は敢えて見逃したとも言われる。しかし祖父放牛と共に猛将として知られる隆春は、「小城ゆえに無視された」として怒り、郎党を引き連れて一揆勢の最後の拠点佐沼城に入った。隆春は猛将の名に恥じぬ活躍を見せて、攻め寄せる伊達勢を翻弄した。隆春はここで討死したとも、出羽最上氏の元に逃れたとも伝えられる。放牛も、92歳と言う高齢にも関わらず果敢に戦って討死したと言う(戦国武将の討死としては、おそらく最高齢)。一栗氏滅亡後、一旦廃城となったが、江戸時代には大崎氏の元家臣四釜氏が一栗城で居住した。

 一栗城は、江合川東岸の標高140m、比高60m程の丘陵上に築かれている。南西麓の車道脇に解説板があり、その奥に大手道が残っている。この大手道は、一ノ木戸の先にひな壇状に連なった曲輪群の中央を貫通し、最上段で左折して東館の西側斜面に回り込んでいる。途中は横堀状の通路となり、また櫓台を伴った木戸口(二ノ木戸)もある。その先に進むと中館(主郭群)と東館の間の鞍部の曲輪(堀切兼用)に至る。ここから南に登ると東館で、縦長の曲輪となっており、東辺に低土塁を築き、南端に櫓台を置いている。その先の南尾根には小堀切が穿たれ、更に土壇と細尾根が伸び、尾根の南端に物見台が築かれている。ここは城域の南端に当たり、物見としては絶好の位置にある。また東館の西の塁線上からは大手の城道が監視できるようになっている。東館の北側は、前述の鞍部の曲輪に向かって土塁が伸びている。堀切を兼ねた鞍部の曲輪から中館に向かって木戸口(三ノ木戸)があり、両側に腰曲輪と櫓台が築かれている。ここは、東館の土塁上と木戸口両翼の塁線上の3ヶ所から同時に攻撃を受ける、必殺のクロスファイヤーポイントで、厳重な防御線が構えられている。中館は、南と西に2~3段の腰曲輪を築き、東に伸びる尾根には大堀切を穿って、背後を分断している。堀切手前には櫓台らしい土壇を築いている。中館の大手虎口は西の腰曲輪に向かって開いている。腰曲輪から北に進むと大堀切を挟んで小館に至る。二ノ郭は後部に土塁を築き、東から北にかけて腰曲輪を築いており、特に北に向かって腰曲輪が広がっている。小館を西に進むと、土橋の架かった堀切を介して西館に至る。西館の虎口は小型の桝形虎口になっている様だ。西館も北に腰曲輪を築き、南西端の土塁の先に小堀切を穿っている。その先の細尾根には特に遺構は見られない。西館の北に伸びる尾根にも舌状曲輪がある様だが、時間の都合でパスした。以上が一栗城の遺構で、全ての曲輪群は堀切で分断され、東館・西館共に先端の尾根筋に小堀切を穿っている。腰曲輪も比較的規模が大きく、全体に普請はしっかりしている。虎口は平易な坂虎口が主であるが、大手道が完存しているなど、城の構造がわかりやすい。さすがは戦国末期の城だけのことはあると感じた。

 尚、城の南東麓の樹林寺には、寺の開基である一栗兵部隆春の供養碑が建っている。
腰曲輪群を貫通する大手道→IMG_3872.JPG
IMG_3884.JPG←大手道途中の二ノ木戸
西館~小館間の堀切→IMG_4046.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.695207/140.857837/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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一栗古楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3823.JPG←主郭東側の大堀切
 一栗古楯(一栗古館)は、鹿ヶ城、八幡館とも呼ばれ、戦国時代に大崎氏の家臣で岩手澤城主氏家氏の一族、一栗放牛によって築かれ、その子氏家宗蓮も居館とした。戦国後期に放牛の孫、兵部隆春は一栗城を築いて居城を移した。この時、古楯が廃されたのかは不明だが、一栗城防衛の支城として残されたのではないだろうか。
 尚、一栗(氏家)兵部隆春が一栗城を築城した際、その記念として植樹したと伝えられる大きなヒバの木が、古楯の南中腹に建つ八幡神社宮司の家の庭先に見事な姿を残している。

 一栗古楯は、江合川東岸の比高70m程の舌状丘陵先端部に築かれている。主郭には現在古館八幡神社が建っているので、参道が整備されており、簡単に登ることができる。最初の鳥居をくぐって階段を登っていくと、西側に腰曲輪が幾つか確認できる。中腹は広い平場になっていて、前述の通り宮司の家などが建ち、畑などが広がっている。往時はここも一郭であったろう。更に参道の階段を登ると、神社の建つ主郭に至る。主郭は比較的小さな曲輪であまり居住性はない。神社の東側に古墳があり、往時は物見台になっていたと思われる。主郭の西側には馬蹄形曲輪が一段、南斜面にも腰曲輪があるが、神社建設で一部改変されている。一方、主郭の東側には城郭遺構がよく残っている。主郭は高さ10m程の切岸でそびえており、東尾根を大堀切で分断している。その東も平場となっており、外郭があったと思われるが、藪が多いので未踏査である。大堀切は堀底道を兼ねており、南北の腰曲輪を繋いでいる。堀切の南側は側方に土塁を築いた通路となっており、木戸口か何かがあったようだ。南の腰曲輪は比較的広く、南西部に虎口があって、竪堀状の城道に繋がっている。この部分は参道の階段脇に見ることができる。その他、南側に何段か更に腰曲輪が築かれている。一栗古館は、一栗城に行く途中でたまたま標柱を見つけて立ち寄ったが、予想以上に城跡らしい遺構が残っていた。

 尚、城の名称であるが、普通は単に「古楯(古館)」と呼ばれるが、古楯という城館は各地にあるので、ここでは他と区別する便宜上、「一栗古楯」として記載した。
古墳のある主郭→IMG_3804.JPG
IMG_3811.JPG←南腰曲輪の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.690082/140.863631/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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原田家屋敷(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3770.JPG←屋敷跡の現況
(以前は指差している部分に屋敷跡の
立看板があった)

 原田家屋敷は、一時期伊達政宗の居城になっていた岩出山城の南の谷戸状の平地に築かれた伊達氏重臣の原田氏の屋敷跡である。ここには原田氏3代、即ち17代左馬之助宗時、18代甲斐宗資、19代甲斐宗輔が居住したと言われている。
 以前は北東角の道路脇に立看板で屋敷跡の表示があったらしいが、今回行ってみたところ看板がなくなっていた。明確な遺構もないので、看板がなければ屋敷跡であることが忘れ去られてしまうだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.651701/140.858610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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丸山楯(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3709.JPG←大館南側の空堀
 丸山楯(丸山館)は、大崎天文の内乱の際に、大崎義直と伊達稙宗が岩手澤城(後の岩出山城)攻撃の本陣を置いた城である。一名を照井城とも言い、元々は平安末期の承安年間(1171~75年)に奥州藤原氏3代秀衡の家臣照井太郎高直が築いて居城としたと言われている。そして1189年の源頼朝の奥州合戦の際には、高直は鎌倉勢の先発軍である仁田四郎忠常と照井城に立て籠もって戦い、城は攻め落とされ、高直は討死した。その後この城が歴史に現れるのは、前述の通り大崎天文の内乱の時である。内乱の経緯については、泉沢城の項に記載する。1536年、独力での内乱鎮定ができなくなった大崎義直は、伊達稙宗に援軍を要請し、これに応じた伊達勢と共に叛乱勢力の拠点となっていた古川城を攻め落とした。反乱軍の中心であった新田安芸頼遠は岩手澤城に逃れて立て籠もった。大崎・伊達連合軍は岩手澤城攻撃の為、丸山楯に2ヶ月に渡って本陣を置き、出羽の最上義守の調停でようやく岩手澤城を開城させて反乱を鎮定した。豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易され、葛西大崎一揆を経てその旧領が伊達政宗に与えられると、秀吉の命により岩出山城に居城を移した。この時、丸山楯を改築して東御所と称し、政宗の母の居館とした。関ヶ原合戦後に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、丸山楯は廃城となった。

 丸山楯は、蛭沢川西岸の標高77m、比高30m程の独立丘陵に築かれている。現地解説板によれば、小館・中館・菱館・大館・空館から成っていたとされる。以前は南西麓に登り道があったようだが、現在は深い薮に埋もれており、南西からの登城は不可能である。その為、少々斜度がきついが薮の少ない北東斜面から直登した。主郭に当たるのが大館で、五角形の曲輪で周囲を土塁で防御しているが、郭内は藪で進入困難である。大館は、北東辺は山の急な斜面に面しているが、それ以外の周囲には空堀が穿たれ、その周りに曲輪が配置されている。どれが小館等の曲輪に相当するのかは情報がなく明らかではないので、ここでは大館北西の曲輪を西郭、大館南東の曲輪を南1郭、その南の曲輪を南2郭、大館東の曲輪を東1郭、その南の曲輪を東2郭と呼称する。大館と南1郭の間には土橋が架かり、また南1郭から東2郭へも土橋が架かっており、城内で確認できた土橋は合計2ヶ所である。東1郭は大館側だけに土塁を築いた三角形の曲輪となり、北端は隅櫓台となっている。大館の南東は空堀の十字路となっており、堀底を東に下っていくと東麓の民家に通じているようなので、堀底道として機能していたことがわかる。東2郭は南西角部に大きな櫓台がある。大館の南西側は比較的薮が少なく、空堀も見易い。空堀外側には土塁と腰曲輪が築かれ、中央部には竪堀状の虎口が見られる。この腰曲輪は、大館南北の空堀をそのまま掘り切った竪堀で南北を区画されている。大館の西には空堀を挟んで西郭があるが、ここも藪で進入困難である。大館と西郭の間の空堀が北斜面まで掘り切った先には、細尾根状の物見台が突き出しており、その脇には竪堀が落ちている。大館北東側の急斜面には帯曲輪が築かれ、大館に向かって竪土塁状の城道が登り、虎口が築かれている。帯曲輪の南東端部には虎口が築かれ、竪堀状の城道となって斜面を下っている。以上、主郭である大館の周囲を中心に遺構を探索したが、遺構はよく残っているもののかなりの部分が深いヤブに覆われていて、踏査が容易ではない。震災復興が続いている宮城県では仕方のないことであるが、この未整備の状況は残念というほかはない。
南1郭の東側切岸→IMG_3698.JPG
IMG_3735.JPG←北端に突き出した物見台
1975年の航空写真と曲輪名→航空写真1975.jpg
(画像クリックで拡大)
〔写真出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス〕

 お城評価(満点=五つ星):☆☆(藪が酷いので☆1つ減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.630349/140.879166/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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泉沢城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3645.JPG←主郭
 泉沢城は、大崎氏の一族で大崎天文の内乱を起こした新田安芸頼遠の居城である。当主大崎義直の横暴に怒った頼遠は、1534年、中新田・高木・黒沢らの諸氏を誘って叛乱を起こした。これが大崎天文の内乱で、義直は直ちに頼遠討伐に出陣したが、古川・高泉(高清水)・一迫氏ら大崎氏一族の他、重臣の氏家氏まで叛乱に加担し、大崎家中を二分する大規模な内訌となった。翌年、義直は頼遠の拠る泉沢城を攻撃して降し、頼遠は古川氏の居城古川城に逃れた。その後は古川城が反義直方の拠点となった。その後、一旦は義直方の部将氏家清継が制圧していた岩手澤城が、再び叛乱軍の氏家安芸守によって奪還され、更に高泉直堅が義直方の諸城に火を放って古川氏を援けた。こうして家中の内訌を独力で鎮圧できなくなった義直は、1536年に桑折西山城に自ら出向いて伊達稙宗に援軍を要請し、これを大崎氏への影響力拡大の好機と捉えた稙宗は支援を承諾して、自ら三千余騎を率いて大崎領に進軍した。伊達勢は師山城を拠点に古川城を攻撃し、義直は伊達氏の援軍によって古川城を落とし、その後叛乱軍の最後の拠点となった岩手澤城を2ヶ月に渡る攻城戦の末に出羽の最上義守の調停で開城させて、義直はようやく叛乱を平定した。乱の首謀者である新田安芸は出羽に落ち延びた。その後の泉沢城は、大崎義隆(義直の子)の家臣遠藤和泉守の居城であったと言われるので、遠藤氏に与えられた様である。

 泉沢城は、大崎氏の居城とされる名生城から、谷戸を挟んですぐ北の台地辺縁部に位置している。比高20m程の台地の南東端部に築かれており、昭和30年代後半の航空写真を見ると空堀で区画された東西2郭で構成されていた様で、東の広い曲輪が主郭であろう。主郭は現在は畑となっているが、曲輪の形は往時のまま残っており、西辺には土塁が残存している。北西隅には辛うじて建っている倒れかけたお堂があり、その背後には隅櫓台の土壇がある。西の二ノ郭も畑になっているが、主郭との間の空堀は埋められて湮滅している。二ノ郭周囲も切岸や空堀で防御されていたと思われるが、周囲は全て耕地化しており、旧状はかなり失われている。また以前は南麓の宅地前に城址標柱が立っていた様だが、現在はなくなっている。対岸の名生城と同様、辛うじて遺構が残る城である。遺構はあまり期待できないが、名生城との近さを考えれば、泉沢城が大崎氏にとって重要な城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.617072/140.893221/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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三丁目城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3616.JPG←堀跡らしき低地
 三丁目城は、奥州探題大崎氏の重臣で岩手沢城主氏家氏の一族の城である。城址に建つ薬王神社の社伝によれば、大崎氏の祖斯波家兼の家臣氏家三河守が守護神として深く信仰したとあり、家兼の奥州下向の頃から氏家氏の拠点の一つとして重視されたものらしい。大崎天文の内乱で大崎義直に反抗した氏家直益は、乱の後に家督を嫡子隆継に譲って、自身は三丁目城に隠棲したと言う。

 三丁目城は、江合川東岸の比高わずか数mの低台地上に築かれている。主郭には現在、前述の通り薬王院神社が建っている。周囲に土塁らしい跡があるが、神社建立に伴う改変である可能性もあり、遺構かどうかはっきりしない。主郭の西側に二ノ郭があったと思われるが、現在は民家が建っている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、民家のある二ノ郭は、半円形を変形させた不定形の曲輪であった様だが、現在は地形自体がかなり改変されてしまっているので、南側の切岸ぐらいしか往時のままと思われる地形は無いと思われる。また主郭から二ノ郭にかけての南側は、耕地が低地帯となっており、堀跡だったのではないかと推測される。歴史的な経緯からすれば、隠居城とは言えそれなりの重要性を持った城であったはずだが、現在の姿からは残念ながらそうした過去の姿は見出だせない。また城址標柱も解説板もないのも残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.620458/140.917146/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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宮沢遺跡 外郭遺構(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3574.JPG←北西部の三重空堀の一部
 古代城柵跡である宮沢遺跡については、以前に東北自動車道沿いにある中心部の遺構を訪城したが、その後調べたところ、かなり離れた部分の外郭線にも遺構が現存していることがわかった。そこで晩秋の時期を狙って再訪した。
 再訪したのは外郭の北西部遺構と北辺部中間に当たる長者原地区の遺構である。まず北西の外郭線には、車道脇からちょっと森林公園内に入った所に、中規模の土塁状になった築地跡と空堀が残存している。古代城柵としては驚くほどよく残っており、しかも三重空堀となっている。そこから100m程北側にも更に外周を巡る1条の空堀と築地跡が見られる。また三重空堀の城内側には標高56.6mの小丘(糠塚山)があり、物見台となっていたと思われる。一方、長者原地区の遺構は、わずか10m程しか遺構が残存していないが、北端部と同様に三重空堀と築地跡がはっきりと残り、史跡として保護されている。これらは古代城柵の表面遺構としては極めて貴重なもので、かつ良好に残っている。三重もの空堀で防御した様は、蝦夷との抗争がいかに苛烈なものとなっていたかを物語っている。
長者原地区の空堀・築地跡→IMG_3603.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【北西部遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.629209/140.952873/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

    【長者原地区遺構】http://maps.gsi.go.jp/#16/38.628069/140.956864/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0


古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

古代の蝦夷と城柵 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 熊谷 公男
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 単行本


タグ:古代城柵
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秋保上館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3475.JPG←帯曲輪と切岸
 秋保上館は、上館城とも呼ばれ、秋保郷の土豪秋保氏の庶流馬場秋保氏の城である。戦国時代に秋保氏15代盛房の弟、馬場盛義が馬場村に分封されて馬場秋保氏の祖となり、上館を築いて居城としたと言われている(盛房の次男、賀沢左衛門が城主であったという説もある)。その後、永禄年間(1558~69年)に孫の定重が豊後館を築いて居城を移すまで、その居城となった。

 秋保上館は、名取川支流の南岸に張り出した舌状丘陵先端に築かれている。主郭には現在、馬場愛宕神社が建てられており、参道の階段があるので、簡単に登ることができる。主郭は北側は急峻な断崖となっているが、南側は比較的緩い斜面となっているため、ここに4段の帯曲輪群が築かれている。台地基部に当たる主郭の西側には堀や土塁状の地形が見られる。複雑に派生・屈曲した形をしており、通常の堀切とは形状が異なっている。遺構かどうか悩ましいが、しかし土塁は土が固いので遺構の様である(麓の解説板にも空堀があると記載されている)。堀の北端は掘り切られておらず、土橋で連結されている。この他、主郭の東の急峻な斜面下にも円弧状に空堀が取り巻いている。秋保上館は、遺構は残っているが小規模な城館で、あくまで居館機能を主眼としたものだったと推測される。

 尚、城の名称であるが、普通は単に「上館」と呼ばれるが、上館という城館は各地にあるので、ここでは他と区別する便宜上、「秋保上館」として記載した。
空堀北端の土橋→IMG_3519.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.271509/140.646780/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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砂金城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3411.JPG←広い主郭
 砂金城は、本砂金城とも呼ばれ、伊達氏家臣砂金氏の元の居城である。戦国後期に前川本城(中ノ内城)を築いて居城を移すまで、歴代の居城であった。砂金氏の事績は前川本城の項に記載する。

 砂金城は、標高250m、比高60m程の丘陵上に築かれている。南麓の国道457号線脇に城址解説板が建っている。特に明確な登り道はないので、解説板付近から適当に斜面を直登するしかない。遺構は、山頂の主郭から南東の尾根・その南に派生する中央の南尾根・その左方に位置する南尾根と三方に広がっている。斜面を登っていくと、中央の南尾根先端の小郭に至る。小郭と後ろの尾根上の曲輪との間は小堀切が穿たれている。尾根上の曲輪は縦長の平場で、奥に木戸口のような土盛があるが、少々草木で荒れており遺構かどうかは明確ではない。この先は南東尾根へと武者走りが斜面を迂回するように続き、南東尾根の曲輪群に至る。南東尾根は主郭の手前に築かれた二ノ郭を中心に、二ノ郭の西から南にかけて腰曲輪が取り巻き、その南東に2つの舌状曲輪を築いている。二ノ郭の南端には両側に土塁を築いた虎口があり、北側には主郭に至る大手道があり、側方に櫓台を築いている。その西側に二ノ郭北西端から西の谷戸に降る道がついている。道の上部側方も土塁で防御されている。この谷戸に水の手があったらしい。一方、大手を登ると主郭に至る。主郭はまとまった広さをもった城内最大の曲輪で、西と南に腰曲輪を築いている。特に南の腰曲輪では、腰曲輪からの主郭虎口に櫓台が設けられ、2段ある内の上段の腰曲輪に、土塁で囲まれた小さな穴蔵のようなものが2つ並んでおり、何らかの備蓄庫になっていた可能性がある。南の腰曲輪を2段経由して、その下の三ノ郭に至る。三ノ郭は単純な舌状の平場で、腰曲輪は見られない。一方、主郭の後部に土壇があり、その上からは主郭全体が見渡せる。その裏はやや幅狭の尾根となって北に続いており、小堀切が穿たれている。以上が砂金城の遺構で、大規模な城ではないが、この前に行った大森山楯と比べれば、遥かに城らしい遺構が見られる。
二ノ郭虎口→IMG_3328.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.241618/140.648217/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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