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下須々孫城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7657.JPG←主郭南東に突出した物見台
 下須々孫城は、煤孫城・観音館とも言い、和賀氏の一族煤孫氏の居城と考えられている。南北朝時代には南朝方に属して北朝方の和賀氏一族と争い、「西和賀殿」とも称される勢力を持った。1340年には、北朝方に転じた同族の鬼柳氏と岩崎城で戦いこれを敗ったが、南朝勢力の衰退に伴って北朝方に敗れた。1435年には、煤孫氏は本家の和賀氏と反目し、他の一族家臣を巻き込んだ大規模な内訌「和賀の大乱」を引き起こした。1590年、豊臣秀吉の奥羽仕置によって和賀氏が改易となると、煤孫氏も没落した。1600年、和賀忠親が旧領奪回を目指して南部氏に対して起こした岩崎一揆の際には、煤孫上野義重が岩崎城大手門の守将を務めた。また煤孫一族の下野守治義・助三郎隆義父子も岩崎一揆に加担して戦い、治義は討死し、隆義は和賀氏滅亡後浪人になったと言う。また義重は一揆敗北後、主君和賀忠親と共に伊達政宗の元に身を寄せたが、1601年に仙台の国分尼寺で忠親と共に自刃した。

 下須々孫城は、和賀川南方の比高30m程の段丘上に築かれている。大空堀で分断された東西2郭が主要な曲輪で、東の大きな曲輪が主郭、西の縦長の曲輪が二ノ郭とされる。主郭は公園・神社・畑、二ノ郭は山林・畑となっている。大空堀の南端は巨大な谷に落ち込んでおり、その南に3郭がそびえている。しかし谷は深く急峻で、切岸も絶壁となっていて3郭にはとても登れなかった。また主郭の南東には谷筋を見張る物見台が突き出ており、その脇に堀切で分断された独立した東郭がある。東郭には東・南に腰曲輪が付随している。またこの堀切からは主郭東側を廻る腰曲輪に通じている。腰曲輪の北東部は横堀が穿たれ、その脇に物見台が構築されている。物見台には指揮台石の様な石がある。主郭の北にも横堀・腰曲輪があり、横堀は城内通路を兼ねていたらしく、下方に枡形状の空間が構築されている。以上が、下須々孫城の遺構で、主郭・二ノ郭は何の変哲もない平場に過ぎないが、主郭の外周には中世城郭として見応えのある遺構が眠っている。
堀切と東郭→DSCN7659.JPG
DSCN7691.JPG←主郭北東の横堀と物見台
主郭北側の横堀→DSCN7712.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.281176/141.016774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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