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上須々孫城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7844.JPG←東館の屈曲する空堀・土塁
 上須々孫城は、上煤孫城とも記載され、和賀氏の一族煤孫氏に関連する城と考えられている。『鬼柳文書』によると、1243年頃に和賀義行の3男景行に「須々孫野馬」が譲渡されており、この地が煤孫本郷と呼ばれていることから、煤孫氏の祖となった景行の居城であった可能性が考えられている。しかし和賀氏・煤孫氏の系図には混乱が多く、不明な点が多い。景行は、1285年頃に兄で和賀氏惣領の泰義と相論を起こして対立しており、煤孫氏が惣領の和賀氏から次第に自立していたことがうかがわれる。南北朝時代には煤孫氏は南朝方として戦ったことが知られる。いつの頃からか、下須々孫城を居城としたと推測されるが、上須々孫城の遺構の状況から、戦国時代にも上須々孫城には有力な豪族が居住していたと考えられている。

 上須々孫城は、和賀川南方の比高30m程の段丘上に築かれており、下須々孫城の西方約1.5kmに位置している。熊沢の流れる谷戸を挟んで城域は東西に分かれ、便宜上それぞれ西館・東館と呼称される。
 西館は北東に向かって突き出た舌状台地の先端に築かれており、2本の堀切で分断された連郭式の縄張りとなっている。堀切の内側にはいずれも土塁が築かれている。内堀の内側が主郭、外側が二ノ郭と考えられ、内堀には中程と北端部と2本の土橋が架かり、中程の土橋には二ノ郭側からわずかな横矢が掛かっている。西館の東の縁を車道が通っていて遺構が一部破壊を受けているが、車道の東側にも外堀は残存している。また主郭の先端には経塚があり、鎌倉末期の元亨3年(1323年)銘の石塔婆が山林内に残っている。
 一方、東館は広い段丘の北西部を方形に区画した居館形式の城である。別名を林崎館とも言う。山形の鷹ノ巣楯によく似ており、南と西に直線状の堀を穿ち、南面中央と北東端部の2ヶ所に横矢掛りの櫓台を設け、土橋を架けている。西館と比べると堀の規模は大きく、内側には大きな土塁が築かれている。横矢掛りが見事な整然とした遺構と、堀・土塁の規模から、戦国末期の天正年間(1573~92年)頃の館と推測されているらしい。
 上須々孫城は、下須々孫城と比べると要害性に劣り、防御力も十分とは言い難い遺構ではあるが、東館の大きな堀と横矢掛りは見応えがある。但し、西館・東館ともに薮が多いのが難点である。
西館の外堀と土塁→DSCN7779.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:【西館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.286757/140.997720/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
    【東館】
    https://maps.gsi.go.jp/#16/39.285744/141.000402/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 北東北編: 青森・岩手・秋田

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