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相去城(岩手県北上市) [古城めぐり(岩手)]

DSCN7940.JPG←主郭西側の空堀
 相去城は、和賀氏の家臣相去氏の居城である。相去氏については、1382年の黒岩城主和賀左近将監跡地の領知をめぐる鬼柳式部大夫擁立のための一揆同心状に相去壱岐守の名があり、この頃に相去氏が存在していたことが確認される。1391年、それまで江刺郡に属していた会佐利(相去)郷が和賀(鬼柳)伊賀入道の領地となった。1470年、和賀・江刺両氏の間に兵乱があり、翌年には和賀・葛西両氏が相去の地で合戦に及ぶなど、相去は和賀氏領国の南の境目となっていた。戦国後期の1565年には、胆沢西根城主新渡部摂津守頼長と伊澤(柏山)伊勢守が対立し、頼長は相去城で自刃しており、この時には相去城が存在していたことが確認できる。相去城の最後の城主は相去清三郎、或いは相去安芸守と言われ、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で和賀氏が改易となると、相去氏も没落したと思われる。

 相去城は、洞泉寺背後の比高30m程の丘陵上に築かれている。城の東直下には幹線国道4号線が通る市街地であり、周囲は市街化が進み、城のすぐ側には工場も建っているが、奇跡的に城はほとんど原型を保っている。主郭は洞泉寺の境内であるらしく、北東隅に鐘楼が建てられていて、そこまでの登道も整備されている。この登道は主郭北東面の登城路であったらしく、横堀状の通路となっている。その周辺の斜面には腰曲輪群が築かれている。主郭は丘陵北東部を空堀で区画した広い曲輪で、半分が空き地、残り半分が山林となっている。空堀は西辺と南辺を囲んでおり、南東端部ではわずかに屈曲して横矢を掛けている。西側の空堀は二重横堀となっていて、中間の土塁は途中に膨らみがあり、外側に土塁、内側に平場があり、堡塁として機能していたと考えられる。これは宮城の前川本城と同じ形態である。更に西には少し平場が続いた後、外側に小さな横堀が穿たれている。また主郭の東斜面や南面に腰曲輪が築かれており、主郭の空堀の南西部から南の腰曲輪に通じる堀状通路もある。腰曲輪群の南東隅には、大きな竪堀が麓に向かって落ちている。
 以上が相去城の遺構で、主要な曲輪は主郭しかなく、残りは二ノ郭とは呼べない程度の曲輪群だけで囲まれた、居館的な城である。尚、城内の3/4は薮で覆われており、西の外堀などはわずかに形が分かる程度となっていて、ちょっと残念な状況である。
南東端の竪堀→DSCN7991.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/39.248565/141.097863/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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