SSブログ

山鹿城(福岡県芦屋町) [古城めぐり(福岡)]

DSCN3646.JPG←三ノ郭から見た主郭
 山鹿城は、当初は藤原秀郷流山鹿氏、鎌倉時代以降は宇都宮氏流の山鹿麻生氏の歴代の居城であった。伝承では、天慶年間(938~47年)に鎮西奉行となった藤原秀郷の弟藤原藤次によって築城され、藤次は山鹿氏を称したと伝えられる。以後山鹿氏代々の居城となり、平安末期の城主山鹿兵藤次秀遠は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)の際に平家方に付き、1183年に幼帝安徳天皇を奉じて西国に落ちてきた平氏一門を城に迎えた。しかし源氏方の緒方三郎惟義の軍勢が迫ると聞き、平氏一門は城を離れた。結局秀遠は平家と運命をともにし、滅亡した。鎌倉時代になると、下野宇都宮氏の一族宇都宮左衛門尉家政(宇都宮氏3代朝綱の子)が山鹿秀遠の旧領を与えられて入部し、山鹿氏、後に麻生氏を称した。室町・戦国期には、大友氏・大内氏・毛利氏らに従った。1587年、豊臣秀吉の九州平定により、麻生上総介元重は筑後の小早川隆景の配下とされ、筑後に移り、山鹿城は廃城となった。

 山鹿城は、遠賀川の河口に近い標高40mの城山に築かれている。城山は公園化されているので盛夏でも遺構が確認できるが、改変が見られるのは仕方のないところである。中央に主郭を置き、南北に曲輪を配置している。北に長く伸びるのが三ノ郭で、南の腰曲輪状のものが二ノ郭である。江戸時代の絵図を見ると、二ノ郭は南から主郭西までL字型に主郭を囲んでいた様だが、西の平場は現在では崩落等によって小道ぐらいの幅しか残っていない。三ノ郭の北西と東には腰曲輪がある他、先端部下方にも段状に曲輪群が置かれている。この他、南の尾根鞍部を挟んだ南の高台に出丸が築かれていて、2つの神社の祠が祀られている。以上が山鹿城の遺構で、簡素な構造の小城砦であり、戦国末期にどれほど重視されていたのかは疑問に感じる。
出丸→DSCN3630.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/33.897073/130.669649/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


九州の名城を歩く 福岡編

九州の名城を歩く 福岡編

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2023/03/20
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー