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岩村城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5003.JPG←岩村城のシンボル、六段壁の石垣
 岩村城は、東濃の有力国衆岩村遠山氏の歴代の居城である。遠山氏の祖は、源頼朝に伊豆の挙兵時より仕えてその重臣となった加藤景廉で、1185年に軍功によって遠山荘の地頭職を与えられ、その長子景朝がこの地に入部して遠山氏を称し、岩村城を築いた。以後、鎌倉・南北朝・室町時代を通して遠山氏は恵那郡全体に勢力を扶植し、東濃の一大豪族となった。戦国時代には、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。弘治・永禄年間(1555~70年)になると、遠山氏は南信の伊那谷全域を制圧した武田信玄と、尾張から美濃へ大きく勢力を伸ばし始めた織田信長との間に挟まれることとなった。まずこの地に影響を及ぼし始めたのは東濃への進出を目論む武田氏で、岩村城主遠山景前は武田氏に誼を通じて勢力の安泰を図った。その子景任は武田・織田と両属関係となり、後には信長の叔母おつやの方を正室に迎えるなど徐々に織田方への傾斜を深めた。そして遂に遠山一族は武田氏から離反し、武田氏の攻撃を受けることとなった。1570年、高遠城主秋山虎繁(信友)が美濃に侵攻し、遠山一族と徳川氏傘下の三河衆の連合軍が恵那郡上村で迎え撃って大敗した。敗報を受けた信長は直ちに援軍を派遣し、虎繁は信濃へ撤退した。1572年8月、岩村遠山景任が嗣子なく没すると、信長は自身の5男御坊丸を遠山氏の養嗣子とし、おつやの方を後見人として東濃を支配下に置いた。同年10月、信玄は西上作戦を開始し、秋山虎繁は伊那衆を率いて岩村城を攻囲した。御坊丸の養育と城兵を助命するかわりにおつやの方が虎繁と再婚し、岩村城を開城させて虎繁が城主となった。信玄は翌73年4月、志半ばで陣没し、勝頼が後を継いだ。1574年1月、勝頼は代替わりの緒戦として東濃攻略を企図して岩村城に進出し、周辺の遠山一族の諸城を攻略しつつ明知城を囲んだ。信長は、嫡男信忠と共に鶴岡山に本陣を構えて武田勢と対峙したが、2月6日に飯羽間友信の裏切りによって明知城が落城したため、神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると、信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、半年の籠城戦の末に岩村城を攻略した。降伏した秋山虎繁以下の下伊那の将兵は、助命の約束を反故にされて惨殺され、城内にいた遠山氏の将兵も皆殺しにされ、岩村遠山氏は滅亡した。こうして東濃は完全に織田方の支配下に入り、岩村城には織田氏の部将河尻秀隆が入って、対武田の最前線の城となった。1582年3月、武田征伐を開始した信長は、明智光秀等錚々たる面々を引き連れて岩村城に着陣し、岩村城滞在中の13日頃に武田勝頼滅亡の一報を受けた。武田氏が滅亡すると、秀隆は甲斐一国を与えられて甲府に移り、岩村城は信長の寵臣森蘭丸に与えられた。しかし蘭丸は信長に近侍していたため、留守代として森氏の家老各務兵庫が在城した。同年6月に本能寺の変で織田信長と共に蘭丸も討死した後、東濃地域は羽柴秀吉に服属した美濃金山城主森長可(蘭丸の兄)の勢力下に入ることとなり、岩村城もその領国に組み込まれた。1584年、小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、長可の末弟忠政がその後を継いだが、1599年に信濃川中島に転封となった。森氏3代の間は各務兵庫が継続して岩村城を預かった。森氏の跡には川中島から田丸具安が入ったが、翌年の関ヶ原合戦の際に石田三成の西軍に与し、戦後除封された。1601年大給松平家乗が2万石で入封し、近世岩村藩が成立した。以後、丹羽氏・松平(大給石川)氏が藩主となり、幕末まで存続した。

 岩村城は、標高720mの城山に築かれている。中世の根古屋式山城の遺構をベースに、近世の石垣技術を上乗せしたような城となっている。県の史跡に指定されており、主要部の遺構は山麓から山頂までよく整備されている。北西麓の台地上には藩主邸(御殿)跡の広大な平場があり、現在は片隅に岩村歴史資料館が建っている他、太鼓櫓、表御門、平重門などが復元されている。そこから山上の本丸まで大手道が伸び、大手道沿いに主要な曲輪群と城門が構築されている。初門・一之門を抜けて進むと、両側に石垣のある平場群が現れる。これらの平場群の北西にも曲輪群が展開している。これらを登った先に枡形を形成する土岐門があり、ここで登城路は大きく右に旋回する。その先に大堀切があり、往時は畳橋というL字型の木橋が架かっていた。その先には石垣で囲まれた曲輪がそびえており、追手門と三重櫓の跡がある。更に進むと、緩傾斜地に広い屋敷地跡の曲輪群が登城路両側に広がっており、霧ヶ井などの井戸跡や、八幡神社が鎮座した八幡曲輪がある。それらの上にあるのが城の中心部である。城の中心部はほぼ総石垣となっており、長方形の本丸を山頂に置き、北に二ノ丸、東に東曲輪、またこれらの外周には帯曲輪を廻らしている。更に帯曲輪の外側には南に南曲輪、南西に出丸を築いている。本丸の北東部には、岩村城のシンボルでもある六段壁と呼ばれる石垣がある。二ノ丸は山林に覆われているが、内部に四角い大穴があり、穴の中心に石垣で囲まれた方形の壇がある。庭園か何かの跡であろうか?二ノ丸は東西2段に分かれていて、上段曲輪の東辺中央に石垣の虎口が形成されている。下段曲輪の北東部には菱櫓があったらしい。これらが中心的な遺構であるが、周囲に派生する尾根には中世山城そのままの段曲輪群が築かれ、堀切や物見曲輪も山林内に残っている。これらの支尾根曲輪群の中では、南曲輪と出丸の先の曲輪群は堀切まできれいに整備されている。
 さすがは有名な城だけあって、遺構群はいずれも素晴らしく、見応えがある。各所には解説板も設置されていて、往時の形態も想像しやすい。城だけでなく、城下町にも古い町並みの風情が残り、町家も含めて探訪すべき貴重な遺産である。
土岐門の枡形→DSCN4843.JPG
DSCN4907.JPG←中段の屋敷地曲輪群
南曲輪の支尾根の土橋・堀切→DSCN5029.JPG
DSCN5083.JPG←出丸の支尾根の堀切
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.359840/137.451292/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:近世山城
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