大井城(岐阜県恵那市) [古城めぐり(岐阜)]
←城趾の小学校
大井城は、大井遠江守行秀が城主であったと推測されている。行秀は原蜂屋氏の祖定親の玄孫で、定親の弟頼貞の玄孫は美濃守護土岐持益に当たる。応仁の乱の際、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略したと言う。以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領したと伝えられる。但し、小笠原氏が攻略した大井城が、この城のことであったかどうかは明証はない。
大井城は、中山道大井宿の東端にある台地上にあったらしい。現在は大井小学校の校地となり、地勢以外に明確な遺構は残っていない。ちなみに中山道は、この地から東が木曽路、西が美濃路と呼ばれ美濃・信濃両勢力の接点であったと言う。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455191/137.416027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
大井城は、大井遠江守行秀が城主であったと推測されている。行秀は原蜂屋氏の祖定親の玄孫で、定親の弟頼貞の玄孫は美濃守護土岐持益に当たる。応仁の乱の際、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略したと言う。以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領したと伝えられる。但し、小笠原氏が攻略した大井城が、この城のことであったかどうかは明証はない。
大井城は、中山道大井宿の東端にある台地上にあったらしい。現在は大井小学校の校地となり、地勢以外に明確な遺構は残っていない。ちなみに中山道は、この地から東が木曽路、西が美濃路と呼ばれ美濃・信濃両勢力の接点であったと言う。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.455191/137.416027/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城