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馬籠城(岐阜県中津川市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN4663.JPG←城址の丘陵の現況
 馬籠城は、馬籠丸山城とも言い、木曽氏の支城として戦国末期の戦いの舞台となった。創築時期は不明だが、室町後期には東濃の国人領主岩村遠山氏の一族馬籠遠山氏の所領であり、遠山氏によって築かれていた。戦国中期に甲斐の武田信玄が信濃に侵攻して木曽義昌が武田氏に降ると、東濃にも武田氏の勢威が及ぶようになった。永禄・元亀年間(1558~73年)には岩村氏の勢力圏は、西から勢力を拡大した織田信長と、東の武田信玄との接壌地帯となった。遠山氏が織田方になると、1572年に信玄は重臣の秋山信友を東濃に侵攻させて岩村遠山氏を降し、1574年には武田勝頼が東濃に侵攻して遠山18支城を攻略したとされる。この時馬籠城も武田氏の支配下に入った。1582年に武田氏が滅亡し、その3ヶ月後に信長も本能寺で横死すると、北条・徳川・上杉による武田遺領争奪戦「天正壬午の乱」が生起し、信濃木曽谷を支配する木曽義昌は紆余曲折を経て徳川家康に与し、馬籠城は木曽氏の支配下となった。1584年3月、小牧・長久手の戦いが生起し、濃尾平野を挟んで豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が対峙した。この時義昌は徳川氏から離反して豊臣方に付き、秀吉は信濃の徳川勢の進路を塞ぐため、義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は、妻籠城に重臣の山村良勝を、馬籠城に島崎重通(文豪島崎藤村の祖先)を入れて守らせた。同年9月、家康は飯田城将菅沼定利・高遠城将保科正直・諏訪高島城将諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。徳川勢は妻籠城を攻撃するとともに、一軍を割いて馬籠城攻撃に向かわせた。馬籠城攻撃の徳川勢は馬籠宿の北に陣所を構えた。重通は大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて妻籠城へと逃れた。結局徳川勢は妻籠城攻略に失敗して敗退し、小牧・長久手の戦いも秀吉の政治工作によって講和が成立した。後に家康が秀吉に服従すると、秀吉は信濃諸将の管轄を家康に一任し、木曽氏は再び徳川傘下となった。1590年、徳川氏が関東に移封となると、木曽氏は下総網戸に移された。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏が覇権を握ると、木曽は徳川氏の直轄領となった。1615年、木曽は尾張徳川藩の領地となり、馬籠城は廃城となった。

 馬籠城は、馬籠宿南西の緩傾斜地にある小さな独立丘陵に築かれている。旧中山道沿いには城の解説板が立っている。主郭があったと思われる丘陵頂部は竹林になっているが、削平が甘く、ほとんど地山のままの様である。その南西には広い平場と堀切状の農道、また西側には腰曲輪らしい平場郡が見られるが、耕地化されているのでどこまで往時の形態を留めているのか、よくわからない。結局、遺構を見る限り大規模な普請は行われなかった模様で、小規模な砦であった様だ。この程度の城砦では、島崎氏が戦わずして脱出するのも無理からぬところである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.521932/137.561735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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タグ:中世平山城
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