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苗木城(岐阜県中津川市) [古城めぐり(岐阜)]

DSCN5614.JPG←高森神社の砦から見た本丸
 苗木城は、岩村城主遠山氏の庶流苗木遠山氏の居城である。苗木北方の植苗木(うわなぎ)にあった広恵寺城を本拠としていた苗木遠山氏の一雲入道が、1526年に高森山頂に苗木城を築いて居城を移したと考えられている。これ以前、東濃の恵那中部は信濃の小笠原氏が占領しており、遠山一族は逼塞を余儀なくされていた。これは応仁の乱の余波であった。即ち、西軍の重鎮であった美濃守護土岐成頼の守護代斎藤妙椿が1473年3月に京都に入ると、東軍はこの美濃勢を牽制するため、信濃松尾城主小笠原家長に木曽福島の木曽家豊と共に東美濃へ出兵するよう催促した。同年11月中旬、小笠原・木曽両軍は大井城・荻之島城を攻略し、以後、天文年間(1532~55年)まで小笠原氏が恵那中部を占領していた。しかし大永~天分年間(1521~55年)頃に小笠原氏に内紛が起き、その勢力が弱わったため、遠山一族が旧領を回復する一端を担って苗木遠山氏は苗木城に本拠を移したと思われる。その後、岩村遠山氏を惣領として、明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木の「遠山七家」が東濃の恵那郡一帯に勢力を張り、特に岩村遠山氏、明知遠山氏、苗木遠山氏は三人衆と呼ばれた。永禄年間(1558~70年)の当主直廉は織田信長の妹を娶り、信長が岐阜に入ると岩村城守護の一翼として中山道を押さえた。1570年に直廉が没すると、信長は飯羽間城主城右衛門佐友勝の子、久兵衛尉友忠に苗木城主を継がせた。友忠は、長子を飯羽間城に、次子を阿寺(明照)城に配して武田勢への押さえとした。武田信玄は、重臣で高遠城主であった秋山虎繁(信友)を東濃に侵攻させ、1572年に飯羽間城・岩村城は落城して武田方となったが、苗木城は織田方として持ちこたえた。1575年、長篠の戦いで武田勝頼が徳川・織田連合軍に大敗すると信長は反攻に転じ、信忠を大将とする2万の大軍で東濃奪還を図った。織田軍は武田軍に占拠されていた諸城を次々に奪回し、東濃一円は織田氏の支配下となった。1582年の武田氏滅亡・織田信長横死後、翌83年には友忠・友政父子は豊臣秀吉方の金山城主森長可と争った末、苗木城を放棄して徳川家康を頼って浜松に逃れた。以後、苗木城はしばらく森氏の支配下となった。1599年に森氏が信濃川中島に移封となると、苗木城は河尻直次が領有し、関治兵衛が城代となった。1600年の関ヶ原合戦の際、直次は西軍に付く気色を見せたため、家康は友政に苗木城奪還を命じ、友政は同年7月に苗木城を攻略し、そのまま家康から旧領を安堵され、10500余石を領して苗木藩を立藩した。以後、苗木遠山氏は12代に渡って苗木藩主として続き、幕末まで存続した。しかし江戸300藩中で最小の城持ち大名という小藩であったにもかかわらず、若年寄や大坂警備を任されたため、江戸時代を通して財政は常に破綻寸前であった。

 苗木城は、木曽川北岸にそびえる岩山に築かれている。同じ近世城郭として存続した岩村城と比べるとその規模は驚くほど小さいが、岩村城が県指定史跡なのに対して、こちらは国指定史跡である。そのため遺構はよく整備されている。城は、岩山の上に置かれた狭小な本丸、その周囲を巡る腰曲輪、西側下方の腰曲輪状の二の丸、北に突き出た三の丸から構成されている。いずれの曲輪も近世城郭としてはかなり小さいが、江戸時代の絵図によるとそこに所狭しと建物が建てられていたらしい。曲輪の面積が狭いため、石垣の外に柱を立てた懸造りの建物も多数あったらしい。現在でも礎石が多数残っている。北西にある駐車場から城に向かうと、まず石垣の枡形通路があり、これが竹御門跡である。そのすぐ南には足軽長屋跡の平場がある。その南の台地続きは龍王院跡で、井戸跡や石積みが残っている。その南には高森神社が祀られた小山があるが、腰曲輪を有する往時の砦跡である。ここから眺める苗木城本丸は素晴らしい。腰曲輪群の幾重もの石垣の上に本丸がそびえている。一方、前述の竹御門から散策路を進むと風吹門跡に至る。ここからが主城域である。風吹門の先が三の丸で、大矢倉の石垣がそびえている。三の丸内にも石積みが散見され、北端には北門跡、東側には駈門の枡形がある。三の丸の東には腰曲輪が張り出し、その脇を駈門から東に降る道があり、これが往時の大手道である。腰曲輪の石垣の角部にもう一つの竹門がある。三の丸の南に大門跡があり、それを抜けるとやや広めの腰曲輪があり、御朱印蔵の石垣がある。腰曲輪の西側には二の丸が奥まで広がっていて、ここに城内最多の礎石がある。ここからつづら折れに城道を登っていくと、やがて千石井戸を手前に置いた本丸石垣が眼前にそびえてくる。更に登った先がようやく本丸である。往時は大岩の上に天守があったが、現在は2階床面までの天守骨格の木組みが復元されている。この他、本丸周囲の腰曲輪にも石垣が各所に残っているが、通行禁止になっている腰曲輪もある。南端の不明門や清水門方面も立入禁止になっている。
 苗木城は小城とはいえ、多数の石垣の他、礎石も各所にあり、往時の雰囲気がそこはかとなく感じられる。
三の丸の大矢倉跡→DSCN5685.JPG
DSCN5709.JPG←駈門の枡形
二の丸の石垣→DSCN5920.JPG
DSCN5865.JPG←天守の復元木組み骨格

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.513147/137.485271/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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