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細谷館(群馬県邑楽町) [古城めぐり(群馬)]

DSCN4030.JPG←東の堀跡
 細谷館は、新田義貞の一族細谷右馬助秀国の居館である。新田氏5代政氏の長子国氏が新田荘細谷に分封されて細谷氏初代となり、その孫が秀国である。新田宗家は国氏の弟基氏が継ぎ、基氏の孫が南北朝史に名高い新田義貞である。1335年に足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると、義貞は尊氏に代わる武家の総帥として後醍醐から取り立てられて各地を転戦したが、秀国も義貞に従って転戦した。1336年の足利勢の京都制圧後、越前に逃れて足利方の部将斯波高経と越前で戦っていた義貞は、1338年に灯明寺畷で討死した。統領義貞の死で新田軍は劣勢となり、秀国は再起を図って海路西の丹後国府中に逃れ、籠神社の社家海部氏を頼った。1347年に上野国に戻り、旧知の佐貫氏の支配地、邑楽郡佐貫庄篠塚の坪谷に館を築いて寓居した。これが細谷館である。館の鬼門には丹後府中の籠神社から勧進した。これが現在残る籠宮稲荷神社である。秀国の子勝直が跡を継いだ。時代は下って戦国後期の1570年、小泉城主富岡氏の軍勢の中に細谷右馬助義重・同与一郎の名が見える。1575年に義重が没すると、その子義長が跡を継ぎ、富岡氏の客将となり、小田原の北条氏直に属した。1590年に北条氏が滅亡すると、義長はこの地で帰農した。

 細谷館は、県道152号線の坪谷交差点の北西にある。現在館跡は民家の敷地となっているので内部探索はできないが、北・東・南の三方に堀跡が残っている。西の堀は耕地化で埋められてしまっている。遺構としてはそれだけであるが、中世土豪の屋敷の雰囲気を残している。
 尚、館跡の南方170mには、細谷秀国の墓所五位堂があり、その脇に細谷氏の墓所が残っている。五位堂の名は、秀国の位階によるものとも言われる。
五位堂と細谷氏墓所→DSCN4051.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.240561/139.442350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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