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舘山城 その1(山形県米沢市) [古城めぐり(山形)]

DSC06823.JPG←二ノ丸の大空堀
 舘山城は、米沢市街の南西、三方を川に囲まれた台地の先端の断崖上に築かれた城である。もとは奥州藤原氏の一族、新田冠者経衡の居館であったと言われている。新田氏は後に伊達氏に従って、舘山城を守っていたが、1570年に新田遠江守義直が中野・牧野氏らと叛を謀って伊達輝宗に滅ぼされた。1584年に嫡男の政宗に家督を譲った輝宗は、舘山城を隠居所として米沢城から移り住んだ。1585年の輝宗の横死後、政宗は1587年に舘山を中心にして大規模な築城に取り掛かったが、完成を見ることなく豊臣秀吉の奥州仕置きによって岩出山に移封となった。

 舘山城は、鬼面川と大樽川に囲まれた比高40m程の断崖上にあり、比高は大したことはないが周囲は急崖を成しており、屈指の要害である。台地の先端には舘山発電所が建てられていて、また西からは台地上を導水路が敷かれているので若干の破壊を受けているが、全体に遺構は良好に残っている。さすがに伊達輝宗が隠居城としただけあって規模は大きい。
 本丸・二ノ丸・三ノ丸と横一線に並べた連郭式で、各曲輪間は大きな空堀と土塁で分断している。特に二ノ丸の堀と土塁は規模が大きく、堀幅は15m程もある。城跡には前述の導水路を伝って行くが、そうするとこの大きな空堀に到達するのである。導水路敷設のため堀の深さは浅くなってしまって変形しているようだが、それでも5m程の深さがある。また二ノ丸の土塁はこれまた高さ7~8mもある巨大なもので、曲輪の面積もかなり大きい。二ノ丸内部には窪地のような地形があり、鉢形城の例などからすると、庭園跡であったのかもしれない。三ノ丸は南側に高さ10m程の大きな櫓台を備え、曲輪内部を更に空堀で分断している。この空堀の断面は、前述の導水路から見ることができる。本丸も広く、二ノ丸とは土塁と空堀で分断しているが、二ノ丸のものほどの規模はない。しかしここには見事な桝形虎口があり、近世城郭に引けをとらない大きく立派なものである。内枡形の土塁がきれいに残っており、石が大量に散乱しているので石垣の虎口であったようだ。また二ノ丸の虎口も土塁をうまく組み合わせた食違い虎口になっている。この城は南側は人の登ることのできない断崖になっているため、防御構造は北側斜面に集中している。本丸から二ノ丸まで延々と延びる帯曲輪で防御し、本丸の空堀の先は大きな竪堀が麓まで落ちている。

 さすがは名門伊達氏の城であり、隠居して若き政宗を見守っていた輝宗がこの城に住んでいたことを思うと、感慨深いものがある。端正に作られた虎口が見事な城である。
二ノ丸の大土塁→DSC06903.JPG
DSC06880.JPG←本丸枡形虎口
二ノ丸食違い虎口→DSC06913.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.912409/140.064485/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※後日の訪城記はこちら
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ノリパ

独眼流のお父さんのお城なんですね。
なんかそれだけで、すごそうです。
by ノリパ (2009-07-03 17:44) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
輝宗が在城したのは、実際には1年に満たなかったようです。
家督を継いだ翌年に、
政宗は大内定綱を攻めて小浜城と宮森城を奪取し、
輝宗は宮森城に入りました。
そこで畠山義継に拉致されて非業の死を遂げました。
by アテンザ23Z (2009-07-03 23:20) 

山村刑事

こんばんは。先日舘山城に行ったのですが、アテンザさんは南舘と呼ばれる方は行かれましたか?時間の関係と行き方がよく解らず行く来事が出来なかったのですが、何か明確な遺構が有るのでしょうか?もしご存知でしたら教えてください。

あと大船に有る玉縄城の出城と言われている山崎天神山城に行かれた事はありますか?
by 山村刑事 (2013-12-28 19:51) 

アテンザ23Z

>山村刑事さん
申し訳ありませんが舘山南舘には行ってませんので、詳細は存じません。元々私が舘山城に行った頃は(と言ってもたかだか5年ほど前に過ぎませんが)、最近と違ってネット上に舘山城の情報がほとんどなかったので、とりあえず場所だけ特定して行ってみた、と言う感じでした。その後、発掘調査の結果などが出てきていますので、行ってみても面白いかもしれませんが、地形図を見ると三ノ郭背後の丘陵地から南の急峻な斜面を降っていくしかなさそうですね。それなりの装備と覚悟が必要と思いますので、行かれるのでしたら御気を付け下さい。

また、山崎天神山城は寡聞にして存じません。どのような城砦か、ご教示いただけると助かります。
by アテンザ23Z (2013-12-28 22:34) 

山村刑事

こんばんは。ご返事ありがとうございます。
アテンザさんが行かれた頃はほとんど発掘もされていなくて、注目を集めてはいませんでしたね!それでも米沢は前田慶次、直江兼続ばかりで、案内も米沢駅のどのマップ見ても舘山城が載っていないのには驚きました、、、南館は、また再訪したいと思います。

山崎天神山城に関しては詳しい事は記録に無く
いらしく解っていない様ですが、玉縄城の出城と言われている様です。玉縄城からJRの線路の鉄橋を渡ったすぐの天神山が城跡とされる所で北野神社が有ります。その裏に有る大きな土盛りが土塁と言う事らしのですが、、、また神社裏を登り仏像などが沢山有る平場を通り過ぎた辺りから降りて行った所には虎口ぽい所も有るのですが、神社の有る方など後年の改変もかなり有ると思われ不明瞭な所が多くまだまだ勉強不足の僕にはどこまでが遺構かよく解りませんでした。

あとご存知の可能性も有りますが、玉縄城の遺構が、くいちがいの所の森に空堀と土塁が残っていました、民家の裏を通るので配慮が入りますが、Map333の民家と民家の間の細い道から行く事が出来ます。あとはこちらも民家が有るので声かけ等の配慮が要りますが183辺りの細い道を奥に入り192の方に登ると岩を砕いたなかなかの堀切がありました。

山崎天神山城は城というよりは砦程度で思いますが、特に紹介しているサイトも無い様ですのでアテンザさんに一度見て頂きたいです、よろしければ近くに来られた際に玉縄城の遺構と合わせて行ってみてください。
by 山村刑事 (2013-12-29 21:14) 

アテンザ23Z

>山村刑事さん
こんばんは。いろいろと情報ありがとうございます。
ご存知とは思いますが、玉縄城は周辺城砦群と一体となった防衛網を築いていたようで、他にも二伝寺砦や御幣山砦などがありますが、いずれも大した遺構は残っていません。滝山城の城砦群もそうですが、砦はそんなものらしいです。
玉縄城は、きちんと歩けば、いろいろと知られていない遺構が眠っていますね。私も再訪してチャレンジしてみます。ありがとうございました。
by アテンザ23Z (2013-12-29 22:48) 

山村刑事

こんばんは、いつもブログ楽しく読ませて頂き勉教させて頂いていますし、城跡に行く時は参考にさせていただいていますので、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。僕はまだまだ勉強不足で、、、鬼庭氏の館跡の伝承が有る川井館にも行きましたが、こちらも遺構がよく解らなかったりしています、、。

玉縄城是非再訪されてまた遺構見つけてください!近所の方の話では陣屋坂の上部に有る玉縄城の碑の道を挟んだ反対側の祠の有る所の二段の平場も城跡の名残らしいです。
来年もよろしくお願いします!


by 山村刑事 (2013-12-31 20:41) 

アテンザ23Z

>山村刑事さん
こちらこそ、今後もいろいろと情報交換させて下さい。
良いお年を!
by アテンザ23Z (2013-12-31 22:38) 

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