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谷戸城(山梨県北杜市) [古城めぐり(山梨)]

DSC04758.JPG←二ノ郭の土塁と横掘
 谷戸城は、甲斐源氏武田氏の祖、逸見清光が築いた城と言われている。清光は新羅三郎義光の孫で、逸見の地を本拠として多くの一族子弟を甲斐国内に分封し、甲斐に源氏の勢力を扶植した。特に武田信義は源頼朝に従って平家討伐に功を挙げ、後に戦国大名となる武田氏の基礎を築いた。その後の谷戸城の歴史は定かではないが、戦国期にも武田氏の北信攻略の中継点として活用されたと考えられる。1582年に武田氏が織田信長に滅ぼされ、そのわずか3ヵ月後に信長も本能寺で横死すると、旧武田領を巡って小田原北条氏・徳川氏による天正壬午の乱と呼ばれる争奪戦が生起した。この時、北条氏直率いる北条勢は、碓氷峠を越えて信濃から甲斐へ侵攻し、若神子城に本陣を置き、谷戸城をも占拠して、新府城に拠った徳川家康と対峙した。しかし戦いは、獅子吼城等で勝利した家康が有利に進め、間もなく北条・徳川の間に和議が成立し、甲斐は徳川領となった。

 谷戸城は、八ヶ岳南麓の独立丘陵に築かれた平山城で、現在は公園として整備されている。変な公園化による遺構の改変がされていないため、遺構は良く保存され、雑草が繁茂する夏場でも往時の状況をよく推定することができる。頂上に主郭を置き、それを取り巻くように二ノ郭・三ノ郭が置かれ、更に周囲に四ノ郭・五ノ郭や多くの腰曲輪が取り巻き、山麓に六ノ郭を置いている。各曲輪には空堀や土塁が良く残り、虎口の食違い構造なども明瞭である。二ノ郭と三ノ郭では、土塁の内側に空堀が築かれるという珍しい構造となっている。北側から東側に掛けての外周には長い横堀ラインが築かれているが、東端で直角に曲げて竪堀にして落としている。横堀を直角に曲げて竪堀に変化させる構造は、北条氏鉢形衆の城に良く見られるので、もしかしたら天正壬午の乱の際に北条氏によって修築されたものかも知れない。南西麓には枡形虎口の石積みも残っている。全体に土塁も堀も規模は小さいが、中世城郭の姿を良く残しており、城址公園の好適な例であろう。また、麓に近年新設された谷戸城ふるさと歴史館は無料で、城の歴史がよく分かるほか、北杜市の中世城郭の配置図がGETできるのはありがたい。
主郭虎口→DSC04773.JPG
DSC04850.JPG←外周の横掘ライン

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.856648/138.386171/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0
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