横山党館(東京都八王子市) [古城めぐり(東京)]
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横山党館は、東京都の史跡名では「横山党根拠地」と言われ、武蔵七党で最大規模の武士団横山党の居館である。横山党は、武蔵国司として中央から派遣された小野氏の流れとも、武蔵国造の後裔とも言われ、孝泰またはその子義孝(隆)の時代に多摩丘陵の北、多摩川南流域の小野牧の一部を開墾して定住し、義孝が横山氏を称した。その後、海老名氏・愛甲氏・小沢氏・田名氏・目黒氏・由木氏・矢部氏など一族二十余家を輩出して勢力を張った。前九年の役では横山経兼が源頼義に従って功を挙げ、源頼朝の挙兵時には横山時広・時兼が軍功をたてて御家人に列せられた。しかし1213年の和田合戦で、時兼は和田義盛に味方して敗れ、和田氏一族と共に一族31人が滅ぼされて一族の勢力は衰退した。
横山党館は、現在の八幡八雲神社の境内付近にあったと言われ、都の旧跡にも指定されている。神社境内の一隅に横山氏の御霊を祭った横山神社が建ち、ここから北へ200m程の位置にある妙薬寺には横山氏の供養塔がある。遺構はないが、横山氏所縁の史跡が散在している。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.661167/139.335158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
横山党館は、東京都の史跡名では「横山党根拠地」と言われ、武蔵七党で最大規模の武士団横山党の居館である。横山党は、武蔵国司として中央から派遣された小野氏の流れとも、武蔵国造の後裔とも言われ、孝泰またはその子義孝(隆)の時代に多摩丘陵の北、多摩川南流域の小野牧の一部を開墾して定住し、義孝が横山氏を称した。その後、海老名氏・愛甲氏・小沢氏・田名氏・目黒氏・由木氏・矢部氏など一族二十余家を輩出して勢力を張った。前九年の役では横山経兼が源頼義に従って功を挙げ、源頼朝の挙兵時には横山時広・時兼が軍功をたてて御家人に列せられた。しかし1213年の和田合戦で、時兼は和田義盛に味方して敗れ、和田氏一族と共に一族31人が滅ぼされて一族の勢力は衰退した。
横山党館は、現在の八幡八雲神社の境内付近にあったと言われ、都の旧跡にも指定されている。神社境内の一隅に横山氏の御霊を祭った横山神社が建ち、ここから北へ200m程の位置にある妙薬寺には横山氏の供養塔がある。遺構はないが、横山氏所縁の史跡が散在している。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.661167/139.335158/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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