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遠の倉楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4202.JPG←北尾根の堀切
 遠の倉楯(遠の倉館)は、伊達政宗(貞山公)が合戦していた頃に、馬上11騎・槍鉄砲150人組で守った陣地跡と伝えられる。但し、同じ伝承が近くの前田楯にもあり、詳細は不明である。

 遠の倉楯は、阿武隈川曲流部の西岸にそびえる標高351.3mの山上に築かれている。城内にはテレビの電波塔や愛宕神社があり、未舗装の山道があるので登城は容易だが、その分遺構が破壊を受けている。南北に伸びる尾根上に築かれた山城で、主郭は前述の通り電波塔が建っているので、大きく改変されていると思われる。主郭の南から南西には腰曲輪が築かれている。また主郭の東側には愛宕神社が鎮座する平場があり、二ノ郭であったと推測される。主郭から北に伸びる尾根を薮漕ぎしながら進んでいくと、北の段曲輪群が現れる。その前には中央に土橋の架かった小規模な堀切があり、その先は北郭となっている。北郭の東側にも帯曲輪が付随しており、前述の堀切が城内通路として繋がっていた様である。遺構としては以上で、遠の倉楯は小規模な山城の雰囲気をよく残している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.935872/140.686069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


タグ:中世山城
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前田楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4059.JPG←主郭外周の横堀
 前田楯(前田館)は、伊達政宗(貞山公)が合戦していた頃に、馬上11騎・槍鉄砲150人組で守った陣地跡と伝えられる。但し、同じ伝承が近くの遠の倉楯にもあり、詳細は不明である。

 前田楯は、比高わずか40m程の丘陵上に築かれている。南の車道脇に標柱があり、登道が付いている。基本的に単郭の城砦で、小屋楯と似た感じであるが、縄張りに技巧的なものはなく、素朴な形態である。主郭には現在小祠があるだけだが、南から一直線に登る参道が付いているので、昔はもう少し大きな神社でもあったかもしれない。主郭内部は何段かの平場に分かれているようだが、普請が荒く、緩斜面で囲われている感じで形状はあまりはっきりしない。主郭の外周は南・西・北の三面に横堀が廻らされている。東側だけ広幅の数段に分かれた腰曲輪となっている。南の尾根との間は横堀がそのまま堀切となって分断し、尾根上は物見の様になっている。主郭東側は、東側の腰曲輪に向かって大きく傾斜しているが、虎口のような明確な構造はなく、形態がよくわからない。この他、主郭虎口の内側には桝形状の空間があり、また南の横堀から180度Uターンして上の平場に通じる虎口状の構造も見られる。いずれにしても、全体にざっくりした印象の城で、おまけに全体に薮が多く、特に横堀の大半は薮に埋もれてしまっていて見栄えしない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.933993/140.677614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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小屋楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3919.JPG←主郭虎口前の横堀状通路
 小屋楯(小屋館)は、斎備前と言う武士の居城とされる。『日本城郭大系』によれば、斎備前は御番組峠御番所の軍治様の先祖で、伊達政宗(貞山公)の時代に相馬氏と合戦した頃に居住した所であると言う。しかし城の造りを見る限り一時的な陣城と見られ、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の際に、伊達氏勢力が築いた陣城ではないかと思う。

 小屋楯は、標高420m、比高100m程の山上に築かれている。丘陵の尾根が南東に張り出した先のピーク上に位置している。南麓から地形図に記載されている山道が城の北西の尾根まで伸びており、それを使って城まで近づける。但し、この山道は登口が藪に埋もれていて、最初見つけることが出来ず、行き過ぎて牧草地に出てしまい、そこから藪を突っ切ってようやく山道に辿り着くことができた。城は基本的に単郭であるが、北西尾根に複雑な縄張りを施している。尾根筋を城に近づいていくと、堀切を兼ねた多重横堀が構築されている。四重ほどの横堀で、一番外の横堀内側の土塁は武者溜り状の独立堡塁となっている。またこの多重横堀の南側方には土塁で囲まれた堀底道が二重に構築されており、内側のものは主郭に通じ、外側のものは腰曲輪への桝形虎口に繋がっている。腰曲輪への桝形虎口には、竪堀状通路から腰曲輪木戸口に登る石段らしきものも見られる。主郭虎口も少々複雑で、横堀状通路から土橋で進入するように形成されている。手前には仕切り土塁もあって、虎口への進入路の障壁となっている。主郭虎口に繋がる土橋は虎口と位置がズレており、進入動線を屈曲させている。この構造は、信濃三日城の虎口動線と同じで類例は少ない。主郭内部はあまり明確ではないものの数段の平場に分かれており、山形県置賜地方の山城に多い「重餅型」と呼ばれる多段式の曲輪である。主郭外周には帯曲輪1段が全周し、南から西にかけては帯曲輪は2段構築されていて、前述の多重横堀・出桝形と接続している。以上の様に小屋楯は、複雑な桝形虎口や変則的な出枡形を有し、横堀中間の武者溜りなど、前川本城とも縄張りの共通点が多い。伊達氏系山城の特徴を有し、小規模な城ながら北西部に一点豪華主義とも言える厳重な防御構造を備え、目を見張るものがある。
多重横堀の一部→IMG_3921.JPG
IMG_3907.JPG←腰曲輪への桝形虎口
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.883051/140.706754/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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慈恩寺城館群 その1(山形県寒河江市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3831.JPG←慈恩寺城館群の遠望
 慈恩寺城館群は、名刹慈恩寺の背後の山塊に築かれた城砦群である。永正年間(1504~21年)に、寒河江大江氏14代宗広の死後の後継者争いに山形城主最上義定が軍事介入すると言う紛争があり、その兵火を受けて慈恩寺が焼失してしまっている。慈恩寺城館群は、この焼失を機に自力救済の措置として一山全体を囲む城郭群が築造されて防備を固めたものと推測されている(伊藤清郎著『最上義光』)。慈恩寺の背後を取り巻く様に、西から田沢要害・肥前楯・尾山楯・ゴロビツ楯が築かれ、更に東側にも日和田楯・松蔵楯が形成された。中世の慈恩寺は出羽国の宗教拠点であると共に、一大要塞でもあった。以下、訪城した順に記載する。

【ゴロビツ楯(五郎櫃楯)】
3段の曲輪群→IMG_3705.JPG
 ゴロビツ楯は、主峰である尾山楯の東尾根上の台地に築かれている。現在八千代公園となって公園化されている。案内板の表記で、ゴロビツとは五郎櫃のことだとわかった。城内は3段の平場に分かれ、最上段の後部には土塁が築かれている。また曲輪群の南外周に横堀と腰曲輪が築かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.411668/140.254319/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【尾山楯】
IMG_3761.JPG←西尾根の段曲輪群
 尾山楯は、慈恩寺背後の山塊の標高271.8mの主峰に築かれている。ここも山王台公園となって整備されているが、道の造作でやや破壊を受けている。山頂に主郭を置き、周囲に腰郭を廻らしている。また西尾根に段曲輪群を築き、その側方に土塁・横堀・腰曲輪を配している。この西尾根の段曲輪群と主郭の間は、堀切状の平場で接続している。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.412492/140.250735/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【肥前楯】
主郭→IMG_3776.JPG
 肥前楯は、主峰である尾山楯の西尾根上の峰に築かれている。現在肥前楯公園となっている。尾山楯から山道が付いているが、徒歩でしかアクセスできない。ただの半円形の主郭があるだけで、腰曲輪などは確認できないが、主郭の南側には低土塁が見られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.410844/140.247066/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

【松蔵楯】
IMG_3829.JPG←腰曲輪
 松倉楯は、ゴロビツ楯から南に伸びる尾根上に築かれている。数段の曲輪群で構成されているようだが、民家の敷地を通らないと遺構に辿り着けないので進入は諦め、周りの車道から遠望するだけとした。北側の車道は堀切の名残であろう。また腰曲輪跡が農地となって残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.408978/140.253460/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


 この他の城館については以下の通り。田沢要害は肥前楯の尾根続きにあるが、草枯れしていない初秋では薮が深くアクセス不能。前山楯は、ゴロビツ楯の尾根から谷戸を挟んで北の尾根筋に築かれているが、全体が果樹園となっていて、秋という収穫の季節柄、進入不能。日和田楯は、東に突き出た尾根先端に築かれているが、草枯れしていない初秋では薮で踏査不能。「スーパー地形」で見る限り、堀切で丘陵基部を分断した単郭の城砦の様である。(日和田楯は、後日の訪城記を御覧下さい)
 慈恩寺城館群は、いずれも簡素な構造の城砦で見るべきものは少ないが、寺社勢力が自力救済のために築いた城砦がどの様な性格のものだったのかがよく分かる。

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 作者: 伊藤 清郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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長瀞本楯館(山形県東根市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3674.JPG←堀跡の水田
 長瀞本楯館は、最上氏4代満家の居館であったと推測されている。満家は長瀞殿と呼ばれており、隠居後に長瀞本楯館に移ったと考えられている。
 長瀞本楯館は、現在は微高地の果樹園となっている。かなり大きな城館で、南北に長い縦長の主郭の周囲には一段低い堀跡の水田がコの字型に明瞭に残り、主郭東側の塁線は中央がやや内側にへこんで、横矢掛かりの折れも見られる。特に解説板も標柱もないが、遺構は明瞭である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.462713/140.359697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 作者: 伊藤 清郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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豊龍館(山形県朝日町) [古城めぐり(山形)]

IMG_3585.JPG←主郭の現況
 豊龍館は、戦国期の鳥屋ヶ森城主岸美作守の館と考えられている。東五百川の大部分と山辺の一部を支配していたという。現地の石碑の碑文によれば、1494年、岸民部義忠が鳥屋ヶ森城主となりこの地を治め、その子孫が岸美作守義満で豊龍館に居住したらしい。前田沢楯と共に鳥屋ヶ森城の支城として機能したとされるが、支城と言うよりは平時の居館と言う方が相応しい様に思う。

 豊龍館は、最上川東岸に突き出た標高189.4mの舌状台地に築かれている。現在は豊龍の丘公園となって改変を受けている。台地の付け根から先端に向かうに連れて徐々に高くなり、先端の主郭部が一番高くなっている。主郭と東の平場の間は7~8m程の高低差がある。『山形県中世城館跡調査報告書』に「2本の空堀の一部が残る」とされるのがこの段差部らしいのだが、公園化による改変が多く、腰曲輪の様にしか見えない。主郭北端に土壇があり、櫓台か土塁の跡らしい。また主郭外周には帯曲輪が遊歩道に変貌して残っている。この他、主郭東の平場の周りに土塁状の土盛りがあるが、これは遺構ではないのだろうか?虎口っぽい地形もあり、非常に紛らわしい。立派な城址碑が建っているが、とにかく改変が多く、遺構としてはかなり不明瞭なのが残念である。それと、なぜか北側の眼下にダチョウ!が放し飼いされているのにはビックリした。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.304638/140.141945/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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荒谷(阿谷)古戦場(山形県天童市) [その他の史跡巡り]

IMG_3464.JPG←古戦場碑
 荒谷(阿谷)古戦場は、南北朝時代に北朝方の幕将で奥州管領吉良貞家・貞経父子と南朝方の北畠顕信が会戦した場所である。1351年11月のことと言われる。この時期は室町幕府の大規模な内訌「観応の擾乱」の最中で、奥州の押さえである奥州管領(後の奥州探題)として下向していた畠山国氏・吉良貞家が足利尊氏派・直義派に分かれて争い、1351年2月に直義派であった吉良氏は、尊氏派の畠山高国 ・国氏父子を岩切城に攻め滅ぼしている。北畠顕信は、兄・北畠顕信が石津の戦いで敗死した後、奥羽を転戦して逼塞を余儀なくされていたが、この両派の抗争の隙を突いて再起し、荒谷(阿谷)等で吉良氏の軍勢を相次いで撃ち破ったと言う。一時は多賀城を奪還するまでに至ったが、しかしそれも束の間で、態勢を立て直した吉良氏の反撃を受け多賀城を失陥、1353年には宇津峰城も落城して、再び出羽に逼塞したと見られている。

 古戦場跡には現在北畠親房・顕信父子を祀った北畠神社が建てられている。境内には古戦場碑が建ち、往時の合戦の歴史を伝えている。それにしても、神社の由緒に「南朝の忠臣北畠顕信卿」「北朝の賊将陸奥探題吉良貞家・貞経父子」とあり、漆川古戦場の項でも書いたが、いい加減に皇国史観に毒せられた時代錯誤な解説文は書き改めて欲しいものだ。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.314707/140.393965/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


タグ:古戦場
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泉出城(山形県山形市) [古城めぐり(山形)]

IMG_3450.JPG←城跡付近に残るもとだて公園
 泉出城は、最上氏の庶流大極兼義の初期の居城である。兼義は、羽州探題(出羽按察使であったとも言われる)として山形に入部した最上氏の祖、斯波兼頼の子・直家の6男で、成沢の地に分封されて、1381年に泉出城を築いたと言われている。しかし、僅か2年後に成沢城を築いて居城を移したと伝えられている。
 泉出城は、須川と鳴沢川に挟まれた台地上に築かれている。現在城跡は完全に市街化され、遺構は完全に湮滅している。付近には的場・主屋敷・本舘(本楯)・稲荷堂等の地名が残っているらしいが、短期間の城館であったため、どの様な縄張りだったのかは全く不明である。僅かに「もとだて公園」と言う名前のみにその名残を留めているだけである。尚、もとだて公園の南東にやや離れて稲荷社があり、その由来に「山形城の護衛として本楯があったが、毎年の川の氾濫のたびに流域が変わり住民とともに困惑を見兼ねて、山形城主最上家の近親が荒川圭水の守り神として寄贈した」と記載されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.209371/140.314443/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (織豊大名の研究6)

最上義光 (織豊大名の研究6)

  • 作者: 竹井英文
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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掛入石(山形県上山市) [その他の史跡巡り]

IMG_3385.JPG←国道脇の掛入石
 掛入石は、慶長出羽合戦にまつわる史跡である。古くから置賜と村山の領境を示す境石であった。往時は下部が窟となっていて、数十人も入ることができたと伝えられている。1600年の慶長出羽合戦の際、直江兼続率いる上杉勢は背後の憂いをなくすために置賜・庄内の2方面から最上領に大挙侵攻した。この内、置賜からの侵攻軍は畑谷城へ向かった主力軍とは別に、中山城の城将横田旨俊らに率いられた別働隊4000が、最上領との国境中山口から山形を衝くべく、上山城の攻略を目指した。これを迎え撃った最上勢は、上山城主里見民部及び山形からの援軍草刈志摩守を将とする軍勢で、果敢に攻撃を仕掛けて激戦の末に上山口の上杉勢を撃退した。この戦いの中で広河原合戦が行われたが、撤退した上杉勢はこの窟に潜んで、追ってきた最上勢を撃退したと伝えられ、その故事から「かくれ石」とも呼ばれていると言う。

 掛入石は、明治29年に奥羽本線敷設の障害となったため、ダイナマイトで割削されたらしい。しかし今でも大きな岩塊で、多くの祠と上山藩領境界石標が残っている。車がバンバン走る主要国道13号線の脇の下方に解説板と岩塊が人知れず立っている。

 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.129122/140.221317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


最上義光 (人物叢書)

最上義光 (人物叢書)

  • 作者: 伊藤 清郎
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2016/03/11
  • メディア: 単行本


タグ:古戦場
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内小山の砦(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3291.JPG←砦跡の現況
 内小山の砦は、後閑館を防衛する砦である。後閑館の東側に隣接する台地の突端に築かれており、北端に堀切があるらしい。後閑館の脇から台地上に登る小道がある。現在砦跡の大半は畑となっており、北端部は山林となっている。おそらくこの山林内に堀切が眠っていると思うが、訪城したのがまだ草枯れの時期には早く、しかも民家の裏で丸見えだったので、それ以上の探索は諦めた。尚、『日本城郭大系』では「内小山」とは「内出」の誤写ではないかと推測している。確かに古文書ではありがちな、字の写し間違いの可能性がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.684871/138.997757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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後閑館(群馬県みなかみ町) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3275.JPG←館跡の土塁と石垣
 後閑館は、南北朝時代初頭に後閑次郎祐房が築いた居館と言われている。後に内小山砦(内出)を附加した。祐房以後、後閑氏は7代続き、1554年に民部泰良が亡くなると、その家系は娘婿の増田正雲斎が相続した。その後、1681年まで増田氏により庄屋職が継承されたと言う。
 後閑館は、利根川東岸の段丘上に築かれている。後閑集落の一角にある民家が館跡で、西側に石垣、北側に土塁が残っている。この土塁には虎口跡らしい切れ目があり、土塁内側は石垣になっている。北西の角に標柱が立っている。館跡奥の 増田堂というお堂の脇に解説板があったらしいが、見逃した。というか、民家の敷地なので無断では入れなかったと言うのが正しい。石垣は後世に積み直されていると思うが、館跡を囲っていることは明瞭で、しっかりした遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.683443/138.997307/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


タグ:居館
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天神城(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3255.JPG←城址の遠望
 天神城は、1557年に沼田万鬼斎顕泰が築いた隠居城である。しかしただの隠居城ではなく、血生臭い沼田氏の抗争の場となり、結局それが沼田氏滅亡の原因となった。万鬼斎は嫡男朝憲に家督と沼田城を譲り、朝憲は上杉方の部将として活躍していた。隠居した万鬼斎であったが、共に天神城に移っていた末子平八郎景義を溺愛し、その母親である側妾(重臣金子美濃守の妹。伝承では「ゆのみ」と言う名であったらしい)の願いを容れて景義を沼田家の当主にする為、1569年正月に朝憲を天神城で誘殺した。朝憲が殺されたことを知った朝憲の一族・家臣達は、万鬼斎父子を討とうと川場に押し寄せ、川場合戦となった。大雪の中で生品を中心に合戦が行われ、小勢の万鬼斎は敗れて、景義と共に会津蘆名氏を頼って落ち延びた。その後、万鬼斎は会津で客死し、景義は葦名氏の庇護を受けて沼田への復帰の機会を窺った。一方、城主を失った沼田城は、上杉謙信の関東経略の際の重要拠点であった為、上杉氏の支配下に置かれた。1578年に謙信が急死すると後継を巡って御館の乱が起こり、沼田城は北条氏の管轄下に入った。しかし1580年、沼田城将の藤田信吉は真田昌幸に通じて武田方に寝返り、沼田城は真田氏の管轄下に置かれた。1581年3月、由良氏の支援で女渕城主となっていた景義は、金山城主由良国繁の後援を受けて沼田城奪還を目指して攻め寄せ、高王山城に本陣を置いて沼田城を窺った。景義の伯父金子美濃守は藤田氏と共に沼田城にあって昌幸の麾下にあり、昌幸から恩賞を約束されて、景義を沼田城へ誘い出し謀殺した。この結果、13代に渡って利根沼田の盟主であった沼田氏は滅亡した。

 天神城は、薄根川と溝又川の合流点に突き出た段丘先端部に築かれている。城址は公園として整備されている。台地基部から城に向かって遊歩道が伸びているが、途中で大きく降った鞍部となっており、堀切の名残と思われる。城自体は狭い主郭だけの単郭の城の様であるが、城址石碑裏の碑文によると、明治の頃までは数倍の広さがあったが、その後の水害による崩落で現在の状況になったらしい。平場しか残っていないが、沼田氏滅亡の原因となった城として、歴史的に重要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.682841/139.085219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 文庫


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勝山城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3240.JPG←解説板が建つ遊歩道
 勝山城は、1371年に赤松氏が築いたと言われている。その後1427年、赤松能亮の時に関口へ改姓したとされる。戦国前期の1525年、関東管領山内上杉氏の重臣総社長尾氏の居城である総社要害城(蒼海城)の支城となり、関口清房が在城した。1566年に武田信玄の上州攻めにより、箕輪城主長野氏が滅ぼされると、勝山城も武田勢の攻撃によって落城、廃城となった。江戸時代に入り、総社領主となった秋元長朝が総社城を築くと、勝山城の故地はその一部に取り入れられた。現在勝山城の遺構は、勝山小学校の北西部に一部を残し、ほとんどが利根川の氾濫により崩落して消滅したと言う。

 勝山城は、現地解説板によれば元景寺の北西側一帯にあったらしい。外郭外周は全長4kmにも及んでいたらしいが、今は改変され尽くしてしまい、どのような縄張りだったのかもよくわからない。解説板は利根川沿いの遊歩道脇に建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.417087/139.039493/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

群馬県の歴史散歩 (歴史散歩 (10))

  • 作者: 群馬県高等学校教育研究会歴史部会
  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2005/12/01
  • メディア: 単行本


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大友氏館(群馬県川場村) [古城めぐり(群馬)]

IMG_3047.JPG←境内に残る土塁らしき跡
 大友氏館は、川場館とも言い、南北朝時代には鎮西の三豪とも言うべき豪族で織豊期まで存続した戦国大名大友氏の所縁の城館である。特にキリシタン大名として有名な大友宗麟を輩出した大名として知られている。元々大友氏は、相模国足柄郡大友郷を本領としていたが、鎌倉初期には豊前・豊後守護職兼鎮西奉行となり、九州に本拠を移した。『日本城郭大系』には、大友刑部がこの館に住み、南北朝時代の1368年に新田義宗と戦って討死したと記載されており、館跡に建つ桂昌寺の解説板にも同様の記載があるが、これは史実とは見做し難い。大友氏が創建した吉祥寺のパンフレットによれば、川場村には大友氏6代貞宗の庶子即宗や8代氏時の庶子氏能など大友氏の係累が多く居住したとされ、それら大友一族の居館であったのが実態であろう。しかし大友氏と川場村の関係については、河波姫の伝説などに彩られており、実態は不明である。

 大友氏館は、桂昌寺周辺が館跡とされる。土塁が残っていると現地解説板にあるが、かなり改変されているらしく、どれが土塁跡なのか明確ではない。西には細流があって天然の堀となっていたほか、周辺にも水路が流れ、堀の名残を残している様である。また境内には大友氏時夫妻のものとされる墓が残っている。大友氏館は、偶々花が綺麗だということで吉祥寺に行ったところ、なんと大友氏所縁の寺であったことがわかったため、帰ってからネットで調べてみたらその存在がわかったため訪城した。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.700184/139.106591/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

豊後大友氏 (中世西国武士の研究)

  • 作者: 八木 直樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/09/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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白井城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2788.JPG←主郭虎口の石垣
 白井城は、関東管領山内上杉氏の重臣、白井長尾氏の居城である。南北朝期の1337年に鎌倉府の執事であった上杉憲顕が上野・越後両国の守護となると、長尾景忠が守護代を務め、上野に入部したとされる。しかし当初から白井に本拠を置いていたわけではなく、白井城が築城されたのは室町中期の景仲の代であったと考えられている。景仲は山内上杉氏の家宰を務め、享徳の大乱では山内上杉氏の主力として活躍した。景仲の孫景春は、主君山内上杉顕定が家宰職を景春の叔父の総社長尾忠景に継がせたことに反発し、鉢形城を築いて挙兵した(長尾景春の乱)。景春の攻撃によって、古河公方勢に対する上杉氏の五十子陣は崩壊し、この後数年に渡って景春と扇谷上杉氏の家宰太田道灌との間で関東平野を広範に巻き込んだ戦闘が繰り広げられた。この間顕定の兄、越後上杉定昌は白井城に本陣を移した。一時期、道灌も白井城に来城したらしく、主郭虎口に残る石垣は道灌の指導で築かれたとの伝承がある。4年に渡る反乱が鎮定されると白井城は再び白井長尾氏の本拠となったが、山内上杉氏と越後上杉氏との連絡を担う重要拠点として機能し、度々山内上杉氏も白井城に本陣を置いた。戦国時代に入ると、山内上杉憲政は北条氏康に駆逐され、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。謙信が関東に出馬すると、白井長尾氏は謙信に従った。その後、上杉・北条・武田の三大名による覇権争いの中で白井城の帰属も変転し、戦国末期には北条氏の支配下にあった。1590年の小田原の役では、前田・上杉らの北国勢の攻撃を受けて開城した。徳川家康が関東に入部すると、白井城は家臣の本多広孝に与えられた。1624年に本多氏が無嗣除封となると、白井城は廃城となった。

 白井城は、利根川と吾妻川の合流点に突き出た段丘上に築かれている。南端から笹曲輪・主郭・二ノ郭・三ノ郭・北郭・外郭を配置し、更に主城部の南東の低地に南郭・新曲輪を築いていた。遺構は、低地の曲輪や外郭は湮滅しているが、それ以外の北郭までの部分はかなり明瞭に残っている。特に主郭と笹曲輪は城址公園として整備されている。笹曲輪先端には櫓台が築かれている。主郭外周には土塁が全周し、北側の二ノ郭との間には大きな堀切が穿たれている。中央に土橋が掛かり、右方は塁線が張り出して横矢を掛けている。主郭の虎口は大型の枡形虎口となっていて、前述の通り石垣が残っている。二ノ郭との間の堀切は、塁線の折れに伴ってL字状に折れているが、現地解説板ではこれを三日月堀と称している。しかし実際はL字に折れているだけであり、三日月堀でも何でもない。飯山城のところでも書いたが、武田氏が関係した城にはすぐに「三日月堀」と名付けたがるのは悪しき風習である。二ノ郭から北郭までは畑となっているが、堀跡は良く残っている。土塁は北郭の虎口脇だけ残っており、城山不動尊が建てられているのが櫓台跡であろう。この他、主郭から三ノ郭にかけての東斜面に横堀と帯曲輪が延々と築かれ、二ノ郭の堀切との合流点には土橋も掛けられている。遺構は以上であるが、外郭の東と北の堀跡の木戸跡に北遠構・東遠構の石碑が建っている。広範に遺構が残り、規模も大きく、しかも草枯れにはまだ早い初秋の時期でも整備が行き届いており素晴らしい。選地や城の構造・規模は大庭城とよく似ている。いずれも印象に残る名城である。
主郭のL字の堀切→IMG_2848.JPG
IMG_2857.JPG←主郭東斜面の横堀・帯曲輪
ニノ郭の空堀→IMG_2978.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.508808/139.010546/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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渋川城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2779.JPG←民家の裏の土塁と堀跡
 渋川城は、1572年に真田幸隆らの武田勢が白井城を攻略した際、武田方に与した渋川地衆が築いたとされる城である。しかし白井城を逐われた長尾憲景は、逃れた八崎城より反撃に転じ、武田勢を破ったと言う。
 ちなみに同じ渋川城の別称がある入沢城があり、そちらの方が歴史が古いので、こちらは渋川新城と呼んだ方がわかりやすいかも知れない。

 渋川城は、正蓮寺の境内と民家の敷地となっている。周囲を2つの小河川で囲まれ、3~4m程の段差で区切られた要害地形である。明確な遺構は少ないが、堀跡の水路(前述の小河川)が残り、正蓮寺の西側の民家西には土塁が確認できる。その西側に車道が通っているが、堀切の名残であろう。遺構は僅かだが、正蓮寺に城址の石碑が建ち、城の歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.497942/139.002178/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

真田幸隆 「六連銭」の名家を築いた智将 (PHP文庫)

  • 作者: 小川 由秋
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/01/06
  • メディア: 文庫


タグ:中世平山城
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漆窪城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2715.JPG←主郭の現況
 漆窪城は、弘治・永禄年間(1555~70年)の頃、総社長尾氏の一族長尾大膳の城であったと伝えられている。その他の詳細は不明である。
 漆窪城は、赤城山の南西に広がる広大な裾野の一角、段丘の先端部に築かれている。城跡はほとんど畑に変貌しているが、曲輪間の段差が残るほか、主郭北側には堀切が車道となって残っている。『日本城郭大系』では4本の堀切で分断されていたと記載されているが、現在その姿を残すのは、前述の主郭北側のものだけである。その他は埋められてしまったらしい。また先端の笹曲輪との間の堀切は農地の先端にあるため確認できていない。主郭の北東角から東斜面に小道が降っており、大手であったらしい。木戸跡のような土壇とその両側には腰曲輪が確認できる。主郭の北には堀跡の道路を挟んで三ノ郭があり、林となっている。ただの平場であるが、両側が主郭に向かって張り出しており相横矢になっていた様である。主郭の角に城跡の石碑と解説板が建てられているが、全体に遺構の残存状況は余り良いとは言えない。少々残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.465351/139.071615/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

上杉憲政-戦国末期、悲劇の関東管領- (中世武士選書シリーズ34)

  • 作者: 久保田順一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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箱田城(群馬県渋川市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_2676.JPG←南西辺の横矢の張り出し
 箱田城は、戦国時代に上野守護代で白井城主であった白井長尾氏の出城として、箱田地衆によって築かれたと考えられている。しかし詳細は不明である。
 箱田城は、標高208mの独立丘陵である城山に築かれている。曲輪の規模は大きいが単郭の城で、南西辺で横矢の張り出しを持ち、主郭外周に土塁と空堀が築かれている。空堀は全周しているわけではなく、一部は腰曲輪となっている。主郭内には「たちばなの郷 城山」と言う温泉施設が建っているが、周囲の遺構はよく残っており、城址標柱・解説板の他、大手・搦手等の表示もある。その為、草枯れにはまだ早い初秋の時期でも訪城でき、遺構の損壊が少ないやり方に好感が持てる。縄張り・立地など真壁城と似ており、同じ築城主体であった可能性が考えられるが、なぜ至近に似たような城を築いたのかは不明である。真壁城の項でも記載した通り、恒久的な城と言うより、臨時の陣城や作戦上の物資備蓄基地の色彩が強いように思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.462340/139.041038/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1


山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

山内上杉氏 (シリーズ・中世関東武士の研究)

  • 作者: 黒田 基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/05/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世平山城
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