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宇田城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6377.JPG←三ノ郭背後の堀切
 宇田城は、国峰城主小幡氏の庶流小幡図書介景純(景定)の居城と伝えられている。戦国時代、小幡憲重・信貞父子は関東管領山内上杉氏の宿老であったが、山内上杉憲政が相模の北条氏康の攻勢によって越後に逐われると、1553年に甲斐武田氏に服属した。憲政亡命後、西上州に残った上杉方として奮闘する箕輪城主長野業政は、小幡父子の留守に乗じて国峰城を奪い、一族の宇田城主小幡景定を国峯城主とした。居城を奪われた信貞は、武田氏の支援によって南牧の砥沢城に入り、市川氏などの南牧衆が付けられた。1561年、第4回川中島合戦の後、武田信玄は国峰城奪還戦を開始して景定を追い落とし、信貞は国峰城主に復帰したと言う。また一説には、甘楽大夫友政が宇田城主であったともされる。

 宇田城は、標高250m、比高65m程の山上に築かれている。東西に並ぶ2つの峰から南東にそれぞれ伸びる尾根上に曲輪群を展開しており、比較的規模の大きな山城である。城の主部は西側の峰から伸びる尾根上にある。居館跡(宇田西城)とされる神守寺方面から登道が付いており、登り始めてすぐに大手の多段曲輪群が現れる。結構規模の大きな曲輪も多く、兵舎や倉庫群が並んでいたと想像される。大手曲輪群の最高所が三ノ郭で、後部に櫓台を築き、背後を堀切で分断している。その北側がニノ郭で、更に堀切を挟んで最高所の主郭群がある。ニノ郭から主郭群の東斜面には整然と腰曲輪が築かれている。三ノ郭背後の堀切は竪堀となって腰曲輪を貫通・分断しているが、ニノ郭背後のものは腰曲輪に連結しており、東西の腰曲輪を繋ぐ城内通路を兼ねていたことがわかる。またこの主郭~二ノ郭の東側腰曲輪群は構造がやや複雑で、段差でいくつもの曲輪に区画され、竪堀状の通路で下部の腰曲輪と繋がっている。主郭は南側に虎口小郭を張り出し、外周に腰曲輪を廻らしている。北西尾根に段曲輪を設け、堀切とされる尾根鞍部の先に物見台の峰がある。一方、主郭群から北東の尾根には比較的規模の大きな二重堀切が穿たれ、その先に北城がある。北城は、最高所に、南東の尾根に段々に曲輪群を連ねている。一部に堀切も見られるが、北城は全般的に薮が酷く、遺構の確認が難しい。以上が宇田城の構造で、それほど技巧的な縄張りではないが、全体的に整然とした縄張りで構築されており、特に主城の方は薮も少なく、遺構を堪能できる。
大手曲輪群→IMG_6334.JPG
IMG_6436.JPG←二重堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.261594/138.847575/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:中世山城
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宇田西城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6321.JPG←館跡とされる神守寺
 宇田西城は、宇田城の山麓居館と推測されている。現在の神守寺の位置にあったと考えられている。東の平地に対して段丘の上に位置しているが、遺構は全く確認できない。宇田城に登るために車を停めさせてもらったついでに寄る程度の城であろう。尚、普通なら「宇田館」と呼びそうなものだが、わざわざ「西城」と名付けられている理由は何なのだろう?江戸時代からの呼称だと思うが、不思議である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.258757/138.847210/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
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高林城(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6228.JPG←竪堀状の虎口
 高林城は、歴史不詳の城である。一説には、小野篁の後裔で上野権守となった小野氏が鎌倉時代に居城としたとも言われるが、明証はない。現在見られる遺構は戦国時代後期のものと考えられる。

 高林城は、標高259.5m、比高約100mの山上に築かれている。北麓の黒岩小学校脇の墓地裏から登山道が整備されており、迷うことなく城まで行くことができる。主郭を中心とした環郭式の縄張りを基本形とするが、北側にはニノ郭・三ノ郭が連なり、部分的に連郭式となっている。主郭は眺望の良い平場で、西には妙義山や浅間山がよく見える。主郭の外周には腰曲輪が廻らされ、更に東側にはもう1段の腰曲輪があって、二ノ郭に通じている。この上下の腰曲輪間の通路は竪堀状の虎口となり、上部で屈曲して上段の腰曲輪に通じている。ニノ郭は、西辺と北辺に土塁が築かれ、北には中規模の堀切が穿たれている。堀切の北には東西に長い三ノ郭があり、後部の堀切沿いに土塁を築いている。三ノ郭の北と北西の尾根にはそれぞれ段曲輪が築かれている。この他、主郭腰曲輪の西と南に堀切が穿たれ、南では小ピークが物見台となっている。南の堀切は外周を巡る最下段の腰曲輪を繋いでおり、この腰曲輪は東側から北東部にかけて横堀となっている。前述の登道は、この横堀部分に繋がっているが、三ノ郭と北段曲輪はこの登城道の西側にそびえて防御線となっている。また北段曲輪の北の尾根も堀切状になり、物見台の様なピークも見られる。高林城は、大きな城ではないが、横堀・堀切・腰曲輪・竪堀状虎口など整然とした形態を示している。縄張りの形態から考えると武田氏の築城の様に感じられた。
ニノ郭北側の堀切→IMG_6260.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.277009/138.882401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

信濃をめぐる境目の山城と館 上野編

  • 作者: 宮坂武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/06/30
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タグ:中世山城
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天王山城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]

IMG_6172.JPG←主郭北側の堀切
 天王山城は、永禄年間(1558~70年)に須藤氏が築いて居城としたと伝えられている。城主としては須藤安房守の名が伝わっている。永禄年間と言えば、ちょうど武田信玄の上州侵攻の時期に当たり、武田氏に服属してからその命で天王山城を築いた可能性がある。須藤氏については、信玄が1567年に生島足島神社に奉納した起請文に、安中衆として須藤縫殿助久守の名が見える。武田氏滅亡後、上野が北条氏の支配下に入ると須藤氏も北条氏に属し、北条氏滅亡後は帰農したと言う。天正年間(1573~92年)に碓氷郡野尻へ移ったと言われているので、それはこの北条氏滅亡後のことであったかもしれない。江戸時代には、中山道安中宿の本陣を勤めた名家であった。

 天王山城は、標高270mのなだらかな丘陵上に築かれている。7~8年程前までは薮払いがされていたようだが、現在は全くの未整備で全山酷い薮に覆われている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に長い樽型の主郭と、南に笹曲輪(馬出し?)を設けており、それぞれ堀切で区画されている。しかし薮が酷く、辛うじて堀切・土橋がわかる程度で、曲輪の輪郭を追うのも困難である。主郭内部は削平が甘く、居住性のある城ではなく、番兵を置いた物見の砦という感じである。とにかく丘陵全体がド薮に覆われ、北西麓の安中市ふるさと学習館から途中までは登道があるものの、そこから城跡までのアクセスも困難である。遺構としても見るべきものは少ない。

 お城評価(満点=五つ星):☆(薮で減点)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.289912/138.896070/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


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鶴ヶ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6113.JPG←主郭
 鶴ヶ城は、御田鳥城とも呼ばれる。『日本城郭大系』によれば、1549年に大崎氏の家臣菅原太郎明長が田子屋楯から移り住んだが(明長は田子屋楯の前は斐ノ城に在城)、その孫・掃部助長国は1573年の大崎・葛西の合戦で討死した。この合戦で大崎氏は大敗を喫し、この地域は葛西氏の支配下に入り、鶴ヶ城には葛西氏の家臣尾形新右衛門が入って1590年まで在城したと言う。

 鶴ヶ城は、標高60m、比高40~50m程の丘陵上に築かれている。頂部に主郭を置き、南に伸びる緩やかな尾根上に曲輪群を連ねている。主郭は、珍しい三角形の曲輪で、周囲に腰曲輪を廻らしている。南尾根の曲輪群は、段々に並んだ長い平場群で、一部に小堀切や側方の竪堀が見られる。主郭の北東にも広い曲輪があるが、現在は田畑に変貌している。その北に土塁状の遺構らしきものが見られるが、物見台だったのか何なのか意図は謎である。鶴ヶ城は、主郭以外のほとんど全域が薮に覆われ、特に南端の曲輪群は耕作放棄地で深い薮に埋もれており、進入は困難である。一応、市の史跡に指定されており、登り口には標柱も立っているのだが、その標柱も薮に埋もれており、かなり残念な状況である。尚、主郭付近までの登道は南麓から辛うじて残っている。
主郭周囲の腰曲輪→IMG_6116.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.811256/141.092219/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

鎌倉幕府と葛西氏―地域フォーラム・地域の歴史をもとめて

  • 作者: 葛飾区郷土と天文の博物館
  • 出版社/メーカー: 名著出版
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: 単行本


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斐ノ城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_6030.JPG←主郭
 斐ノ城は、有賀城とも呼ばれ、葛西氏の家臣渋谷氏の居城と伝えられる。現地標柱の解説によれば、1063年に八幡太郎源義家がこの地で越年したと言われる。しかし同じ様な伝承は東北各地にあり俄には信じ難い。建暦年間(1211~13年)には八幡神社の別当清原氏が居住した。戦国後期の天正の頃には、葛西氏の家臣渋谷備前の居城となったが、渋谷氏の戦死により廃城となったとされる。
 一方、沼舘愛三著『伊達諸城の研究』によれば、古くは延喜年間(901~23年)に鎮守府将軍藤原利仁の陣城であったとの伝承が残る。明応年間(1492~1501年)に大崎氏の家臣菅原兼長が斐ノ城に居城し、1533年に兼長の子明長が田子屋城に移ると、同じく大崎氏家臣の高玉茂兵衛の居城となり、1556年に高玉氏が福岡城に移ると大崎氏家臣田野崎玄蕃照道が城主となった。元亀年間(1570~73年)以来、大崎・葛西両氏は度々交戦し、1573年に大崎氏が大敗するとこの地域は葛西氏の支配下に入り、葛西氏の家臣渋谷式部が居城したとされる。廃城は、1590年の奥州仕置による葛西氏改易の時とされる。

 斐ノ城は、官庭寺裏山に当たる標高45.6m、比高30m程の丘陵上に築かれている。官庭寺の墓地から主郭に登ることができ、主郭南西辺に標柱が立っている。土塁はなく、切岸だけで囲まれた曲輪で、外周に腰曲輪を伴っている。切岸に厳しさはなく、簡単に登れてしまう感じである。主郭の北側に城内通路を兼ねた堀切があり、その北に二ノ郭が築かれている。この堀切も鋭さに欠けるが、主郭側には櫓台が築かれている様である(薮でわかりにくい)。ニノ郭の周りには低土塁が築かれ、外周には腰曲輪群が築かれている。前述の堀切から東に下る小道があり、鞍部の平場(現在は畑地)の東に、御賀八幡神社が祀られた小丘がある。ここにも腰曲輪があり、堡塁であったことがわかる。この堡塁となった神社境内には矢立の杉・弓立の杉がある他、多くの祠と共に斐ノ城跡と刻まれた小さい石碑と八幡神社の由来が刻まれた大きな石碑が立っている。大きな石碑の刻文には、斐ノ城のことも書かれている。矢立の杉・弓立の杉の標柱には由来が書かれていないが、おそらく源義家にまつわるものだろう。神社堡塁の北に宮司家の建つ低地があり、その北にもう一つ小丘があり、ここも腰曲輪が見られ、堡塁であったと思われる。その北東に数段の畑があり、切り通し状に車道が貫通している。これも往時の堀切であった可能性がある。この他、斐ノ城には、武鑓城と同じく西に続く尾根に曲輪群が築かれている。一部は官庭寺の墓地となって改変されているが、薮の中には途中堀切が2本穿たれている。また尾根上には土塁が築かれ、その側方両側に腰曲輪が築かれており、普請は明瞭である。物見台らしいピークも見られる。斐ノ城は、ネットに全く情報がないのであまり期待していなかったが、遺構は比較的良く残っている。しかし主郭と神社境内以外は全体に薮が多く、遺構の確認に少々苦労するのが残念である。
 尚、宮城県遺跡地図では、遺跡範囲から肝心の主郭と神社の堡塁が外れてしまっている。
神社の建つ堡塁→IMG_5987.JPG
IMG_6044.JPG←西尾根曲輪群の堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803965/141.104236/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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武鎗城(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5838.JPG←主郭の切岸
 武鎗城は、葛西氏の家臣武鎗氏の歴代の居城と伝えられている。最初は平安末期の1189年頃に築かれたとされる。最後の城主武鎗典膳重信は、天文年間(1532~55年)以来、葛西晴胤・親信・晴信と葛西氏3代に仕えた勇将で、1579年に鶴丸城主富沢直綱が葛西氏に叛して磐井郡流庄へと侵攻した富沢兵乱において、主家の防壁として奮戦した。しかし1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が改易された後、同年に生起した葛西大崎一揆に武鎗典膳も参陣し、一揆鎮圧後に伊達政宗が一揆の主だった者達を桃生郡須江山において謀略によって惨殺した「須江山の惨劇」で典膳も殺害された。

 武鎗城は、東館と西館で構成されたとされる。東館が主城で、標高59.6m、比高50m程の丘陵上に築かれている。城内を東西に通る車道の北側の段丘上が主郭で、一部が畑、大半が山林となっている。大きな切岸で囲まれ、南西部には横矢掛かりの塁線が内側に折れており、外周に腰曲輪を廻らしている。腰曲輪は西面では2段確認できる。主郭の北側は切岸が不明瞭な緩斜面となって、腰曲輪と繋がっている。主郭東の腰曲輪には給水施設があり、そこに標柱が立っており登道が付いている。また主郭の西側の民家の建つ高台や、その南の広場(小学校跡地)、主郭の南下方に広がる畑地も曲輪跡であったと考えられる。一方西館は、東館の西に連なる尾根に築かれた堡塁群で、3つのピークの内2つは安養寺の墓地となり改変されているが、周囲の山林内に腰曲輪が数段確認でき、城郭遺構であることは確実である。しかし一番西の3つ目のピークは薮がひどく進入不能である。同じ様な尾根が東館の北西にも連なっているので探索したが、こちらにはあまり明確な普請の形跡は見られず、城砦はなかった様である。武鎗城は、部分的に改変が進んでいるものの主郭部が健在で、往時の姿をよく残している。但しあまり技巧性はなく、曲輪群を連ねただけの縄張りだった様である。尚、『日本城郭大系』には、主郭北側に空堀があると記載されているが、実際には空堀は見られなかった。
主郭周囲の腰曲輪群→IMG_5837.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.803848/141.122925/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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有壁楯(宮城県栗原市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5754.JPG←主郭背後の大堀切
 有壁楯(有壁館)は、当初は大崎氏家臣後藤美作・菅原帯刀の居城、後に葛西氏家臣有壁尾張・有壁安芸・有壁摂津の3代にわたっての居城であったとされる。有壁摂津は、西館(鶴頭城)城主としてもその名が見える。東方350m程の所には奥州街道有壁宿があり、街道を押さえる要害であったことがわかる。

 有壁楯は、有馬川北岸の比高30m程の丘陵南端部に築かれている。地勢は国土地理院地形図の等高線で見えるのとは違い、大きく抉れた東斜面より西側斜面の方が傾斜が緩いため、防御構造は西側に集中して築かれている。登り口は東麓にあり、標柱が立っているが、明確な道はあまりなく、わずかな踏み跡を辿って東尾根を登って行くと、2段程の段曲輪が確認でき、その上に主郭の虎口が築かれている。直接主郭に至ることから、この南東尾根は搦手であったことがわかる。主郭はほぼ長方形の曲輪で、西側のみに低土塁が築かれている。北西には大手虎口があり、大堀切と横堀に挟まれた土橋で二ノ郭に連結している。ニノ郭は、主郭の北西に一段低く築かれ、主郭との間には前述の通り横堀が穿たれ、北西辺に一段低く腰曲輪を築いている。その下方には横堀の塹壕線が築かれ、しっかりした土塁で横堀外側を防御している。土塁の南端は櫓台となっている。この様に西側には射撃戦を想定した重厚な防御構造が見られる。一方、主郭背後には大堀切が穿たれ、その北側に三ノ郭が築かれている。大堀切からは長い竪堀が落ち、前述のニノ郭外の横堀と交差して繋がっている。三ノ郭の北に更に堀切が穿たれて城域が終わっているが、この堀切からも竪堀が西に長く落ちている。三ノ郭は、背後に土塁が築かれているが、西側は腰曲輪等のない只の緩斜面で、不思議な普請である。相方は、敵兵をおびき寄せる罠じゃないかと推測していたが、竪堀による誘導を考えるとなるほど、そういう考え方もあるかと、その発想に感心した。有壁楯はこの様に遺構が良く残り、西側に重厚な防御構造を有しているが、残念ながら未整備で薮が多く、見映えしないのが残念である。
ニノ郭北西側の横堀→IMG_5769.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.870353/141.122067/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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境野楯〔山城〕(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5646.JPG←主郭から見た2段の曲輪
 境野楯(境野館)〔山城〕は、境野楯〔平城〕の背後の山上に築かれた詰城である。平城は永禄年間(1558~70年)の境野氏分家の際に築城されているが、山城は分家以前から秋保郷を守る詰城の一つとして築かれていたと推測されている。

 境野楯〔山城〕は、標高290.6mのヤケ山に築かれている。秋保・里センターのHPでは、ヤケ山より更に北方の標高340mの大旗山が城の中心であったとしているが、スーパー地形では大旗山に遺構があるようには見えなかった為、三角点のあるヤケ山の方しか私は登っていない。ヤケ山の山上には主郭含めて3段の曲輪があり、いずれも1~2m程の段差で区画されているだけである。それら3段の曲輪の南面から西面にかけては2段の腰曲輪が廻らされており、背後に当たる主郭の北側にも1段腰曲輪が確認できる。この背後の腰曲輪から、西に向かってトラバースするように武者走りがあり、そこに竪堀が1本落ちている。その先の、主郭の北西下方に当たる部分には、堀切で区画された堡塁が築かれている。この他、大旗山に向かう背後の尾根筋にも平場っぽいものがあるが、遺構かどうか判断するのは困難である。尚、私はヤケ山に登るのに南の尾根を直登したが、実は北尾根の鞍部には西麓からの山道が通っているのを発見し、家に帰ってから調べたら、地元の方達によって里山トレッキングの道が整備されているらしい。どうりでヤケ山はほとんどが笹薮で覆われているのに、3段曲輪の一番上の主郭だけきれいに薮払いされているわけだ!いずれにしても境野楯〔山城〕は、比較的小規模な詰城の類である。
北西の堀切と堡塁→IMG_5662.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.260946/140.681691/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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境野楯〔平城〕(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5568.JPG←四ノ郭西端の大櫓台
 境野楯(境野館)〔平城〕は、秋保郷の土豪秋保氏の支城である。永禄年間(1558~70年)に秋保勝盛の弟盛久がこの地に分封されて境野氏を称し、境野楯を築いたと伝えられる。戦国時代の末期、伊達政宗に反抗して捕らえられた鶴巣楯主黒川月舟斎は、境野楯に預けられている。尚、この背後の山上には、境野楯〔山城〕が詰城として築かれている。

 境野楯〔平城〕は、秋保氏本家の居城長館の北方わずか500m程の位置にあり、2つの小河川に挟まれた台地に築かれている。城内は、大きく東西2段の平場群に分かれ、更に上段に当たる東郭群は堀切で南北3つの曲輪に分かれ、下段に当たる西郭も段差で2段に分かれている。東郭群を南から順に主郭・ニノ郭・三ノ郭、西郭を四ノ郭とすると、東郭群で最大の面積を持つのが主郭で、北側にニノ郭と分断する堀切を穿ち、北西には四ノ郭全体を俯瞰するように物見の張出しを設けており、先端部には小堀切と物見の小郭を設けている。主郭とニノ郭の堀切の東側には腰曲輪状の平場空間があり、虎口の様な形状も見られることから、往時の大手虎口だった可能性がある。東の沢に土橋があるがこれは明らかに近代のもので、往時は木橋が架かっていたと思われる。ニノ郭は未整備のガサ薮で進入不能であるが、その北側にも三ノ郭と分断する堀切があり、ニノ郭側には堀切に沿って土塁が築かれている。三ノ郭の北側には車道が貫通しているが、これも往時は堀切だった可能性がある。三ノ郭の南西には二ノ郭西側からの登り口があり、土塁を伴っているので往時の虎口だった可能性があるが、笹薮がひどくわかりにくい。一方、西の四ノ郭は、前述の通り2段の平場に分かれ、上段平場の西辺部には大きな櫓台の土壇が築かれており、この櫓台から南に土塁が伸びている。以上が遺構の全容で、城内は畑になっている三ノ郭以外は耕作放棄地で、部分的に薮が多い。四ノ郭の上段平場は山林となっている。東側から沢を越えて城に入る道(大手道?)があり、道の入口に解説板が建っている。境野楯〔平城〕は、単なる居館というより城砦機能を強化した縄張りであり、本城の長館を防衛する城砦として機能していたことがうかがわれる。
ニノ郭~三ノ郭間の堀切→IMG_5596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.255504/140.682871/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

戦国大名伊達氏 (中世関東武士の研究25)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2019/03/30
  • メディア: 大型本


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湯元小屋楯(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5508.JPG←空堀跡?の道
 湯元小屋楯(湯元小屋館)は、秋保郷の土豪秋保氏の庶流秋保摂津守盛義が築いたと伝えられている。秋保盛房の弟盛義は馬場村に居住して上館城を居城とし、一名を馬場と称し、合わせて湯元小屋楯を築いて秋保郷の東西両端の護りを担った。盛義の孫で馬場秋保氏3代定重は、永禄年間(1558~69年)に新たに豊後館を構えて居城を移したが、永禄・天正年間(1558~92年)から江戸初期の1603年まで、小屋楯にも居住したとされる。こうして湯元小屋館は初代盛義から6代重久の頃まで機能し、秋保郷の両端を秋保摂津守一族が押さえることで、外敵の侵入を防いだと言う。

 湯元小屋楯は、名取川南岸にそびえる比高60m程の断崖上に築かれている。この断崖は、北面は垂直に近い絶壁で囲まれており、人を寄せ付けない。北西の尾根も傾斜がきつく、登り得るのは北東の尾根筋のみで、天守閣自然公園内の回遊路が通っており、北東麓から登り道がある。断崖上に広い平坦地が広がっており、そこに城館があったらしい。断崖上は自然地形の平場が広がっているだけで、空堀、土塁等の遺構があるとされるが、どこのことを言っているのか良くわからない。しかし平坦地の中央付近に水の手らしい湧水池があり、土塁を伴っている。またその北東方に堀底道らしいものがあるが、これが現地解説板に記載のある空堀のことであろうか?その脇には一応土塁らしき土盛りも見られるが、縄張り的にどうなっているのかは判然としない。前述の登り道のある尾根の南側は深い谷が刻まれており、登り道のある尾根の先端付近は独立性のある物見台となっているらしい。この物見台に祠も祀られている。この他、南には山地が続いているが、堀切などは確認できない。城内は回遊路が通っている為、城跡の薮はきれいに整備されている。湯元小屋楯は、この様に明確な防御構造はほとんど見られず、急峻な断崖だけで守りを固めた城館だった様である。但し、平場は広いので、居住性は十分である。
土塁を伴う水の手→IMG_5520.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.228809/140.711389/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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大原館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5457.JPG←標柱と堀跡とされる溝
 大原館は、天正年間(1573~92年)の初め頃から国分氏の家臣作並宮内が居住したと伝えられている。熊ヶ根城の対岸の台地南端に位置し、三方を川で囲まれた天然の要害である。現在は一部が宅地、大半は耕地化されており、遺構はほとんど湮滅している。館跡北端部に標柱が立っており、ここに見られる溝状の地形が堀跡であったとされ、昭和20年代前半の航空写真でも一直線に走る堀跡が確認できる。しかし現況からすると、かなり埋められてしまったものと考えられる。過去に行われた発掘調査の結果では、二重の空堀であったことが判明していると言う。しかし今となっては、地勢以外に見るべきものはほとんど無い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.289987/140.695317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名伊達氏の領国支配―小林清治著作集〈1〉 (小林清治著作集 1)

戦国大名伊達氏の領国支配―小林清治著作集〈1〉 (小林清治著作集 1)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/07/01
  • メディア: 単行本


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熊ヶ根城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5446.JPG←堀切跡と土塁
 熊ヶ根城は、国分盛重の家臣六丁目氏の城と伝えられる。広瀬川と豆沢川の合流点に突き出た、比高40~50m程の段丘南東端に築かれている。六丁目氏が開基した興善寺の東側に隣接しており、現在は空き地と宅地となっている。興善寺との間には堀切跡が民家入口の通路となっており、その東に土塁が築かれている。明確な遺構はこの程度で、あとは平場が広がっているだけである。民家の南側を南東に下る車道があるが、往時はその南側の宅地も曲輪の一部であったと推測される。いずれにしても、改変が進んでかなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.293069/140.690832/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


伊達政宗の研究(新装版)

伊達政宗の研究(新装版)

  • 作者: 小林 清治
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/06/14
  • メディア: 単行本


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根添館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5383.JPG←主郭西側の空堀
 根添館は、前九年の役の際の安倍一族の支城と言われている。伝承では、源義家は安倍氏の激しい抵抗に遭い、坪沼の道内寺に本陣を敷いて、やっとのことで落城させたと言われる。

 根添館は、坪沼川西岸の比高15m程の段丘北端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、主郭の周囲に腰曲輪を一段廻らし、南から西側にかけての台地基部をL字の空堀で分断した簡素な縄張りとなっている。南側の堀の中央には土橋が架かり、主郭内の土橋右側には櫓台が築かれている。主郭は現在空き地となっているが、櫓台前に解説板が建てられている。空堀は良好に残っており、堀は北西端で西に折れて竪堀となって落ちている。この竪堀脇の腰曲輪には土塁を備えた虎口があり、竪堀が登城道を兼ねていたことがわかる。これは低湿地帯に面して船着場があったのだろうか?この他、主郭南西には外郭があり、土塁と溝状の堀が確認できる。遺構はよく残っているが、腰曲輪と外郭は薮がひどく、踏査が困難である。小規模な城館で構造も簡素であるが、時代的に平安後期まで遡るかは少々疑問である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.191379/140.764196/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


前九年・後三年合戦 (11世紀の城と館)

前九年・後三年合戦 (11世紀の城と館)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 高志書院
  • 発売日: 2011/12/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世崖端城
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高舘城(宮城県名取市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_5226.JPG←主郭と西之丸の間の堀切
 高舘城は、伊達氏の拠点城郭であったと推測される。伝承では、1175年に奥州藤原氏3代秀衡が館を築き、1189年の源頼朝による奥州合戦の際、藤原勢がこの城に立て籠もって鎌倉勢を迎え撃ったと言われている。南北朝時代の観応の擾乱の際には、1351年、多賀城を巡る攻防で奥州管領(後の奥州探題)吉良貞家が陣を置いた「羽黒城」「名取要害」は、高舘城のことと考えられている。戦国前期の伊達稙宗の時代には、名取郡を押さえた稙宗が一時居城し、後に家臣の福田駿河守を城主として置いたとされている。

 高舘城は、仙台平野南半を見下ろす高舘山の東峰、標高180mの山上に築かれている。巨大な城郭で、仙台平野周辺に築かれた中世城郭では最大の規模を持つ。山頂に広大な長方形の主郭を置き、その周囲にニノ郭群を廻らしている。主郭には東と南東に虎口が築かれている。南東のものは大型の桝形虎口で、これが大手虎口であったと思われる。一方、東側のものは虎口の前面に櫓台を設けた出桝形で、規模が小さいことから搦手虎口であったと思われる。また主郭の西辺部には大土塁が築かれている。ニノ郭群は、独立性の高い数個の平場に分かれ、現地解説板の縄張図ではそれぞれ北之丸・東之丸・南之丸・西之丸と称している。位置的に最も高い位置にあるのが東之丸で、側方に搦手道が通っており、搦手の防衛を担っている。西之丸と南之丸は主郭との間に堀切兼用通路を設けて独立性の高い区画としている。ニノ郭群には南東・東・南西の3ヶ所の登道があり、南東のものが大手枡形虎口に繋がっている。東のものは登り口に櫓台がそびえており、登っていくと搦手虎口に通じている。南西のものは竪堀状の城道となっている。南之丸の南側には大堀切があり、その先に秀衡ヶ崎と呼ばれる三ノ郭が広がっている。三ノ郭の外周には帯曲輪が廻り、南端は円弧状の堀切となっている。以上の曲輪はいずれも広くかなりの兵数が駐屯可能であるが、一部の郭内は傾斜しており削平が甘い状態である。これら主城部は、北西の尾根筋を三重堀切で分断している。
 主城部以外に、南東・東・北東・北の4つの尾根に遺構群があり、南東の尾根は更に途中で南・東の支尾根に分かれて遺構が存在している。南東の尾根は細尾根上の平場群の先に高舘山古墳があり、大型の前方後方墳であるが城の一郭として利用されている。古墳登り口も出桝形っぽい形に作られている様だ。古墳の南西から南東にかけて腰曲輪が数段ずつ構築されている。南西の腰曲輪から伸びる南の支尾根には二重堀切・小郭・堀切が構築されて尾根筋が防御され、その先に2ヶ所の物見台が置かれている。また古墳南西の腰曲輪から南の支尾根には城道が伸び、降った先では土塁を伴ったつづら折れの城道が構築されている。従ってこの登道では、180度の旋回を何度も強制されることになる。東の尾根にも尾根上の曲輪群があるが、脇に登山道があるので一部破壊を受けている。尾根先端に円弧状の堀切が穿たれているが、この堀切は登山道をまたいで南斜面まで続いており、堀切南西端部は虎口となっている。その下に南東に下る城道があり、前述のものと同様につづら折れの城道になっている。北之丸の北東には、堀切を挟んで北東尾根の遺構群がある。細尾根上の曲輪群であるが、この尾根だけ北側斜面に延々と横堀が穿たれている。尾根の先には曲輪を挟みながら3つの堀切が穿たれており、それぞれ横堀と接続しており、先端のものは横堀がそのまま堀切となって尾根に回り込んでいる。北之丸の北側にも堀切を挟んで土塁が築かれ、その外側に更に堀切と小郭が置かれている。

 以上が高舘城の全容である。高舘山古墳の先の支尾根の遺構群は、現地解説板の縄張図には記載されていない。縄張的には、桝形虎口や横堀が多用され、大型の堀切も備え、出羽鷺城との類似点も多く、伊達氏系山城の特徴を備えている。また伊達氏の山城の規模としては陸奥桑折西山城に匹敵する。伊達稙宗が一時居城としたとする伝承は、十分首肯できる。但し、全体に整備があまりされておらず、部分的に薮がひどいので、ゴーグルは必須である。整備されたらどれほど見事な遺構であるかと思うと残念である。尚、東麓と西の車道から登山道が整備されている。
主郭の大手桝形虎口→IMG_5356.JPG
IMG_4947.JPG←南支尾根の二重堀切
つづら折れの城道→IMG_4988.JPG
IMG_5098.JPG←北東尾根の横堀

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.189423/140.841594/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

  • 作者: 亀田 俊和
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/07/19
  • メディア: 新書


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真岡陣屋(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4722.JPG←陣屋跡の公園
 真岡陣屋は、江戸後期に建てられた陣屋である。1793年、真岡代官・竹垣三右衛門直温は、関東郡代付代官として下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国の6万石を支配した。竹垣代官は、天明の飢饉による荒廃地の復旧には直接指導が必要と考え、1797年、下野国芳賀郡と常陸国筑波郡にそれぞれ真岡陣屋と上郷陣屋を幕府の費用で造営し、代官自身が陣屋を往復して民政に当たった。竹垣代官は芳賀18ヶ村を支配し、1814年に高齢を理由に代官を辞すまで、長期に渡って真岡陣屋に在陣し、農村復興に意欲的に取り組んだ。芳賀18ヶ村の人々は、その徳を称え、協力して海潮寺に「竹垣君徳政碑」を建てた。その後1848年に、山内総左衛門董正(ただまさ)が真岡・東郷両陣屋を統合する形で支配し、真岡代官の支配地が拡大された。1851年2月に陣屋が焼失したため、同年中に原類助・二宮金次郎が中心となって、規模を縮小して陣屋を再建した。1868年5月、幕末の動乱の中で最後の代官山内源七郎が殺害され、再び陣屋が焼失し、そのまま廃陣となった。

 真岡陣屋は、かつての真岡城の南端の曲輪に建てられていた。現在は城山公園となっている。10年前に訪れた時は緑豊かな公園であったが、東日本大震災の時に法面が崩れるなど公園は大きな被害を受け、その後綺麗に復旧されたものの、今は空き地のような殺風景な公園になってしまっている。陣屋阯の石碑も中央に折れた跡が残り、震災の被害を残している。陣屋遺構は全く残っていないので、往時の姿は望むべくもないのが残念である。せめて緑豊かな公園の姿には戻して欲しいと思う。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.442120/140.006697/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


江戸三百藩全史 最新カラー版

江戸三百藩全史 最新カラー版

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: standards
  • 発売日: 2018/11/10
  • メディア: 大型本


タグ:陣屋
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東郷陣屋(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_4700.JPG←陣屋跡の石碑と解説板
 東郷(ひがしごう)陣屋は、二宮金次郎(尊徳)所縁の陣屋である。1799年に幕府の費用で築造され、翌1800年に岸本武太夫就美が家族と共に陣屋に入り、この地を治めた。1848年、東郷支配山内総左衛門が、兼任で真岡支配となり真岡陣屋に移った時、代わりに東郷陣屋に入ったのが桜町陣屋にいた二宮金次郎である。金次郎は1842年から幕臣となり、東郷陣屋に入ってから山内氏に信頼され、荒地起返・用水整備・道路改修などを行うと共に、真岡陣屋の再建等にも尽力した。1868年、官軍の焼き討ちによって焼失し、廃陣となった。

 東郷陣屋は、穴川用水の脇に築かれていた。現在は畑と空き地などに変貌しており、遺構は完全に湮滅している。県道61号線沿いに石碑と解説板が建っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.446781/140.026374/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

完本 【決定版】 図説 江戸三百藩「城と陣屋」総覧

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 学研パブリッシング
  • 発売日: 2013/08/28
  • メディア: 単行本


タグ:陣屋
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令和最初の訪城は霧の七尾城 [日記]

IMG_6258.JPG
10連休を使って、妻が以前から行きたがっていた七尾城を中心に、
7日間掛けて石川県の城めぐりを敢行。

特に狙ったわけではなかったのだが、
日程的に令和年間の最初の訪城先が七尾城になった。
しかし5月1日朝の七尾の山中は深い霧で覆われており、
霧に包まれた七尾城の石垣だけ見学して、すぐに他の城に目的地を変更した。

ただこの霧に包まれた石垣がなんとも幻想的で、素晴らしかった。
遠隔地からの訪問者には滅多にお目に掛かれないであろう情景を
堪能することができたのは、幸運だった。
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愛宕山城(宮城県山元町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4588.JPG←主郭北の堀切状腰曲輪
 愛宕山城は、愛宕山館とも呼ばれ、伊達氏重臣亘理元宗の家臣坂元大膳隆俊の居城である。隆俊は、1570年に愛宕山城を築いて、新城館から本拠を移したと言う。しかし翌71年、相馬盛胤父子の攻撃を受けて落城し、隆俊は討死した。1572年に、隆俊の子三河俊久が坂元氏を再興すると、愛宕山城が父大膳の討死した不吉な城であったことから、新たに蓑首山に坂元城を築城したと言われている。

 愛宕山城は、比高50m程の丘陵上に築かれている。南麓の高さ10m程の高台の畑の手前を奥に進むと登り道が付いている。主郭にある愛宕神社への参道で、竪堀状になっているが、勿論後世の改変だろう。山頂には南北に長い長円形の主郭があり、内部は僅かな段差で北南二郭に分かれていた様である。南郭の西辺には土塁が築かれ、その上に杉の大木がそびえている。この土塁の北側、ちょうど主郭西辺の中央部に虎口がある。また主郭の北には堀切を兼ねた腰曲輪があり、その北にニノ郭が広がっている。ニノ郭は南端に土塁を築き、北には堀切が2条と中間の小郭が置かれている。ニノ郭南西部に内桝形虎口が築かれている。主郭とニノ郭の周囲には腰曲輪が広がっているが、薮が多く、全部は踏査していない。また主郭の南から東の斜面には腰曲輪群が幾重にも築かれている。地形的には西尾根にも遺構がありそうだったが、この日は日没でタイムアウトとなり、未確認である。愛宕山城は、遺構はよく残っているが、主郭とニノ郭以外は薮が多く未整備である。登り口と主郭に、それぞれ解説板が設置されているのに、ちょっと残念な状況である。
ニノ郭北の堀切→IMG_4605.JPG
IMG_4619.JPG←ニノ郭の内桝形虎口と腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.924887/140.890968/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2017/08/21
  • メディア: 単行本


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陣林楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4451.JPG←一騎駆けの土橋
 陣林楯(陣林館)は、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で相馬義胤が陣取りしたとされる陣城である。伊達政宗が本陣を置いたとされる冥護山楯からは、直線距離で3.5km程の位置にあり、両軍が睨み合っていたことがよく分かる布陣である。

 陣林楯は、国道113号線が通る大内集落東側の比高40m程の丘陵上に築かれている。城全体はT字型のハンマーの様な形をしており、主要部は大きく3つの曲輪で構成されている。北西から順に三ノ郭・ニノ郭・主郭と並んでいる。西麓から登道が付いており、登り切ると丘陵上の耕作地に出る。そのすぐ東側に城があり、西端の段曲輪が構えられ、その脇に土塁が築かれた虎口があり、段曲輪の脇をすり抜けるように土塁で防御された城道が奥に通じている。段曲輪の東に三ノ郭があり、城道の前面にその塁線が立ちはだかっている。三ノ郭に入らず城道を進むと、腰曲輪に通じる木戸口が構えられ、物見台が築かれている。一方、三ノ郭への入口は小型の枡形虎口となっている。三ノ郭が最も大きな曲輪で、ハンマーのT字の部分に当たる。削平の甘い曲輪で内部には起伏がある。北東部に土壇と堀状通路が見られるが、普請が甘く形状がわかりにくい。三ノ郭内を南東に進むとハンマーの柄の部分に至り、二ノ郭との間に小堀切が穿たれ、桝形虎口が形成されている。ニノ郭側も桝形虎口となっていて、堀切の横を迂回するように動線が設定されている。ニノ郭は幅が狭く縦長の曲輪である。ニノ郭の東に堀切を介して主郭が築かれている。ここも主郭側は桝形虎口となっており、また南側の腰曲輪からも登れるように、虎口の小郭が置かれている。主郭は最も防備が厳重で、末広がりの形状の曲輪の北・東・南の三方に城内通路を兼ねた堀切が穿たれ、その前面にそれぞれ独立堡塁が築かれて尾根筋からの接近に備えている。北尾根の堡塁は、その先にも堀切が穿たれ、段曲輪も築かれている。北尾根からの搦手道があった様で、これらの段曲輪・堡塁の脇を抜けて腰曲輪に通じる道が確認できる。主郭東にも腰曲輪上に堡塁があり、その東に長い一騎駆け土橋が築かれている。相馬方面からの補給路と、万一の際の撤退路であったと思われる。前述の堡塁はこの土橋の前面に立ちはだかるようにあり、土橋の監視所であったのだろう。主郭南は規模の堀切の前面に2段の曲輪が築かれている。この他、三ノ郭~主郭の南側には延々と腰曲輪が築かれ、2ヶ所ほど更に外側に段曲輪が築かれている。またニノ郭北側にも腰曲輪がある。陣林楯は、陣城らしい比較的簡素な普請であるが、それでもしっかりとした防御構造が構築されており、冥護山楯ほどでないにしても見応えがある。伊達氏の冥護山楯との構造の違いが見比べられるのも面白い。
主郭切岸と腰曲輪→IMG_4388.JPG
IMG_4395.JPG←主郭~ニノ郭間の堀切
主郭北の堀切と堡塁→IMG_4420.JPG
IMG_4297.JPG←腰曲輪の木戸口・物見台

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.868527/140.830865/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

伊達氏と戦国争乱 (東北の中世史)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2015/12/21
  • メディア: 単行本


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西山楯(宮城県丸森町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4248.JPG←片堀切と土橋
 西山楯(西山館)は、戦国後期の伊具郡を巡る伊達・相馬両氏の抗争の中で伊達成実が陣取りしたとされる陣城である。伊達家当主の政宗は、すぐ隣の冥護山楯に本陣を置いている。伊具郡を巡る抗争については、冥護山楯の項に記載する。

 西山楯は、冥護山楯の西側に谷戸を挟んで並走する山稜上に築かれている。既報の通り、山林伐採で重機が城内に入っており、主郭から北の部分は大きく破壊を受けてしまっている。基本的に細尾根に沿って曲輪を連ねただけの城で、城内は大きく3つの曲輪で構成されていたらしい。一番南がニノ郭で、くの字に曲がった曲輪で、南西斜面に横堀があったが、重機で踏み荒らされてはいるものの、堀の形状は辛うじて残っている。ニノ郭と主郭の間には片堀切が穿たれ土橋が架かり、そこは幸いに破壊を免れている。主郭は、二ノ郭との間の片堀切を睥睨する南端部にL字型の低土塁が見られる。主郭もノの字に湾曲しているが、東側に帯曲輪が確認できる。しかし主郭の北側半分は重機で蹂躙されている。北の三ノ郭との間にも堀切があったようだが、ちょうど重機の通り道となってしまい、窪地形状は見られるが無残に破壊されている。三ノ郭はすっかり破壊されていて、往時の形状はわからなくなっている。西山楯は、冥護山楯と比べるとささやかな遺構で、技工性も感じられない。細尾根でもあり、成実率いる軍団が陣営を敷くにしても、ちょっと狭過ぎる様に思う。それにしても、埋蔵文化財包蔵地にも指定されていなかったため、無残に破壊されてしまったのは非常に残念である。
ニノ郭南西の横堀跡→IMG_4232.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.901356/140.820286/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


相馬氏の成立と発展 (中世武士選書シリーズ第30巻)

相馬氏の成立と発展 (中世武士選書シリーズ第30巻)

  • 作者: 岡田清一
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/10/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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