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木尾嶽城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6545.JPG←二ノ郭から見た主郭切岸
 木尾嶽城は、南北朝動乱期の激戦地である。1346年の得江頼員軍忠状によれば、前越中守護井上俊清・同八条・新田貞員・栗沢政景・富来俊行らが能登に侵入し、富来院内の木尾嶽に立て籠った。北朝方の能登守護吉見頼隆の子氏頼を大将とした軍勢は木尾嶽に攻め寄せ、3月16日に攻撃を開始し、5月4日に木尾嶽を攻め落とした。1350年には観応の擾乱の余波で、井上俊清の同族と思われる井上布袋丸と富来俊行が足利直義方に付いて、富来院(おそらく木尾嶽)から鹿島郡花見槻へ打って出て、足利尊氏方の守護勢と交戦した。1362年には、5月と7月に木尾嶽城で戦闘があり、5月の合戦では富来斎藤次らが能登守護吉見氏頼の軍勢と戦って討ち取られ、7月の合戦では木尾嶽城が落城している。その後、時代は降って戦国後期の1576年、上杉謙信は能登に侵攻して七尾城を攻めたが容易に落ちず、長期攻囲戦のため能登一円の城を占領して部将を配置した。木尾嶽城には藍浦長門が城将として配された。しかし小田原北条氏の軍勢が越後に侵攻するとの急報を受けて、謙信は一部の軍勢を残して一旦引き上げた為、七尾城の畠山勢は攻撃に転じ、木尾嶽城には誉田弾正が攻め寄せ、城将藍浦長門は自刃、足軽大将の寺崎政国は敗走中に討ち取られ、城は落城した。その後、謙信はすぐに能登に再侵攻し、ようやく七尾城を攻略し、能登は上杉勢に平定された。

 木尾嶽城は、標高130m、比高120mの城ヶ根山に築かれている。城跡近くまで背後の尾根に山道が南北から通じており、私は南の山道を車で登ったが、途中で山道の路盤が崩れており、普通の乗用車では進めなくなったので、途中からは歩いて城まで行った。背後の尾根を進むと、3本の小堀切が確認できる。しかしかなり浅いもので、大した防御性は感じられない。城は頂部に主郭を置き、背後の鞍部から北側を回って主郭周囲を半周する様にニノ郭が築かれている。主郭には櫓台があり、薮が伐採されているので眺望に優れている。また主郭・二ノ郭の西側斜面には数段の腰曲輪が段状に築かれ、土塁と虎口らしいものも確認できる。南斜面の腰曲輪には礫石も散乱している。この他、背後の尾根を少し西に行ったところの北斜面に、殿様池という湧水もある。遺構としては以上で、戦国後期まで使われて戦闘が繰り広げられた城にしては、かなり単純かつ小規模な城である。
腰曲輪の虎口と土塁→IMG_6560.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.148388/136.754079/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


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