御門城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北西の堀跡
御門城は、箕輪城主長野氏の支城である。長尾景忠が城主であったと伝えられる。長尾景忠と言えば、南北朝期に関東管領の上杉憲顕配下に居た武将が知られているが、前述の伝承が正しければ時代的に合わないので、南北朝期の景忠とは別人が城主であったのだろう。
御門城は、2つの小河川に挟まれた比高10m程の舌状台地に築かれている。南北2郭から成っていたらしいが、現在北の主郭は景忠寺となり、南の二ノ郭は墓地に変貌しているので、あまり明確な遺構は残っていない。これら2郭の間には車道が貫通しているが、堀切跡であろう。主郭の北西側の台地基部には堀跡の窪地が残っているが、これも車庫が建てられるなど改変を受けている。この他、主郭・二ノ郭の両翼には腰曲輪らしい平場が残る。二ノ郭の先端には台地下に降りる虎口状の小道も付いている。主郭南東に標柱は立つが解説文はないのが残念。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.362295/138.945465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
御門城は、箕輪城主長野氏の支城である。長尾景忠が城主であったと伝えられる。長尾景忠と言えば、南北朝期に関東管領の上杉憲顕配下に居た武将が知られているが、前述の伝承が正しければ時代的に合わないので、南北朝期の景忠とは別人が城主であったのだろう。
御門城は、2つの小河川に挟まれた比高10m程の舌状台地に築かれている。南北2郭から成っていたらしいが、現在北の主郭は景忠寺となり、南の二ノ郭は墓地に変貌しているので、あまり明確な遺構は残っていない。これら2郭の間には車道が貫通しているが、堀切跡であろう。主郭の北西側の台地基部には堀跡の窪地が残っているが、これも車庫が建てられるなど改変を受けている。この他、主郭・二ノ郭の両翼には腰曲輪らしい平場が残る。二ノ郭の先端には台地下に降りる虎口状の小道も付いている。主郭南東に標柱は立つが解説文はないのが残念。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.362295/138.945465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
住吉城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←城址石碑
住吉城は、仲村城とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。烏川渡河点を押さえる要衝の地にあり、住吉玄蕃が築城したと伝えられる。1561年に武田信玄が西上州に侵攻した際には、長野業政は清水小内記正智を城主としてこの城を守らせた。1565年7月、上杉謙信が小幡・安中の奪還を図って出撃した際には、箕輪勢は住吉城を拠点とし、上杉方の先鋒となって武田勢の殿軍に肉迫し、若田原で激戦を交えたと言う。
住吉城は、烏川と榛名白川の合流点近くに築かれている。現在は榛名白川の西側にあるが、榛名白川は戦後の河川改修で流路が大きく付け替えられており、改修以前は榛名白川の東側に位置していた。従って、周辺の地形は大きく改変されてしまっているので、現状から城の縄張りを推測するのは困難である。ただ、城の北側には東西に水路が流れ(この水路も近代に改修されている様である)、堤防脇のスナックの前に城址石碑が建てられているのみである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357094/138.955743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
住吉城は、仲村城とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。烏川渡河点を押さえる要衝の地にあり、住吉玄蕃が築城したと伝えられる。1561年に武田信玄が西上州に侵攻した際には、長野業政は清水小内記正智を城主としてこの城を守らせた。1565年7月、上杉謙信が小幡・安中の奪還を図って出撃した際には、箕輪勢は住吉城を拠点とし、上杉方の先鋒となって武田勢の殿軍に肉迫し、若田原で激戦を交えたと言う。
住吉城は、烏川と榛名白川の合流点近くに築かれている。現在は榛名白川の西側にあるが、榛名白川は戦後の河川改修で流路が大きく付け替えられており、改修以前は榛名白川の東側に位置していた。従って、周辺の地形は大きく改変されてしまっているので、現状から城の縄張りを推測するのは困難である。ただ、城の北側には東西に水路が流れ(この水路も近代に改修されている様である)、堤防脇のスナックの前に城址石碑が建てられているのみである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.357094/138.955743/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
浜川館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭南西部の堀跡
浜川館は、浜川の砦とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。長野氏は、箕輪城築城以前にはこの付近に本拠を置いていたと言われ、浜川館は長野氏の居館であった可能性もある。長野氏が箕輪城を居城としてからは、名将長野業政の重臣藤井豊後守友忠、或いは浜川右京亮が浜川館に居住していたと伝えられる。また道場長野氏の祖・弾正業忠も、一時期浜川館の館主であったらしい。
浜川館は、井野川西岸の台地上に築かれている。大きな主郭と南のニノ郭から成っていたと推測され、主郭の北側には井野川支流の小河川が流れ、北端を区切る堀となっている。主郭の南から西にかけては、堀跡の低地と土塁が残っている。主郭内は完全に宅地化されているが、概ねの曲輪の形状は残っている。二ノ郭は、東側は宅地、西側は水田となっているが、水田部分は田圃整理によって西から南に巡っていた堀跡の低地は失われている。それでも平地の城館としては、主郭の形状が追えるだけマシである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.372386/138.981535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
浜川館は、浜川の砦とも言い、箕輪城主長野氏の支城である。長野氏は、箕輪城築城以前にはこの付近に本拠を置いていたと言われ、浜川館は長野氏の居館であった可能性もある。長野氏が箕輪城を居城としてからは、名将長野業政の重臣藤井豊後守友忠、或いは浜川右京亮が浜川館に居住していたと伝えられる。また道場長野氏の祖・弾正業忠も、一時期浜川館の館主であったらしい。
浜川館は、井野川西岸の台地上に築かれている。大きな主郭と南のニノ郭から成っていたと推測され、主郭の北側には井野川支流の小河川が流れ、北端を区切る堀となっている。主郭の南から西にかけては、堀跡の低地と土塁が残っている。主郭内は完全に宅地化されているが、概ねの曲輪の形状は残っている。二ノ郭は、東側は宅地、西側は水田となっているが、水田部分は田圃整理によって西から南に巡っていた堀跡の低地は失われている。それでも平地の城館としては、主郭の形状が追えるだけマシである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.372386/138.981535/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
並榎城(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭切岸と堀跡
並榎城は、和田城主和田氏の騎馬衆並榎将監・同庄九郎の城と伝えられている。並榎氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流阿佐美氏の一族とされる。また城主には別説もあり、箕輪城主長野業政の家臣飯塚忠則が城主であったとも言われる。
並榎城は、烏川北岸の段丘南端に築かれている。城の東西は小河川によって周囲の台地と隔絶されており、城を築くに好適な地である。南端中央部に縦長の主郭を置き、その東・北・西にコの字状に二ノ郭を廻らし、その北側に横長の三ノ郭を配置していたらしい。現在城内は、中心部をJR信越本線が東西に貫通し、その北側一帯は宅地化されて、遺構はほとんど湮滅している。JRの南側は一面の畑となっているが、主郭東側をニノ郭と分断する堀跡は、現在でも堀状になっていて小道が台地下まで続いている。主郭とニノ郭周辺には、往時さながらの切岸地形が残っている。この他、二ノ郭東から三ノ郭の東・北を区切る小川が、河川改修を受けながらも往時の流れを残し、天然の外堀となっていたことが伺われる。部分的ながらも城跡らしさを残してはいるのだが、残念なことに城址碑も解説板もない。城の南には公園があるのだから、解説板の一つも欲しいところである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.339725/138.984604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
並榎城は、和田城主和田氏の騎馬衆並榎将監・同庄九郎の城と伝えられている。並榎氏は、武蔵七党の一、児玉党の一流阿佐美氏の一族とされる。また城主には別説もあり、箕輪城主長野業政の家臣飯塚忠則が城主であったとも言われる。
並榎城は、烏川北岸の段丘南端に築かれている。城の東西は小河川によって周囲の台地と隔絶されており、城を築くに好適な地である。南端中央部に縦長の主郭を置き、その東・北・西にコの字状に二ノ郭を廻らし、その北側に横長の三ノ郭を配置していたらしい。現在城内は、中心部をJR信越本線が東西に貫通し、その北側一帯は宅地化されて、遺構はほとんど湮滅している。JRの南側は一面の畑となっているが、主郭東側をニノ郭と分断する堀跡は、現在でも堀状になっていて小道が台地下まで続いている。主郭とニノ郭周辺には、往時さながらの切岸地形が残っている。この他、二ノ郭東から三ノ郭の東・北を区切る小川が、河川改修を受けながらも往時の流れを残し、天然の外堀となっていたことが伺われる。部分的ながらも城跡らしさを残してはいるのだが、残念なことに城址碑も解説板もない。城の南には公園があるのだから、解説板の一つも欲しいところである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.339725/138.984604/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
安中城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
←東門の枡形跡
安中城は、この地を支配した安中氏の城である。安中氏の出自は諸説あって明確ではない。はっきりするのは、1487年に安中忠親が松井田西城へ移住してからである。忠親の後は、弟の榎下城主安中忠清が家督を継ぎ、その子忠政の時、1559年にこの地に居た窪庭図書を退けて安中城を築いた。これに先立つ1556年、上州に侵攻した武田信玄と、上杉方の箕輪城主長野業政・安中忠政ら上野諸将は瓶尻(みかじり)で戦い、上杉方が敗北した。この敗戦によって武田軍の侵攻に晒されるようになった忠政は、新たに安中城を築いて嫡子忠成を置いて守らせ、自身は松井田城を強化して信玄の侵攻に備えた。1561年、信玄は安中・松井田両城の中間の八幡平に陣城を築いて両城を分断し、連年攻勢を掛けた。1563年に南毛地方を平定した信玄は、翌64年に碓氷に侵攻した。この時安中城はまだ完全ではなく、忠成は武田勢に降伏した。父忠政は松井田城を固守して徹底抗戦したが、衆寡敵せず降伏し、信玄の命で自害した。その後忠成は信玄に属し、名を景繁と改めて、そのまま安中城主となった。1575年の長篠合戦で、安中一族は景繁以下悉く討死にし、安中城は守る者なく荒廃した。1596年、井伊直勝が城を再興し、1615年に安中藩の初代藩主となった。その後、堀田氏・板倉氏・内藤氏と城主が変転し、1749年に再び板倉氏が入封するとそのまま幕末まで至った。
安中城は、南北を碓氷川と九十九川に挟まれた段丘上に築かれている。城地は、旧中山道(現在の県道125号線)と安中宿を眼下に見下ろす高台に当たる。町中の城の宿命で、市街化によって遺構はほとんど失われている。本丸は安中小学校の校地に当たり、東側の民家の間に大手門跡の区画が空き地となっている。この東には太鼓櫓もあったらしい。本丸北東の堀跡は、現在は駐車場となっていて、わずかに西側の段差が切岸の名残りを残すだけである。台地東端には東門跡の枡形が、現在でも鉤の手の車道として残っている。南東の町口門跡は、道路の形状にその名残りを残し、安中宿を見下ろしている。本丸の北東には太郎兵衛屋敷という高台があり、往時は櫓台も残っていたが、現在は国道17号線が貫通して破壊されている。以上の様に遺構はかなり壊滅的な状況だが、前述の通り大手門跡・東門枡形・町口門跡は概ねその形状を推し量ることができる。また、各所に会所跡・鉄炮場跡などの表示板があり、それを探すのもなかなか楽しい。この他、郡奉行役宅・藩士長屋・碓氷郡役所の建物が残り、大泉寺には井伊直政室・直勝室の墓も残る。これらを探して城の名残りを散策するのも一興である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329993/138.896134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
安中城は、この地を支配した安中氏の城である。安中氏の出自は諸説あって明確ではない。はっきりするのは、1487年に安中忠親が松井田西城へ移住してからである。忠親の後は、弟の榎下城主安中忠清が家督を継ぎ、その子忠政の時、1559年にこの地に居た窪庭図書を退けて安中城を築いた。これに先立つ1556年、上州に侵攻した武田信玄と、上杉方の箕輪城主長野業政・安中忠政ら上野諸将は瓶尻(みかじり)で戦い、上杉方が敗北した。この敗戦によって武田軍の侵攻に晒されるようになった忠政は、新たに安中城を築いて嫡子忠成を置いて守らせ、自身は松井田城を強化して信玄の侵攻に備えた。1561年、信玄は安中・松井田両城の中間の八幡平に陣城を築いて両城を分断し、連年攻勢を掛けた。1563年に南毛地方を平定した信玄は、翌64年に碓氷に侵攻した。この時安中城はまだ完全ではなく、忠成は武田勢に降伏した。父忠政は松井田城を固守して徹底抗戦したが、衆寡敵せず降伏し、信玄の命で自害した。その後忠成は信玄に属し、名を景繁と改めて、そのまま安中城主となった。1575年の長篠合戦で、安中一族は景繁以下悉く討死にし、安中城は守る者なく荒廃した。1596年、井伊直勝が城を再興し、1615年に安中藩の初代藩主となった。その後、堀田氏・板倉氏・内藤氏と城主が変転し、1749年に再び板倉氏が入封するとそのまま幕末まで至った。
安中城は、南北を碓氷川と九十九川に挟まれた段丘上に築かれている。城地は、旧中山道(現在の県道125号線)と安中宿を眼下に見下ろす高台に当たる。町中の城の宿命で、市街化によって遺構はほとんど失われている。本丸は安中小学校の校地に当たり、東側の民家の間に大手門跡の区画が空き地となっている。この東には太鼓櫓もあったらしい。本丸北東の堀跡は、現在は駐車場となっていて、わずかに西側の段差が切岸の名残りを残すだけである。台地東端には東門跡の枡形が、現在でも鉤の手の車道として残っている。南東の町口門跡は、道路の形状にその名残りを残し、安中宿を見下ろしている。本丸の北東には太郎兵衛屋敷という高台があり、往時は櫓台も残っていたが、現在は国道17号線が貫通して破壊されている。以上の様に遺構はかなり壊滅的な状況だが、前述の通り大手門跡・東門枡形・町口門跡は概ねその形状を推し量ることができる。また、各所に会所跡・鉄炮場跡などの表示板があり、それを探すのもなかなか楽しい。この他、郡奉行役宅・藩士長屋・碓氷郡役所の建物が残り、大泉寺には井伊直政室・直勝室の墓も残る。これらを探して城の名残りを散策するのも一興である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.329993/138.896134/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
榎下城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
←北辺の外堀
榎下城は、安中伊賀守忠清の居城である。忠清は松井田西城主安中忠親の弟で、1525年に榎下城を築いて居城としていた。忠親が死ぬと、忠清が跡を継いで当主となった。忠清の後はその子忠政が家督を継ぎ、引き続き榎下城を居城としたが、1559年に安中城を新たに築いて嫡子忠成を置いて守らせ、忠政は松井田城に入って城を強化し、信玄の侵攻に備えたと言う。
榎下城は、現在久昌寺の境内となっている。台地北縁部に築かれた、回字状に二重の堀で囲まれた城だったらしいが、現在はかなりの遺構が失われている。寺の背後に当たる北側から西側の墓地裏にかけて、堀と土塁が残っているだけである。しかし、北辺は二重の空堀がはっきりと残っていて、往時の雰囲気をよく残している。西側の墓地もよく見ると段差があって、堀跡の痕跡を残している。それにしても、この様に台地辺縁部に二重空堀で囲まれた居館を築く例は珍しい。尚、久昌寺の墓地には安中忠清の墓が建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319257/138.861651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
榎下城は、安中伊賀守忠清の居城である。忠清は松井田西城主安中忠親の弟で、1525年に榎下城を築いて居城としていた。忠親が死ぬと、忠清が跡を継いで当主となった。忠清の後はその子忠政が家督を継ぎ、引き続き榎下城を居城としたが、1559年に安中城を新たに築いて嫡子忠成を置いて守らせ、忠政は松井田城に入って城を強化し、信玄の侵攻に備えたと言う。
榎下城は、現在久昌寺の境内となっている。台地北縁部に築かれた、回字状に二重の堀で囲まれた城だったらしいが、現在はかなりの遺構が失われている。寺の背後に当たる北側から西側の墓地裏にかけて、堀と土塁が残っているだけである。しかし、北辺は二重の空堀がはっきりと残っていて、往時の雰囲気をよく残している。西側の墓地もよく見ると段差があって、堀跡の痕跡を残している。それにしても、この様に台地辺縁部に二重空堀で囲まれた居館を築く例は珍しい。尚、久昌寺の墓地には安中忠清の墓が建っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.319257/138.861651/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
簗瀬城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北側の空堀・土塁
簗瀬城は、原市城とも言い、歴史不詳の城である。この城に関する史料は全く無いが、『日本城郭大系』では安中・松井田両城の間にあり、碓氷川の数少ない渡河点を押さえていることから、両城を支配する安中氏の城と推測している。一方、『境目の山城と館 上野編』では、武田信玄が安中・松井田両城を分断する前線基地として八幡平陣城をすぐ近くに築いていることから、武田氏の西上州侵攻の際に何らかの役割を果たしたのではないかと推測している。
簗瀬城は、碓氷川北岸の比高20m程の断崖上に築かれている。主郭には城山稲荷が建てられており、その周囲には土塁が明瞭に残っている。また主郭北側には、空堀と一直線の土塁も見られる。その他は、宅地化・耕地化で遺構は湮滅しているが、東に数段の曲輪が築かれ、西側にも外郭があったらしい。周辺一帯が宅地化されている中で、奇跡的に主郭部の遺構が残る城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310941/138.863089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
簗瀬城は、原市城とも言い、歴史不詳の城である。この城に関する史料は全く無いが、『日本城郭大系』では安中・松井田両城の間にあり、碓氷川の数少ない渡河点を押さえていることから、両城を支配する安中氏の城と推測している。一方、『境目の山城と館 上野編』では、武田信玄が安中・松井田両城を分断する前線基地として八幡平陣城をすぐ近くに築いていることから、武田氏の西上州侵攻の際に何らかの役割を果たしたのではないかと推測している。
簗瀬城は、碓氷川北岸の比高20m程の断崖上に築かれている。主郭には城山稲荷が建てられており、その周囲には土塁が明瞭に残っている。また主郭北側には、空堀と一直線の土塁も見られる。その他は、宅地化・耕地化で遺構は湮滅しているが、東に数段の曲輪が築かれ、西側にも外郭があったらしい。周辺一帯が宅地化されている中で、奇跡的に主郭部の遺構が残る城である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310941/138.863089/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
八幡平陣城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
←八幡平の首塚
八幡平陣城は、永禄年間(1558~70年)に西上州を攻撃した際の、武田信玄の陣城と推測されている。しかしこれは群馬県の城郭研究家であった山崎一氏の推論で、確定できる根拠はまだないらしい。信玄は1561年にこの陣城を築いて安中城と松井田城を分断した。当時、松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成の父子は、箕輪城主長野業盛の配下であった。信玄はこの陣城を拠点として安中氏を攻撃したと言う。
八幡平陣城は、碓氷川北岸の比高40m程の台地上に築かれている。しかし城跡は畑や宅地、集合住宅に変貌しており、遺構は湮滅している。既に戦後の航空写真でも城跡の形跡は見られない。この付近はなだらかな丘陵地帯の頂部に当たるが、あまり城を築くに好適な要害地形とは思えない。作戦上の陣城だから、大軍団を駐屯させる都合を重視したものであろうか。
尚、城域の東部に首塚があり、昭和27年に行われた調査の結果、戦国時代に近くの城が落ちた際の犠牲者をまとめて埋葬したものを、江戸時代に村民によって偶然発見されてここに改装されたものと考えられている。また城の東側には簗瀬二子塚古墳という大型の前方後円墳があり、公園として整備されているので、ほとんど何も残っていない八幡平陣城よりも見応えがある。信玄はなぜ古墳を城砦化しなかったのか、近畿・北陸の古墳転用の城の例を見ると少々疑問に思う。信玄の信仰心によるものであろうか。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.309774/138.856995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
八幡平陣城は、永禄年間(1558~70年)に西上州を攻撃した際の、武田信玄の陣城と推測されている。しかしこれは群馬県の城郭研究家であった山崎一氏の推論で、確定できる根拠はまだないらしい。信玄は1561年にこの陣城を築いて安中城と松井田城を分断した。当時、松井田城主安中忠政、安中城主安中忠成の父子は、箕輪城主長野業盛の配下であった。信玄はこの陣城を拠点として安中氏を攻撃したと言う。
八幡平陣城は、碓氷川北岸の比高40m程の台地上に築かれている。しかし城跡は畑や宅地、集合住宅に変貌しており、遺構は湮滅している。既に戦後の航空写真でも城跡の形跡は見られない。この付近はなだらかな丘陵地帯の頂部に当たるが、あまり城を築くに好適な要害地形とは思えない。作戦上の陣城だから、大軍団を駐屯させる都合を重視したものであろうか。
尚、城域の東部に首塚があり、昭和27年に行われた調査の結果、戦国時代に近くの城が落ちた際の犠牲者をまとめて埋葬したものを、江戸時代に村民によって偶然発見されてここに改装されたものと考えられている。また城の東側には簗瀬二子塚古墳という大型の前方後円墳があり、公園として整備されているので、ほとんど何も残っていない八幡平陣城よりも見応えがある。信玄はなぜ古墳を城砦化しなかったのか、近畿・北陸の古墳転用の城の例を見ると少々疑問に思う。信玄の信仰心によるものであろうか。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.309774/138.856995/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
菅沼城(群馬県安中市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北側の空堀・土塁
菅沼城は、徳川家康の関東移封後に、その家臣菅沼治郎右衛門定清が城主となった城である。定清は、三河田内城主菅沼定勝の子で、家康に従って関東に入部し、1593年頃に菅沼城を居城とした。それ以前に菅沼城が存在していたかどうかは伝わっていない。
菅沼城は、碓氷川北岸の比高30m程の断崖上に築かれている。城跡は現在海雲寺の境内となっている。外周を二重の空堀で囲まれたほぼ単郭の城であったらしい。二重の堀は、北側では土塁を挟んだ二重横堀の形状となっていたが、東側と西側では堀同士の間が広く空いていて、曲輪となっていた。南側は断崖に臨んでいるため、堀はない。以上が『日本城郭大系』に見える縄張りの概要だが、しかし現在内堀は、東側と南西部以外はほとんど湮滅しており、一重の堀にしか見えない。南西の内堀は、崖下にある郷原緑地公園に繋がる遊歩道になっているが、堀底に井戸跡が残っている。東側の内堀はかなり埋まっているが、横矢の屈曲があるのがわかる。
尚、古い航空写真を見ると、主郭の北西に幅広の堀跡の様な畑が伸びているのが見え、主郭の西側に2つ程の外郭があったようにも見える。果たして遺構であろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.304491/138.842425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
菅沼城は、徳川家康の関東移封後に、その家臣菅沼治郎右衛門定清が城主となった城である。定清は、三河田内城主菅沼定勝の子で、家康に従って関東に入部し、1593年頃に菅沼城を居城とした。それ以前に菅沼城が存在していたかどうかは伝わっていない。
菅沼城は、碓氷川北岸の比高30m程の断崖上に築かれている。城跡は現在海雲寺の境内となっている。外周を二重の空堀で囲まれたほぼ単郭の城であったらしい。二重の堀は、北側では土塁を挟んだ二重横堀の形状となっていたが、東側と西側では堀同士の間が広く空いていて、曲輪となっていた。南側は断崖に臨んでいるため、堀はない。以上が『日本城郭大系』に見える縄張りの概要だが、しかし現在内堀は、東側と南西部以外はほとんど湮滅しており、一重の堀にしか見えない。南西の内堀は、崖下にある郷原緑地公園に繋がる遊歩道になっているが、堀底に井戸跡が残っている。東側の内堀はかなり埋まっているが、横矢の屈曲があるのがわかる。
尚、古い航空写真を見ると、主郭の北西に幅広の堀跡の様な畑が伸びているのが見え、主郭の西側に2つ程の外郭があったようにも見える。果たして遺構であろうか?
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.304491/138.842425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:近世崖端城
後期高田氏館(群馬県富岡市) [古城めぐり(群馬)]
←館跡とされる陽雲寺
後期高田氏館は、この地の土豪高田氏の室町後期以降の居館と推測されている。高田氏の事績については、高田城の項に記載する。高田氏は、元は妙義町下高田の「堀の内」に居館を置いていたが、宝徳~長禄の頃(1449~60年)にこの地に移ったと推測されている。
後期高田氏館は、現在陽雲寺の境内となっている。位置的には諸戸城と菅原城の中間にあり、妙義山の支峰金鶏山から東に伸びる2つの尾根に挟まれた低い緩傾斜地の奥に築かれている。特に明確な遺構はないが、境内は高台となっており、境内前面には堀跡の様な池があり、また背後の墓地に高田氏の墓所がある。なお陽雲寺は、高田大和守憲頼が1506年に開基したと伝えられる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.281818/138.771894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
後期高田氏館は、この地の土豪高田氏の室町後期以降の居館と推測されている。高田氏の事績については、高田城の項に記載する。高田氏は、元は妙義町下高田の「堀の内」に居館を置いていたが、宝徳~長禄の頃(1449~60年)にこの地に移ったと推測されている。
後期高田氏館は、現在陽雲寺の境内となっている。位置的には諸戸城と菅原城の中間にあり、妙義山の支峰金鶏山から東に伸びる2つの尾根に挟まれた低い緩傾斜地の奥に築かれている。特に明確な遺構はないが、境内は高台となっており、境内前面には堀跡の様な池があり、また背後の墓地に高田氏の墓所がある。なお陽雲寺は、高田大和守憲頼が1506年に開基したと伝えられる。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.281818/138.771894/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
今井城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←主郭北側の堀跡の遠望
今井城は、大胡城の支城で、斎藤氏の居城であったと伝えられている。その他の歴史は不明である。
今井城は、荒砥川西岸の平地に築かれている。主郭は民家の敷地となっているので立入りできないが、微高地となっており、民家敷地の北と西に堀跡の低地が遠目にも確認できる。主郭の北には堀跡の低地を挟んで東西に長い微高地があり、北郭であったと思われる。その他は宅地化などの改変が激しく、縄張りは不明瞭である。主郭南東の公園に城址標柱が立っているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、荒砥川は河川改修で流路が変わっており、この公園はかつて荒砥川が流れていた場所であったことがわかる。残念な現況ではあるが、主郭の形状がおぼろげに残っているだけマシであろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.373690/139.146137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
今井城は、大胡城の支城で、斎藤氏の居城であったと伝えられている。その他の歴史は不明である。
今井城は、荒砥川西岸の平地に築かれている。主郭は民家の敷地となっているので立入りできないが、微高地となっており、民家敷地の北と西に堀跡の低地が遠目にも確認できる。主郭の北には堀跡の低地を挟んで東西に長い微高地があり、北郭であったと思われる。その他は宅地化などの改変が激しく、縄張りは不明瞭である。主郭南東の公園に城址標柱が立っているが、昭和20年代前半の航空写真を見ると、荒砥川は河川改修で流路が変わっており、この公園はかつて荒砥川が流れていた場所であったことがわかる。残念な現況ではあるが、主郭の形状がおぼろげに残っているだけマシであろう。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.373690/139.146137/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
赤石城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←腰曲輪跡の畑
赤石城は、那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いたとされる。赤石城は2つあり、後に伊勢崎陣屋となった地にも赤石城があった。赤石氏は、最初はこの飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。但し城の名が同じ為、後世に歴史の混同などがあり、詳細は不明であるらしい。
赤石城は、神沢川とその支流に挟まれた段丘南端に築かれた城である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に連なる4つの曲輪で構成されていたらしい。その形態は、昭和20年代前半の航空写真でも確認できる。北西に突出した北郭があり、その南に土塁と空堀・腰曲輪で囲まれた方形の主郭、更に南にニノ郭・三ノ郭と置かれていたらしい。現在城内は宅地化で改変され、遺構は完全に湮滅している。わずかに主郭部の切岸が段差となって民家裏に残るほか、主郭東側の腰曲輪が畑となって残っているだけである。台地の形状も、周りの河川改修に伴って変えられてしまっている。主郭北側を東西に貫通する車道脇に、城址標柱が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355720/139.179375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
赤石城は、那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いたとされる。赤石城は2つあり、後に伊勢崎陣屋となった地にも赤石城があった。赤石氏は、最初はこの飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。但し城の名が同じ為、後世に歴史の混同などがあり、詳細は不明であるらしい。
赤石城は、神沢川とその支流に挟まれた段丘南端に築かれた城である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、南北に連なる4つの曲輪で構成されていたらしい。その形態は、昭和20年代前半の航空写真でも確認できる。北西に突出した北郭があり、その南に土塁と空堀・腰曲輪で囲まれた方形の主郭、更に南にニノ郭・三ノ郭と置かれていたらしい。現在城内は宅地化で改変され、遺構は完全に湮滅している。わずかに主郭部の切岸が段差となって民家裏に残るほか、主郭東側の腰曲輪が畑となって残っているだけである。台地の形状も、周りの河川改修に伴って変えられてしまっている。主郭北側を東西に貫通する車道脇に、城址標柱が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.355720/139.179375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世崖端城
新土塚城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←東側の空堀跡
新土塚城は、金山城主由良氏の家臣増田繁政の居城と伝えられている。繁政は、永禄年間(1558~70年)に由良氏の下で大胡城代を務めている。
新土塚城は、荒砥川東岸の段丘上に築かれている。東の神沢川との間を南に突き出た台地の南西端を、空堀で分断して城域としている。城内は現在一部が民家となっている他は、耕地と薮となっている。内部は改変されているので、往時の縄張りは明確ではないが、空堀でいくつかの曲輪に分かれていたらしい。現在明確に残っているのは、東の堀跡と西の櫓台(文殊尊堂が建っている)だけである。堀跡は畑となっていて埋まっているが、幅が大きく、往時の規模が想像できる。解説板はないが、城址標柱が民家敷地の端っこに立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.347615/139.165471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
新土塚城は、金山城主由良氏の家臣増田繁政の居城と伝えられている。繁政は、永禄年間(1558~70年)に由良氏の下で大胡城代を務めている。
新土塚城は、荒砥川東岸の段丘上に築かれている。東の神沢川との間を南に突き出た台地の南西端を、空堀で分断して城域としている。城内は現在一部が民家となっている他は、耕地と薮となっている。内部は改変されているので、往時の縄張りは明確ではないが、空堀でいくつかの曲輪に分かれていたらしい。現在明確に残っているのは、東の堀跡と西の櫓台(文殊尊堂が建っている)だけである。堀跡は畑となっていて埋まっているが、幅が大きく、往時の規模が想像できる。解説板はないが、城址標柱が民家敷地の端っこに立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.347615/139.165471/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
今村城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
←微高地の主郭
今村城は、那波氏の戦国後期の居城である。那波刑部太夫宗俊が築いたと言われ、家臣の長浜越前を置いて守らせた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。また天正年間(1573~92年)には、一時上杉勢の金山城攻撃の拠点となったと言う。
今村城は、韮川西岸に築かれた平城である。現在城跡は宅地化と耕地化が進み、主郭以外の遺構は湮滅している。元々、古墳を主郭の櫓台として利用した城だったとされるが、どれが古墳なのかよくわからない。ただ、主郭は周囲よりやや高い三角形状の台地となっているのがわかるだけである。主郭南端の民家敷地脇に、城址石碑と解説板が立っている。高度成長期以前の航空写真を見ると、本丸の周囲の曲輪には堀跡の田んぼが廻らされ、『日本城郭大系』にある縄張りがほぼ確認できるが、現在は前述の通り壊滅状態である。南の大手付近には堀跡の水路があり、民家の入口の橋に「今村城跡 廣間橋」と刻まれた石碑が立っている。ここが外郭の大手口であったらしい。遺構は残念な状況だが、石碑や解説板があるのが救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.327754/139.143133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
今村城は、那波氏の戦国後期の居城である。那波刑部太夫宗俊が築いたと言われ、家臣の長浜越前を置いて守らせた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。また天正年間(1573~92年)には、一時上杉勢の金山城攻撃の拠点となったと言う。
今村城は、韮川西岸に築かれた平城である。現在城跡は宅地化と耕地化が進み、主郭以外の遺構は湮滅している。元々、古墳を主郭の櫓台として利用した城だったとされるが、どれが古墳なのかよくわからない。ただ、主郭は周囲よりやや高い三角形状の台地となっているのがわかるだけである。主郭南端の民家敷地脇に、城址石碑と解説板が立っている。高度成長期以前の航空写真を見ると、本丸の周囲の曲輪には堀跡の田んぼが廻らされ、『日本城郭大系』にある縄張りがほぼ確認できるが、現在は前述の通り壊滅状態である。南の大手付近には堀跡の水路があり、民家の入口の橋に「今村城跡 廣間橋」と刻まれた石碑が立っている。ここが外郭の大手口であったらしい。遺構は残念な状況だが、石碑や解説板があるのが救いである。
大手口の廣間橋の石碑→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.327754/139.143133/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
力丸城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←堀跡の水路
力丸城は、那波氏の庶流力丸氏の居城である。1367年に那波一族の日向守広宗がこの地に分封されて、力丸城を築いて居城とし、力丸氏を称したと言う。後に箕輪城主長野信濃守の管轄下に入った。戦国末期には他の上野諸豪と同様に小田原北条氏に服属したらしく、1590年、力丸佐介宗也とその子伊賀守の時、北条氏滅亡と共に没落した。
力丸城は、力丸町の集落のほぼ全部を城域とした平城である。現在は宅地化と耕地化で遺構は湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ると、堀跡の水路が縦横に走り、主郭跡もはっきりと分かる。しかし現在は、わずかに曲輪間の堀跡が水路となって名残りを残しているだけである。力丸町会議所の西側の道路脇に城址石碑が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332240/139.114895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
力丸城は、那波氏の庶流力丸氏の居城である。1367年に那波一族の日向守広宗がこの地に分封されて、力丸城を築いて居城とし、力丸氏を称したと言う。後に箕輪城主長野信濃守の管轄下に入った。戦国末期には他の上野諸豪と同様に小田原北条氏に服属したらしく、1590年、力丸佐介宗也とその子伊賀守の時、北条氏滅亡と共に没落した。
力丸城は、力丸町の集落のほぼ全部を城域とした平城である。現在は宅地化と耕地化で遺構は湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ると、堀跡の水路が縦横に走り、主郭跡もはっきりと分かる。しかし現在は、わずかに曲輪間の堀跡が水路となって名残りを残しているだけである。力丸町会議所の西側の道路脇に城址石碑が立っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332240/139.114895/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
宿阿内城(群馬県前橋市) [古城めぐり(群馬)]
←三ノ郭の土塁
宿阿内(しゅこうち)城は、単に阿内城とも呼ばれ、「長尾景春の乱」の際に両上杉氏が退避した城である。景春の父、白井長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年、家宰職は景信の弟・惣社長尾忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、白井長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。この頃は享徳の大乱の真っ最中で、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は共に武蔵国五十子(いかっこ)に陣営を連ねて、古河公方足利成氏と長期に渡って対峙していた。1477年、景春はこの両上杉氏の本営である五十子を攻撃し、五十子陣を崩壊させた。この時、顕定・定正の両上杉氏が退避したのが宿阿内城である。当時の宿阿内城は、三輪右丹という武士が守っていたらしい。その後、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の活躍によって、両上杉氏は武蔵に帰ることができたと言う。
宿阿内城は、端気川西岸の微高地に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、主郭・二ノ郭は環郭式に構えられ、南に三ノ郭、北に北郭など、周囲に曲輪を巡らした城だったらしい。しかし現在は、ほとんどが耕地整理で湮滅してしまっている。わずかにニノ郭北東部の塁線が畑の輪郭として残るほか、三ノ郭北東の土塁の一部が、民家の裏にL字状に残っているだけである。ニノ郭南辺に当たる道路際に「下川淵カルタ」の看板が立ち、そこに力丸城と共に宿阿内城の名が書かれている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.346682/139.092107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
宿阿内(しゅこうち)城は、単に阿内城とも呼ばれ、「長尾景春の乱」の際に両上杉氏が退避した城である。景春の父、白井長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年、家宰職は景信の弟・惣社長尾忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、白井長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。この頃は享徳の大乱の真っ最中で、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は共に武蔵国五十子(いかっこ)に陣営を連ねて、古河公方足利成氏と長期に渡って対峙していた。1477年、景春はこの両上杉氏の本営である五十子を攻撃し、五十子陣を崩壊させた。この時、顕定・定正の両上杉氏が退避したのが宿阿内城である。当時の宿阿内城は、三輪右丹という武士が守っていたらしい。その後、扇谷上杉氏の家宰太田道灌の活躍によって、両上杉氏は武蔵に帰ることができたと言う。
宿阿内城は、端気川西岸の微高地に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、主郭・二ノ郭は環郭式に構えられ、南に三ノ郭、北に北郭など、周囲に曲輪を巡らした城だったらしい。しかし現在は、ほとんどが耕地整理で湮滅してしまっている。わずかにニノ郭北東部の塁線が畑の輪郭として残るほか、三ノ郭北東の土塁の一部が、民家の裏にL字状に残っているだけである。ニノ郭南辺に当たる道路際に「下川淵カルタ」の看板が立ち、そこに力丸城と共に宿阿内城の名が書かれている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.346682/139.092107/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
岩鼻陣屋(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←北辺の土塁と空堀
岩鼻陣屋は、江戸後期に徳川幕府が築いた陣屋である。戦国期の永禄年間(1558~70年)には岩鼻砦があった所と言う。1793年、幕府はこの地に岩鼻陣屋を造営し、初代代官として吉川栄左衛門貞寛と近藤和四郎が任命された。貞寛は、この陣屋に居住して、1810年に病没するまで代官職にあり、善政を行ったという。岩鼻代官には吉川氏を始め良吏が多かったとされる。当初は規模の小さな陣屋であったが、その後2度にわたって拡張され、農兵を募集して幕府から派遣された教官が洋式調練を行った。幕末の1865年、木村甲斐守が関東郡代として着任し、上野国の幕府直轄地(天領)・旗本領・寺社領・大名の預り所と武蔵国六郡の50万石を管理した。また世直し一揆の鎮圧にあっては、江戸北辺の守りの中心となった。1868年、明治維新が成ると新政府は6月に岩鼻県を設置し、大音龍太郎を軍監兼当分知県事に任じ、陣屋跡を岩鼻県庁とした。
岩鼻陣屋は、烏川北岸の段丘上に築かれている。中山道と烏川渡河点を押さえる交通の要衝であったらしい。ややひしゃげた方形に近い形状の陣屋で、南の大手には石垣・土塁で構築された長い枡形があったらしい。枡形は残っていないが、陣屋は東半分の遺構がよく残っている。日本化薬研修センターの南側には空堀跡が残り、陣屋敷地の東辺には切岸跡が明瞭である。また、特によく残っているのは陣屋北側で、東半分だけ土塁と空堀が明瞭である。その他は日本化薬の社宅団地が建設されており、湮滅している。周囲を歩くと、規模の大きな陣屋であったことがよく分かる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.295291/139.074104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
岩鼻陣屋は、江戸後期に徳川幕府が築いた陣屋である。戦国期の永禄年間(1558~70年)には岩鼻砦があった所と言う。1793年、幕府はこの地に岩鼻陣屋を造営し、初代代官として吉川栄左衛門貞寛と近藤和四郎が任命された。貞寛は、この陣屋に居住して、1810年に病没するまで代官職にあり、善政を行ったという。岩鼻代官には吉川氏を始め良吏が多かったとされる。当初は規模の小さな陣屋であったが、その後2度にわたって拡張され、農兵を募集して幕府から派遣された教官が洋式調練を行った。幕末の1865年、木村甲斐守が関東郡代として着任し、上野国の幕府直轄地(天領)・旗本領・寺社領・大名の預り所と武蔵国六郡の50万石を管理した。また世直し一揆の鎮圧にあっては、江戸北辺の守りの中心となった。1868年、明治維新が成ると新政府は6月に岩鼻県を設置し、大音龍太郎を軍監兼当分知県事に任じ、陣屋跡を岩鼻県庁とした。
岩鼻陣屋は、烏川北岸の段丘上に築かれている。中山道と烏川渡河点を押さえる交通の要衝であったらしい。ややひしゃげた方形に近い形状の陣屋で、南の大手には石垣・土塁で構築された長い枡形があったらしい。枡形は残っていないが、陣屋は東半分の遺構がよく残っている。日本化薬研修センターの南側には空堀跡が残り、陣屋敷地の東辺には切岸跡が明瞭である。また、特によく残っているのは陣屋北側で、東半分だけ土塁と空堀が明瞭である。その他は日本化薬の社宅団地が建設されており、湮滅している。周囲を歩くと、規模の大きな陣屋であったことがよく分かる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.295291/139.074104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣屋
八幡原館(群馬県高崎市) [古城めぐり(群馬)]
←水堀のクランク部
八幡原館は、源頼朝の近臣安達盛長によって築かれた館と伝えられる。頼朝が平家打倒に立ち上がって鎌倉に本拠を構えた後、1184年に盛長は上野国奉行人となった。その際に、上野の支配拠点としてこの館を築いたらしい。1189年には比企能員が上野守護となったが、1203年に比企一族が滅ぼされると、盛長の嫡男景盛が上野守護となり、1285年に安達泰盛が平(長崎)頼綱と争って滅亡するまで、八幡原館は安達氏の上野の支配拠点として機能したと考えられる。
八幡原館は、井野川東岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、二重の堀・土塁で築かれた館(陣屋という方が適切か?)で、主郭は、東西に長い長方形の二ノ郭の中央北側に偏して築かれている。二ノ郭はほとんど湮滅しているが、民家となっている主郭は南側から西側にかけて水堀と土塁が残っている。南の水堀は、南東部でクランクして横矢が掛かっている。遺構はわずかで、標柱も解説板もないが、館跡の雰囲気は残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.299442/139.089875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
八幡原館は、源頼朝の近臣安達盛長によって築かれた館と伝えられる。頼朝が平家打倒に立ち上がって鎌倉に本拠を構えた後、1184年に盛長は上野国奉行人となった。その際に、上野の支配拠点としてこの館を築いたらしい。1189年には比企能員が上野守護となったが、1203年に比企一族が滅ぼされると、盛長の嫡男景盛が上野守護となり、1285年に安達泰盛が平(長崎)頼綱と争って滅亡するまで、八幡原館は安達氏の上野の支配拠点として機能したと考えられる。
八幡原館は、井野川東岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、二重の堀・土塁で築かれた館(陣屋という方が適切か?)で、主郭は、東西に長い長方形の二ノ郭の中央北側に偏して築かれている。二ノ郭はほとんど湮滅しているが、民家となっている主郭は南側から西側にかけて水堀と土塁が残っている。南の水堀は、南東部でクランクして横矢が掛かっている。遺構はわずかで、標柱も解説板もないが、館跡の雰囲気は残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.299442/139.089875/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:居館
宮城県の中世城郭の謎 [城郭よもやま話]
宮城県は、全国でも有数の中世城郭の密集地帯である。
それは、宮城県遺跡地図を眺めているとよくわかるが、
平地を取り巻く丘陵地や山地の至る所に城あるいは楯(館)が築かれている。
その中には、歴史不詳、城主不明のものも多い。
というか、不明のものがほとんどだろう。
先日、そうした城のいくつかに行ってみた。
ネットには勿論、『日本城郭大系』にも情報がほとんど無く、
従って縄張りの詳細も、実際に行ってみないとわからない。
ただ、国土地理院地形図の傾斜量図やアプリのスーパー地形で、
明確な遺構があるかどうかは事前に把握できるので、
遺構がしっかりしていそうなものを選んで行ったのである。
(事前に城郭遺構の良し悪しがわかるなんて、便利な時代になったものだ!)
踏査したところ、あまりにもしっかりした臨戦的な遺構が残っているのでビックリした。
各地の城でよくありがちなのは、
城があったという伝承はあるが、実際に行ってみるとほとんど遺構が確認できないとか、
あってもわずかな小城砦だったりする。
しかし私が行った宮城県の城は、遺構が良く残っているだけでなく、
二重堀切あり、横矢掛かりのクランクあり、しっかりした竪堀ありの、
立派な普請がされたバリバリの中世城郭だったりするのである。
しかもそれが狭い地域に密集して存在しているのである。
今回私が行った地域は大崎氏の勢力圏で、
一部の城には城主として大崎氏家臣の名も伝わっているが、
大崎氏に臣従しただけの「一土豪」が築くには城の規模が大き過ぎる。
かといって、戦国大名としては脆弱だった大崎氏に
これだけの数と規模の城を築く勢威があったのであろうか?
城の歴史が伝わっていないということは、
付近で行われた合戦時の臨時築城の可能性もあるが、
そんなに大軍勢が四六時中、戦闘を行っていた地域なのだろうか?
確かに大崎氏は、足利一門の中でも最高の家格とされた斯波氏の一族で、
「御所」と呼ばれるほどの権威を有した奥州探題の名家であった。
しかし戦国時代には伊達氏の風下に置かれたことからもわかる通り、
その権力構造はそれほど強固なものではなかったはずで、
このような密度と規模で城郭群を築けるようには思えない。
宮城県の中世城郭群は、行けば行くほど謎が深まるばかりである。
それは、宮城県遺跡地図を眺めているとよくわかるが、
平地を取り巻く丘陵地や山地の至る所に城あるいは楯(館)が築かれている。
その中には、歴史不詳、城主不明のものも多い。
というか、不明のものがほとんどだろう。
先日、そうした城のいくつかに行ってみた。
ネットには勿論、『日本城郭大系』にも情報がほとんど無く、
従って縄張りの詳細も、実際に行ってみないとわからない。
ただ、国土地理院地形図の傾斜量図やアプリのスーパー地形で、
明確な遺構があるかどうかは事前に把握できるので、
遺構がしっかりしていそうなものを選んで行ったのである。
(事前に城郭遺構の良し悪しがわかるなんて、便利な時代になったものだ!)
踏査したところ、あまりにもしっかりした臨戦的な遺構が残っているのでビックリした。
各地の城でよくありがちなのは、
城があったという伝承はあるが、実際に行ってみるとほとんど遺構が確認できないとか、
あってもわずかな小城砦だったりする。
しかし私が行った宮城県の城は、遺構が良く残っているだけでなく、
二重堀切あり、横矢掛かりのクランクあり、しっかりした竪堀ありの、
立派な普請がされたバリバリの中世城郭だったりするのである。
しかもそれが狭い地域に密集して存在しているのである。
今回私が行った地域は大崎氏の勢力圏で、
一部の城には城主として大崎氏家臣の名も伝わっているが、
大崎氏に臣従しただけの「一土豪」が築くには城の規模が大き過ぎる。
かといって、戦国大名としては脆弱だった大崎氏に
これだけの数と規模の城を築く勢威があったのであろうか?
城の歴史が伝わっていないということは、
付近で行われた合戦時の臨時築城の可能性もあるが、
そんなに大軍勢が四六時中、戦闘を行っていた地域なのだろうか?
確かに大崎氏は、足利一門の中でも最高の家格とされた斯波氏の一族で、
「御所」と呼ばれるほどの権威を有した奥州探題の名家であった。
しかし戦国時代には伊達氏の風下に置かれたことからもわかる通り、
その権力構造はそれほど強固なものではなかったはずで、
このような密度と規模で城郭群を築けるようには思えない。
宮城県の中世城郭群は、行けば行くほど謎が深まるばかりである。
川井城(群馬県玉村町) [古城めぐり(群馬)]
←主郭櫓台跡の八千戈神社
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
川井城は、烏川対岸にある金窪城の支城である。金窪城主斎藤定盛の弟・石見守基盛が在城したとされる。定盛・基盛の兄弟は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に加賀国篠原で木曽義仲の軍勢と戦って壮絶な戦死を遂げた斎藤別当実盛の末裔とされる。戦国末期には、小田原北条氏に属し、1582年の神流川合戦の際には、滝川一益の軍勢の攻撃を受け、落城した。その後、箕輪城主長野氏の家臣清水内記邦正が定盛の長女を娶り、この地を譲り受けたと言う。
川井城は、滝川北岸の段丘上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図によれば、往時は4つの曲輪から成る城だったようだが、現在は城の西から南にかけては堤防建設で失われ、その他の部分も宅地化で遺構はほぼ湮滅している。唯一主郭の櫓台が、八千戈神社が祀られた高台となって現存しているだけである。また前述の縄張図には記載されていないが、昭和30年代の航空写真を見ると、城の北東側にも大きな方形の外郭があった様に見受けられる。それは、北辺と東辺に堀跡の様な低い水田が写真に写っているからである。しかしそれも現在では耕地整理で失われているので、実際にどうであったのかは現在では知るすべもない。櫓台跡に城の解説板があるのだけが、せめてもの救いである。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285571/139.139829/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
神流川古戦場 その2(埼玉県上里町、群馬県玉村町) [その他の史跡巡り]
神流川合戦は、本能寺の変をきっかけに滝川一益と北条氏直の間で行われた合戦である。その史跡には以前に行っているが、埼玉県側にも解説板があることがわかったのと、滝川一益が本陣を置いたと伝承される軍配山古墳というものがあると知り、近くに行ったついでに訪問した。
《埼玉側解説板》
←新しい方の解説板
神流川沿いの堤防の上に解説板が立っているのを知っていたので、それを訪ねるのが目的だったが、もう一つ真新しい「神流川古戦場と渡し場」という解説板が、国道17号線の神流川橋(南)交差点の脇に立てられていた。一方の古い方の解説板は、国道17号線の北側に30m程入ったところに立っている。解説文の文字が消えかけており、下の方がかなり見にくくなっていた。
場所:【古い解説板】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266750/139.123757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
【新しい解説板】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266231/139.124529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
《滝川一益本陣》
軍配山古墳は、御幣山古墳とも呼ばれる。神流川合戦の際に、滝川一益がここに本陣を置き、軍配を振るって全軍を指揮した場所と伝えられる。その故事からこの古墳を軍配山と呼ぶようになった。南側に解説板が立つ他、古墳上には石碑や祠が立っている。
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.293613/139.126804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
《埼玉側解説板》
←新しい方の解説板
神流川沿いの堤防の上に解説板が立っているのを知っていたので、それを訪ねるのが目的だったが、もう一つ真新しい「神流川古戦場と渡し場」という解説板が、国道17号線の神流川橋(南)交差点の脇に立てられていた。一方の古い方の解説板は、国道17号線の北側に30m程入ったところに立っている。解説文の文字が消えかけており、下の方がかなり見にくくなっていた。
古い方の解説板→
場所:【古い解説板】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266750/139.123757/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
【新しい解説板】https://maps.gsi.go.jp/#16/36.266231/139.124529/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
《滝川一益本陣》
軍配山古墳は、御幣山古墳とも呼ばれる。神流川合戦の際に、滝川一益がここに本陣を置き、軍配を振るって全軍を指揮した場所と伝えられる。その故事からこの古墳を軍配山と呼ぶようになった。南側に解説板が立つ他、古墳上には石碑や祠が立っている。
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.293613/139.126804/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
那波城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
←本丸跡の石碑
那波城は、堀口城とも呼ばれ、この地の豪族那波氏の居城である。那波氏は、大江広元の3男政広を祖とし、上野国那波郡の郡地頭としてこの地に入部し、那波氏を称した。元々この地には、藤姓足利氏庶流の那波氏がいたが、藤姓那波弘澄は討死し、その子宗澄には子がなかったため、政広は弘澄の娘を娶って入嗣し、那波氏の名跡を継承した。その子孫は鎌倉幕府引付衆に、また室町時代には鎌倉公方足利持氏の奉公衆となって活躍した。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。1584年に由良氏が北条方から離反し、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。その後、攻勢に出た北条氏に抗しきれず由良氏が降伏すると、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城した。1590年に北条氏が滅亡すると、顕宗は上杉景勝を頼ってその家臣となり、同年の仙北一揆の鎮圧の際に討死し、那波氏は滅亡した。
那波城は、名和幼稚園の南の平地にあったらしい。現在は一面の耕地と学校敷地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。第二次大戦中の航空写真を見ても、既に城の痕跡は見られないので、早くに遺構が失われた様である。耕地の只中の道端に「那波城址 本丸跡」の石碑が立ち、西の名和小学校敷地の県道沿いにも「那波城址」の石碑が立っている。小学校の石碑の方には、裏に碑文が刻まれているらしいが、残念なことに学校敷地に入らないと見ることができない。時節柄、校地への入場を避けたので、碑文を見ることができなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.290846/139.184654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
那波城は、堀口城とも呼ばれ、この地の豪族那波氏の居城である。那波氏は、大江広元の3男政広を祖とし、上野国那波郡の郡地頭としてこの地に入部し、那波氏を称した。元々この地には、藤姓足利氏庶流の那波氏がいたが、藤姓那波弘澄は討死し、その子宗澄には子がなかったため、政広は弘澄の娘を娶って入嗣し、那波氏の名跡を継承した。その子孫は鎌倉幕府引付衆に、また室町時代には鎌倉公方足利持氏の奉公衆となって活躍した。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させ、宗俊は嫡男次郎(後の顕宗)を人質として謙信に差し出した。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられた。宗俊は間もなく没し、人質となっていた次郎が跡を継いだ。顕宗は今村城を本拠とし、後に北条方に付いて旧領回復を図った。1584年に由良氏が北条方から離反し、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。その後、攻勢に出た北条氏に抗しきれず由良氏が降伏すると、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城した。1590年に北条氏が滅亡すると、顕宗は上杉景勝を頼ってその家臣となり、同年の仙北一揆の鎮圧の際に討死し、那波氏は滅亡した。
那波城は、名和幼稚園の南の平地にあったらしい。現在は一面の耕地と学校敷地に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。第二次大戦中の航空写真を見ても、既に城の痕跡は見られないので、早くに遺構が失われた様である。耕地の只中の道端に「那波城址 本丸跡」の石碑が立ち、西の名和小学校敷地の県道沿いにも「那波城址」の石碑が立っている。小学校の石碑の方には、裏に碑文が刻まれているらしいが、残念なことに学校敷地に入らないと見ることができない。時節柄、校地への入場を避けたので、碑文を見ることができなかった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.290846/139.184654/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:中世平城
茂呂城(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
←三ノ郭北の堀跡の川
茂呂城は、この地の豪族那波氏の支城である。『日本城郭大系』ではその創築を永禄年間(1558~70年)としているが、主郭にある退魔寺の寺伝によれば、南北朝期の1371年に茂呂城主茂呂勘解由左衛門尉義輝が城内の光円坊を改め香華院を創立したのが退魔寺の始まりということなので、茂呂氏が南北朝期には茂呂城を築いて居城としていたらしい。茂呂氏の事績は不明であるが、戦国時代には那波氏の家臣となっていたのであろう。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、北条方の那波宗俊を攻撃して没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣根岸三河が茂呂城に在城した。1584年、由良氏・足利長尾氏が小田原北条氏から離反すると、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。1590年、北条氏が滅亡すると廃城となった。
茂呂城は、広瀬川東岸の段丘上に築かれている。前述の通り、主郭には現在退魔寺が建っている。境内には茂呂城と書かれた標柱があるが、土塁や堀等の遺構は確認できない。主郭の周囲には広瀬川に面した西側以外の三方に二ノ郭が巡っていたらしいが、これも現在は宅地化されて遺構は湮滅している。二ノ郭の北に三角形状の三ノ郭があったとされ、その北側の堀は現在も深い小川が流れている。三ノ郭の北西に北郭があり、宅地・畑のほか、一部が竹林となっており、竹林の中に北郭の土塁らしいものが見受けられるが、形状がはっきりせず遺構なのかどうか確信が持てない。この他、城の東側に大きく外郭が広がっていたらしく、その東側の堀跡が水路として残っている。以上のように、茂呂城は遺構がほとんど湮滅しており、ほとんど城らしい姿を残していないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303557/139.202592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
茂呂城は、この地の豪族那波氏の支城である。『日本城郭大系』ではその創築を永禄年間(1558~70年)としているが、主郭にある退魔寺の寺伝によれば、南北朝期の1371年に茂呂城主茂呂勘解由左衛門尉義輝が城内の光円坊を改め香華院を創立したのが退魔寺の始まりということなので、茂呂氏が南北朝期には茂呂城を築いて居城としていたらしい。茂呂氏の事績は不明であるが、戦国時代には那波氏の家臣となっていたのであろう。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、北条方の那波宗俊を攻撃して没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣根岸三河が茂呂城に在城した。1584年、由良氏・足利長尾氏が小田原北条氏から離反すると、旧那波領は由良勢の攻撃を受けたが、北条方の那和顕宗は茂呂城と堀口城(那波城)を固守し、奮戦して由良勢を撃退したと言う。1590年、北条氏が滅亡すると廃城となった。
茂呂城は、広瀬川東岸の段丘上に築かれている。前述の通り、主郭には現在退魔寺が建っている。境内には茂呂城と書かれた標柱があるが、土塁や堀等の遺構は確認できない。主郭の周囲には広瀬川に面した西側以外の三方に二ノ郭が巡っていたらしいが、これも現在は宅地化されて遺構は湮滅している。二ノ郭の北に三角形状の三ノ郭があったとされ、その北側の堀は現在も深い小川が流れている。三ノ郭の北西に北郭があり、宅地・畑のほか、一部が竹林となっており、竹林の中に北郭の土塁らしいものが見受けられるが、形状がはっきりせず遺構なのかどうか確信が持てない。この他、城の東側に大きく外郭が広がっていたらしく、その東側の堀跡が水路として残っている。以上のように、茂呂城は遺構がほとんど湮滅しており、ほとんど城らしい姿を残していないのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.303557/139.202592/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
戦国時代の終焉: 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (読みなおす日本史)
- 作者: 齋藤 慎一
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2018/12/13
- メディア: 単行本
タグ:中世崖端城
伊勢崎陣屋(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
←西から見た城跡の現況
伊勢崎陣屋は、1681年に酒井忠寛によって築かれた陣屋である。その前身は、戦国時代に那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いた赤石城とされる。赤石城は2つあり、前橋市飯土井町にも赤石城がある。赤石氏は、最初は飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。この地域は小田原北条氏と越後上杉氏の勢力の接壌地帯となった為、両者の勢力争いに巻き込まれた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、伊勢崎の赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣林高成が赤石城に在城した。この後、由良氏は北条方に付いたが、1584年に再び北条方から離反し、金山城を北条方の軍勢に攻撃された。この時、北条氏の麾下にいた那波顕宗(宗俊の次男)は赤石城を占拠した。由良氏が北条氏に降伏した後、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城し、赤石城はその支配下に入った。1590年の北条氏滅亡後、徳川家康が関東に移封となると、白井城主本多広孝の支配地となった。1597年、稲垣長茂が大胡の樋越から赤石城に移った。1616年、稲垣氏の越後三条への転封により、赤石城は廃された。その後、厩橋城主酒井忠世に伊勢崎2万石が与えられ、1681年、酒井忠寛の時に赤石城の故地に伊勢崎陣屋が築かれ、幕末まで存続した。
伊勢崎陣屋は、西を流れる広瀬川に臨む段丘上に位置し、伊勢崎市立北小学校の付近にあった。しかし残念ながら城跡は市街化されて遺構は完全に湮滅し、その縄張りを推測することも困難である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、やや西に偏した本丸を取り囲むように、土塁と堀を築いた二ノ丸が置かれていた様で、陣屋と言うより完全に城の作りであったらしい。城跡には解説板はおろか標柱すら設置されておらず、極めて残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322732/139.190941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
伊勢崎陣屋は、1681年に酒井忠寛によって築かれた陣屋である。その前身は、戦国時代に那波氏の家臣赤石左衛門尉が築いた赤石城とされる。赤石城は2つあり、前橋市飯土井町にも赤石城がある。赤石氏は、最初は飯土井の赤石城に居たが、後に伊勢崎の赤石城を新たに築いて移ったと言われている。この地域は小田原北条氏と越後上杉氏の勢力の接壌地帯となった為、両者の勢力争いに巻き込まれた。1560年、上杉謙信は初めて越山して関東に出馬し、伊勢崎の赤石城を攻略して北条方の那波宗俊を没落させた。那波領は上杉氏によって金山城主由良成繁に与えられ、その家臣林高成が赤石城に在城した。この後、由良氏は北条方に付いたが、1584年に再び北条方から離反し、金山城を北条方の軍勢に攻撃された。この時、北条氏の麾下にいた那波顕宗(宗俊の次男)は赤石城を占拠した。由良氏が北条氏に降伏した後、大和晴親が北条氏から派遣されて那波城に在城し、赤石城はその支配下に入った。1590年の北条氏滅亡後、徳川家康が関東に移封となると、白井城主本多広孝の支配地となった。1597年、稲垣長茂が大胡の樋越から赤石城に移った。1616年、稲垣氏の越後三条への転封により、赤石城は廃された。その後、厩橋城主酒井忠世に伊勢崎2万石が与えられ、1681年、酒井忠寛の時に赤石城の故地に伊勢崎陣屋が築かれ、幕末まで存続した。
伊勢崎陣屋は、西を流れる広瀬川に臨む段丘上に位置し、伊勢崎市立北小学校の付近にあった。しかし残念ながら城跡は市街化されて遺構は完全に湮滅し、その縄張りを推測することも困難である。『日本城郭大系』の縄張図によれば、やや西に偏した本丸を取り囲むように、土塁と堀を築いた二ノ丸が置かれていた様で、陣屋と言うより完全に城の作りであったらしい。城跡には解説板はおろか標柱すら設置されておらず、極めて残念な状況である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.322732/139.190941/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
江戸三百藩大全 全藩藩主変遷表付 (廣済堂ベストムック287号)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
- 発売日: 2015/03/02
- メディア: ムック
タグ:陣屋
久永氏陣屋(群馬県伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]
←西池際の陣屋跡の切岸
久永氏陣屋は、徳川家の旗本久永氏が所領支配のために築いた陣屋である。久永氏は元々石見国の武士であったが、戦国時代に三河国に移って松平氏(後の徳川氏)に仕えた。久永源兵衛重勝は徳川家康に仕え、家康が関東に移封となるとこれに従って関東に入部し、江戸時代初期には武蔵・上野・常陸に所領を有する禄高3200石の旗本となった。江戸時代に東小保方村とよばれたこの地域を領し、その支配拠点として築いたのがこの陣屋で、明治維新後に廃された。
久永氏陣屋は、現在は大東神社が鎮座している。陣屋は東西75m、南北120mの規模で、周囲に濠・土塁が巡らされ、郭内は外側より2.5m程高く、南大手には枡形が築かれていたらしい。陣屋が廃された後、濠は拡幅されて池になっており、現在では南池の南端と西池の東端に往時の面影を残すだけということで、確かに池の際に陣屋の切岸らしい地形が残っている。しかしその他の遺構は改変され、土塁は残っておらず、枡形も痕跡すら残していない。これを陣屋と言われても、わかる人は少ないだろう。神社境内の標柱と解説板だけが往時の歴史を伝えている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332085/139.249928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
久永氏陣屋は、徳川家の旗本久永氏が所領支配のために築いた陣屋である。久永氏は元々石見国の武士であったが、戦国時代に三河国に移って松平氏(後の徳川氏)に仕えた。久永源兵衛重勝は徳川家康に仕え、家康が関東に移封となるとこれに従って関東に入部し、江戸時代初期には武蔵・上野・常陸に所領を有する禄高3200石の旗本となった。江戸時代に東小保方村とよばれたこの地域を領し、その支配拠点として築いたのがこの陣屋で、明治維新後に廃された。
久永氏陣屋は、現在は大東神社が鎮座している。陣屋は東西75m、南北120mの規模で、周囲に濠・土塁が巡らされ、郭内は外側より2.5m程高く、南大手には枡形が築かれていたらしい。陣屋が廃された後、濠は拡幅されて池になっており、現在では南池の南端と西池の東端に往時の面影を残すだけということで、確かに池の際に陣屋の切岸らしい地形が残っている。しかしその他の遺構は改変され、土塁は残っておらず、枡形も痕跡すら残していない。これを陣屋と言われても、わかる人は少ないだろう。神社境内の標柱と解説板だけが往時の歴史を伝えている。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.332085/139.249928/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
タグ:陣屋
マリス・ヤンソンスの死 [クラシック音楽]
現在の大指揮者の一人であるマリス・ヤンソンスが亡くなった。
ヤンソンスの演奏会には2014年に行っているが、
その時も足を引きずっていて、体が辛そうだった。
早いものであれから5年。
そして享年76歳という、あまりにも早すぎる死。
今年はハイティンクも齢90歳にして引退したし、
小澤征爾もここのところ体調がすぐれないし、
ポスト・カラヤン世代がとうとう本格的に姿を消すようになってきて、
残念でならない。致し方のないことではあるが・・・。
ヤンソンスの演奏会には2014年に行っているが、
その時も足を引きずっていて、体が辛そうだった。
早いものであれから5年。
そして享年76歳という、あまりにも早すぎる死。
今年はハイティンクも齢90歳にして引退したし、
小澤征爾もここのところ体調がすぐれないし、
ポスト・カラヤン世代がとうとう本格的に姿を消すようになってきて、
残念でならない。致し方のないことではあるが・・・。
棚木城(石川県能登町) [古城めぐり(石川)]
←公園内の堀切らしい地形
棚木城は、この地を領した棚木氏の居城であったと伝えられる。棚木氏の出自には諸説ある様で、長光連の弟が棚木左近を称したとも、能登畠山氏3代義統の2男が棚木左門を称したとも言われ、明確にできない。後に棚木城に入城する長景連は、その先祖連之が棚木氏から長氏宗家に入嗣し、その後の家中の内訌で越後上杉氏を頼って出奔したとされる。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際には、他の能登諸城と同様に棚木城も攻略されたと言われるが、これも明確ではない様だ。いずれにしても棚木城が歴史の表舞台に出るのは戦国末期のことで、1579年に正院川尻城を逐われた上杉氏の部将・長景連は、1582年、兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。
棚木城は、宇出津港の南東に突き出た標高28mの半島に築かれている。現在城跡は遠島山公園となり、大きく改変されてしまっている様で、城郭遺構らしいものは極めて少ない。半島内は起伏のある地形で、ほとんどが自然地形の様に見受けられる。しかし、半島の突端まで行く途中に堀切や片堀切らしいものがあり、また谷の様な空堀らしい地形も見られる。入口案内板には地図上に本丸跡の表記があるが、かつてはあったらしい標柱が現地では失われており、どこが主郭であったのかもはっきりせず、曲輪の形状もよくわからない。この他、落城伝説にまつわる米流し坂という竪堀のようなものがある。公園入口付近には、馬洗池というものもあった様だが、現在は駐車場の真ん中に公園整備で作られた水溜りがあるだけで、遺構とは見做し難い。城跡北側の入り江は舟隠しと呼ばれる船溜まりであったらしい。
棚木城は、歴史にも不明点が多いが、遺構に関してもかなり不分明な状態で、かなり残念である。しかしその立地からは、水軍の拠点としての海城であったことは想像に難くない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.300395/137.160680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
棚木城は、この地を領した棚木氏の居城であったと伝えられる。棚木氏の出自には諸説ある様で、長光連の弟が棚木左近を称したとも、能登畠山氏3代義統の2男が棚木左門を称したとも言われ、明確にできない。後に棚木城に入城する長景連は、その先祖連之が棚木氏から長氏宗家に入嗣し、その後の家中の内訌で越後上杉氏を頼って出奔したとされる。1576年に上杉謙信が能登に侵攻した際には、他の能登諸城と同様に棚木城も攻略されたと言われるが、これも明確ではない様だ。いずれにしても棚木城が歴史の表舞台に出るのは戦国末期のことで、1579年に正院川尻城を逐われた上杉氏の部将・長景連は、1582年、兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。
棚木城は、宇出津港の南東に突き出た標高28mの半島に築かれている。現在城跡は遠島山公園となり、大きく改変されてしまっている様で、城郭遺構らしいものは極めて少ない。半島内は起伏のある地形で、ほとんどが自然地形の様に見受けられる。しかし、半島の突端まで行く途中に堀切や片堀切らしいものがあり、また谷の様な空堀らしい地形も見られる。入口案内板には地図上に本丸跡の表記があるが、かつてはあったらしい標柱が現地では失われており、どこが主郭であったのかもはっきりせず、曲輪の形状もよくわからない。この他、落城伝説にまつわる米流し坂という竪堀のようなものがある。公園入口付近には、馬洗池というものもあった様だが、現在は駐車場の真ん中に公園整備で作られた水溜りがあるだけで、遺構とは見做し難い。城跡北側の入り江は舟隠しと呼ばれる船溜まりであったらしい。
棚木城は、歴史にも不明点が多いが、遺構に関してもかなり不分明な状態で、かなり残念である。しかしその立地からは、水軍の拠点としての海城であったことは想像に難くない。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.300395/137.160680/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
正院川尻城(石川県珠洲市) [古城めぐり(石川)]
←五ノ郭北西部の切岸
正院川尻城は、上杉謙信の家臣で穴水城主長氏の庶流、長景連が拠点とした城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となり、その子孫は能登各地に勢力を広げた。鎌倉時代後期には正院周辺は庶流の長川尻氏が領するようになり、その支配拠点として川尻氏によって正院川尻城が築かれたと推測されている。1576年、上杉謙信は能登に侵攻し、翌77年に七尾城を攻略して能登全域を制圧した。謙信の家臣長景連はこの戦いの中で川尻城を攻略し、川尻氏は没落した。景連は、珠洲郡支配の拠点としてそのまま川尻城に在城した。景連は、長氏の庶流長連之の子孫で、この一族は長氏家中の内訌によって、上杉家を頼って越後に落ち延びたものらしい。越後黒滝に住んだので黒滝長氏と称される。1578年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、能登畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。景連は鹿野の浜の合戦で温井勢に敗れ、越後に撤退した。1582年、景連は兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。これ以後、川尻城は廃城となったと考えられる。
正院川尻城は、正院町東側の標高34mの台地上に築かれている。拠点城郭らしく、城域は広大で、台地上に広く曲輪が分布している。城へは登り口が幾つかある様だが、一番わかり易いのは城の南にある「うじま公園」の西側駐車場(城址解説板はこの脇にある)からまっすぐ北に向かったところで、県道脇に登り口の小さな標識が出ている。解説板の縄張図によれば、台地の南西角にニノ郭、その東に主郭、これらの北に横長の三ノ郭、その東に四ノ郭、三ノ郭の北に五ノ郭が配置され、それぞれの曲輪は空堀で分断され、更に腰曲輪を各所に配置した縄張りとなっている。一応、登り口から主郭まで散策路があるが、現在城内は1/3ほどが畑、残りは山林や薮(一部は耕作放棄地)に覆われている。畑地等になったため改変が進んでいる部分も多く、空堀も明確なのは山林の中にある一部であり、畑地の中の堀は埋められたのか、かなり浅くなってしまっている。空堀は基本的に直線形で、横矢掛りの張出しは三ノ郭の南辺など一部に設けられているだけである。城内で一番薮がひどいのはニノ郭で、南西角にある櫓台まで辿り着くのが大変だった。この他、二ノ郭南と三ノ郭北西の腰曲輪西側に切通し状の虎口が確認できた。城の南東からの登り口付近も虎口とされ、ここも切通し状になっているので、どうやらこの城は、虎口を切り通しにして狭めることで、敵の侵入を防ぐ構造だったらしい。この他にも、北西にやや離れた独立丘にも出丸があるらしいが、時間の関係で省略した。正院川尻城は大きな城ではあるが、遺構面では目立った特色がなく、薮に埋もれているせいもあって少々見劣りするのが残念である。
お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.444318/137.300069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
正院川尻城は、上杉謙信の家臣で穴水城主長氏の庶流、長景連が拠点とした城である。長氏は、源平争乱期(治承・寿永の乱)に勇名を馳せて鎌倉幕府の御家人に列した長谷部信連を祖とする。信連は、源頼朝から能登国大屋荘を賜り、能登に入部した。その後、長谷部を長に改め、能登の有力国人となり、その子孫は能登各地に勢力を広げた。鎌倉時代後期には正院周辺は庶流の長川尻氏が領するようになり、その支配拠点として川尻氏によって正院川尻城が築かれたと推測されている。1576年、上杉謙信は能登に侵攻し、翌77年に七尾城を攻略して能登全域を制圧した。謙信の家臣長景連はこの戦いの中で川尻城を攻略し、川尻氏は没落した。景連は、珠洲郡支配の拠点としてそのまま川尻城に在城した。景連は、長氏の庶流長連之の子孫で、この一族は長氏家中の内訌によって、上杉家を頼って越後に落ち延びたものらしい。越後黒滝に住んだので黒滝長氏と称される。1578年に謙信が急死して上杉氏の勢力が減退すると、1579年には織田信長の勢力が能登を圧し、能登畠山氏の旧臣温井景隆・三宅長盛らによって七尾城将鯵坂長実が追放されると、能登各地の上杉氏勢力は駆逐されていった。景連は鹿野の浜の合戦で温井勢に敗れ、越後に撤退した。1582年、景連は兵船を率いて再び奥能登に攻め込んで、棚木城を攻略して立て籠もったが、織田信長の部将前田利家の与力となっていた長氏嫡流の長連龍に撃退され、川尻まで逃げてきたところで百姓の襲撃に遭って討ち取られたと伝えられる。これ以後、川尻城は廃城となったと考えられる。
正院川尻城は、正院町東側の標高34mの台地上に築かれている。拠点城郭らしく、城域は広大で、台地上に広く曲輪が分布している。城へは登り口が幾つかある様だが、一番わかり易いのは城の南にある「うじま公園」の西側駐車場(城址解説板はこの脇にある)からまっすぐ北に向かったところで、県道脇に登り口の小さな標識が出ている。解説板の縄張図によれば、台地の南西角にニノ郭、その東に主郭、これらの北に横長の三ノ郭、その東に四ノ郭、三ノ郭の北に五ノ郭が配置され、それぞれの曲輪は空堀で分断され、更に腰曲輪を各所に配置した縄張りとなっている。一応、登り口から主郭まで散策路があるが、現在城内は1/3ほどが畑、残りは山林や薮(一部は耕作放棄地)に覆われている。畑地等になったため改変が進んでいる部分も多く、空堀も明確なのは山林の中にある一部であり、畑地の中の堀は埋められたのか、かなり浅くなってしまっている。空堀は基本的に直線形で、横矢掛りの張出しは三ノ郭の南辺など一部に設けられているだけである。城内で一番薮がひどいのはニノ郭で、南西角にある櫓台まで辿り着くのが大変だった。この他、二ノ郭南と三ノ郭北西の腰曲輪西側に切通し状の虎口が確認できた。城の南東からの登り口付近も虎口とされ、ここも切通し状になっているので、どうやらこの城は、虎口を切り通しにして狭めることで、敵の侵入を防ぐ構造だったらしい。この他にも、北西にやや離れた独立丘にも出丸があるらしいが、時間の関係で省略した。正院川尻城は大きな城ではあるが、遺構面では目立った特色がなく、薮に埋もれているせいもあって少々見劣りするのが残念である。
三ノ郭~四ノ郭間の空堀→
←三ノ郭腰曲輪の切通し状虎口お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.444318/137.300069/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1