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朝日山城(石川県金沢市) [古城めぐり(石川)]

IMG_5324.JPG←主郭~二ノ郭間の堀切
 朝日山城は、加越国境城砦群の一である。一説には、1573年に上杉謙信が加賀一向一揆の拠る朝日山を攻めたとも言われるが、確証はない。朝日山城がはっきりと姿を表すのは1584年のこととされる。本能寺の変での織田信長滅亡後、その後継を巡って1584年3月、羽柴秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康連合軍が尾張の小牧・長久手で対峙した。前年の賤ヶ岳合戦の後、一旦は秀吉に降って越中に留まった富山城主佐々成政は、これを機に秀吉から離反し、秀吉方の金沢城主前田利家と敵対し、両者の間に軍事的緊張が高まった。加越国境城砦群は、この時に新造または大改修を受けた城と考えられている。加賀と越中を繋ぐ主要街道は4つあり、成政は末森城攻撃に兵数を割くため、加越国境の城郭群を大改修して防御力を増強し、国境の守備兵不足を補強した。一方の前田利家は、秀吉から「成政が山を取ったからといって軽率な行動は慎め。軽率に動いて失敗したら厳罰に処す」との厳命が下されている。そのためか、佐々方の城砦は規模が大きく、縄張りも高度な技術を駆使しているが、前田方の城砦は小規模で、シンプルな縄張りのものが多い(学研パブリッシング『軍事分析 戦国の城』より)。朝日山城は、田近越(田近道)を押さえて、佐々方の一乗寺城と対峙する前田方の城であったと推測されている。利家が成政の攻撃に備えるため、家臣の村井長頼に築城させたと言うのが一般的であるが、築城中に佐々勢の攻撃を受けて一時占拠されたとも、或いは佐々勢が築城したものを村井勢が奪って改修したとも伝えられ、築城の経緯には不明点が多い。

 朝日山城は、標高190mの丘陵上に築かれている。西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を一直線に連ねた連郭式の縄張りで、主郭と二ノ郭の間は堀切で分断し、周囲には腰曲輪を一段廻らしているだけの簡素な縄張りである。昭和50年代から、城の周囲では採土が進められ、現在でも城の間近まで荒涼とした景色が広がってしまっている。採土は主郭のすぐ西側まで迫っていたものを、金沢市教育委員会の行政指導によって危うく破壊を免れたと言うが、見る限りでは主郭・二ノ郭の南面も削られて、地山の断面が見えている。一応、主要な遺構は残っており、主郭~二ノ郭間の堀切や、北側の腰曲輪ははっきりと残っている。しかし主郭も二ノ郭も耕作放棄地らしく、低い薮で覆われていて酷い有様だが、幸い見通しが効くので、一応の遺構の確認は可能である。『日本城郭大系』の縄張図を見ると二ノ郭と三ノ郭の間にも堀切がある様だが、現在は切岸だけで区画され、堀切は確認できなかった。これは、三ノ郭上面が削られた可能性もあるだろう。遺構が残っているとは言え、とにかく無残な姿を晒しており、残念と言う他はない。
主郭北側の腰曲輪→IMG_5340.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.628478/136.763091/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


織豊系城郭とは何か: その成果と課題

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