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館開城(石川県志賀町) [古城めぐり(石川)]

IMG_6301.JPG←西斜面の竪堀群
 館開城は、徳田城とも言い、この地の土豪得田氏の詰城である。得田氏は、鎌倉時代には幕府の御家人で、得田館に居住していた。以後、戦国時代まで続いた武家で、室町時代に畠山氏が能登守護となると、その家臣となった。館開城の城主は得田佐渡守であったとも伝えられる。1576~77年にかけての上杉謙信の能登侵攻の際、得田秀章・章種父子は鹿島郡荒山で討死したと言う。

 館開城は、比高わずか30m程の城山に築かれている。城山の南に西から入り込んだ谷戸があるが、ここに小道があり、城の南の尾根まで通じている。この谷戸はおそらく大手で、内部にある平場には小屋などが建っていたと思われる。城は、頂部に南北2郭を堀切を介して並べており、南が主郭、北がニノ郭となっている。主郭の南辺に土塁が築かれ、南東に虎口が築かれている。主郭と二ノ郭の間には幅広の土橋が架けられている。二ノ郭の北側下方には堀切を介して三ノ郭が置かれている。また主郭の周囲にも堀切を介して西郭・南郭・東郭が置かれている。便宜上「郭」と呼称したが、これらの出曲輪はしっかりした削平はされておらず、堀切前面の櫓台的な作りである。主郭の南側から西側、更に二ノ郭の西側までにかけては腰曲輪が築かれ、主郭の南西斜面と西斜面に何本かの竪堀群が落ちている。ネット上ではこれを「畝状竪堀」と呼んでいるものもあるが、「畝状」と言うほどの本数はなく、二重竪堀・三重竪堀程度である。しかもこれらの竪堀は幅広で、箱堀状になっているのが特徴的である。またこの城で出色なのは、南尾根から主郭虎口まで至る動線構造である。南尾根の側方に築かれた腰曲輪を経由して主郭南の堀切に至り、ここにT字に交差している主郭南東の堀切が堀底道を兼ねていてそこを登り、ようやく左手に主郭虎口が現れる。この間、城道は常に左手にそびえる主郭塁線上からの攻撃を受け、また反対の右手側にも出曲輪の櫓台がそびえ、そこからの攻撃にも晒されるという巧妙な枡形虎口となっている。この他、南尾根に小堀切が穿たれて城域が終わっている。館開城は大きな城ではないが、竪堀群と堀底道への攻撃構造が巧妙で面白い。
西郭~主郭間の円弧状堀切→IMG_6285.JPG
IMG_6327.JPG←二ノ郭から見た堀切と主郭

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.048961/136.827571/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世城郭の縄張と空間: 土の城が語るもの (城を極める)

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