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夕日楯(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2442.JPG←堀切状の虎口
 夕日楯(夕日館)は、小野田城とも言い、南北朝期の1346年に旭(朝日)楯主7代内海重朝の弟石川七郎重仲が分封されて築いたと伝えられる。その後石川氏は大崎氏の家臣となり、大崎家臣団の一員として戦場で名を馳せたが、1590年の葛西大崎一揆の際に夕日楯主石川長門隆重は四竈城主四竈尾張守隆秀と共にいち早く伊達氏の軍門に降り、その先鋒となって宮崎城攻撃に加わったと言う。江戸時代になると石川氏は帰農した様である。

 夕日楯は、鳴瀬川南岸の標高130m、比高70mの山上に築かれている。北麓の車道脇に城址標柱があり、西の谷戸に奥に伸びる小道があり、その奥から北西の腰曲輪群に登る道が付いている。おそらくこれが大手道だったのだろう(この道があるのは降りてきた時にわかったが、登る時はわからなかったので北東の斜面を直登して訪城した)。夕日楯は中心に主郭を置き、外周に二ノ郭を環郭式に廻らし、更に山頂から五方向に伸びる尾根地形を利用して腰曲輪群を配置している。この城の特徴は星型をした主郭であり、五方向に塁線を突出させて横矢を掛けている。星型主郭の例としては栃木の金丸氏要害があるが、それと比べると夕日楯の主郭は小さく、大した居住性を有していない。夕日楯の主郭で南東に突き出た部分は、二ノ郭から登る坂土橋を兼ねている。また夕日楯では、主郭だけでなく二ノ郭も星形となっている。腰曲輪群は外周の斜面全周に築かれているが、北東・北西・西の斜面で多く築かれ、特に北西と西は段数が多い。しかも腰曲輪端には坂土橋や土塁が多く散在しており、堀切のような虎口も設けられている。この堀切状虎口の脇には物見台が備わっており、同じ形状の虎口が数ヶ所構築されている。特に二ノ郭北東部には虎口の脇に大型の櫓台と土塁が備わっている。また北西腰曲輪群の北西端、西腰曲輪群の北西端・南西端の3ヶ所に堀切が穿たれ、その前面に物見台を設けている。主郭の南端にも、堀切と物見台土塁が築かれている。この他、南尾根の腰曲輪の先には、東斜面に4本の畝状竪堀が、また西斜面には二重竪堀が穿たれている。宮城の城で畝状竪堀は希少である。但し、南尾根には林道(現在は薮)があるので、元々多重堀切があったものが、林道開削で尾根上の堀切が堙滅し、側方の竪堀だけが残った可能性もある。
 いずれにしても夕日楯は、宮城県内でも有数の巧妙な縄張りを有しており、一見の価値がある。写真ではその魅力が十分伝わらないのが残念である。
星型主郭の塁線→DSCN2563.JPG
DSCN2530.JPG←主郭南端の堀切と物見台
北西斜面の腰曲輪群→DSCN2668.JPG
DSCN2390.JPG←北西端の堀切と物見台
南尾根の畝状竪堀→DSCN2473.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.566849/140.776727/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。


パーツから考える戦国期城郭論

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