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葛岡城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

DSCN2987.JPG←主郭外周の横堀
 葛岡城は、大崎氏の支城である。伝承では、元々は鎌倉初期に坂東武士の鑑と讃えられた名将畠山重忠が、1189年の奥州合戦の戦功により源頼朝から葛岡郡を所領として賜り、城を築いて弟の重宗を代官として派遣したと言われる。その後、1205年に北条時政の謀略により二俣川で畠山氏が滅ぼされると、葛岡城は一旦廃城となった。時代は下って室町末期には、大崎氏の家臣葛岡太郎左衛門(『日本城郭大系』では葛岡監物としている)が城を築き直して城主となった。1588年に伊達政宗が大崎氏家中の内紛に軍事介入した大崎合戦では、伊達勢に中新田城が攻撃された際に、葛岡監物・同太郎左衛門が300余騎にて中新田城に籠城したと言う。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置で大崎氏が改易となると、葛岡氏も没落し、再び廃城となった。

 葛岡城は、梅林寺背後の比高50m程の丘陵上に築かれている。寺の脇から登道があり、城内は薮払いされて整備されている。一部が墓地となっているので、やや改変を受けているものの、遺構は概ねよく残っている。城は山稜の主尾根から南に張り出した支尾根に築かれており、南北2郭で構成されている。北が主郭、南が二ノ郭で、2郭の間は堀切で分断され、更に二ノ郭外周と主郭の北西から背後の北東面にかけて横堀が穿たれている。この横堀は主郭背後を分断する堀切を兼ねている。2郭の間の堀切は城道を兼ね、虎口を形成していたとも考えられるが、改変があるので詳細はわからない。また主郭も二ノ郭も後部に土塁を築いている。二ノ郭は小さい長円形の曲輪で、いかにも物見台的な位置付けである。主郭は、内部が南北2段に区画され、北の段はきれいに削平されているが、南の段は緩やかに傾斜している。この他、二ノ郭の西側には腰曲輪状の段がいくつも見られるが、墓地となっているので、どこまでが往時の遺構であるか、判別し難い。遺構としては以上で、簡素な構造の小規模な城砦である。
堀切と二ノ郭土塁→DSCN2948.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/38.692134/140.904958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


続・東北の名城を歩く 南東北編: 宮城・福島・山形

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