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久能山城(静岡県静岡市駿河区) [古城めぐり(静岡)]

DSC00603.JPG←家康廟背後に見える愛宕曲輪
 久能山城は、駿河を制圧した甲斐武田氏が築いた城である。岩殿城岩櫃城と並ぶ武田三堅城の一とも言われる。元々久能山には久能寺があり、南北朝期に在地領主の入江駿河守が久能寺を寺院城郭として城塞化し、安倍城の狩野氏と結んで北朝方の駿河守護今川氏に対し、南朝方として激しく抵抗した。戦国時代後期の1568年、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻すると、小田原の北条氏康は今川氏救援のため、大軍を薩埵山まで派兵し、武田軍と対峙させた。『甲陽軍鑑』によれば、今川氏旧臣の庵原弥兵衛の進言により、信玄は久能寺を清水北矢部に移して久能山城を築城し、北条氏の伊豆水軍に備えさせたと言う。武田氏は、3ヶ月に渡る北条勢との対陣の末、甲斐へ敗走したが、その際、板垣信頼、今福浄閑斎・丹波守父子を久能山城の守備に残した。1569年、武田氏が3度目の侵攻で駿河を併呑すると、今福氏が久能山城主となった。以後、久能山城は、新たに編成された武田水軍の根拠地袋城持舟城を両翼として、駿河湾の制海権確保の要となった。今福丹波守は、1573年に遠州諏訪原城城番を命ぜられたが、1575年に徳川氏が諏訪原城を落城させると、再び久能山城に入り、1581年に父浄閑斎が死去すると、跡を継いで久能山城主となった。この頃には徳川氏の軍勢は遠江を制圧し、更に駿河の武田領国を侵食した。1582年、江尻城主穴山梅雪が徳川氏に降伏して江尻城を明け渡すと、丹波守も久能山城を開城して甲州に退去した。以後は徳川氏の持ち城となり、松平勝俊が在番した。1590年の小田原の役の後、徳川氏が関東に移封になると、新たに駿府城主となった中村一氏の管理下に入り、松下吉綱が在番した。関ヶ原合戦後の1606年、榊原清政・照久父子を久能山城に入れたが、1616年に家康が没すると、その遺言により久能山城を廃城にして家康を葬り、東照宮が造営された。

 久能山城は、駿河湾に面した標高216mの久能山の山頂から南斜面にかけて築かれた山城である。周囲を断崖で囲まれた屈指の要害で、山頂の愛宕曲輪の南に展開する広い緩斜面に城を築いていた。現在城域は、前述の通り久能山東照宮の境内となっており、ほとんど神域で遺構を見て回ることはできない。見て回れる範囲で確認できる城の遺構は、大手枡形虎口と勘助井戸の残る大手曲輪ぐらいで、山頂の愛宕曲輪やその南側の段曲輪群、また東の物見台などはわずかに遠目にその姿を見ることぐらいしかできない。しかし、城跡以上に素晴らしいのは東照宮の建築物で、ふんだんに漆と金を使った装飾は華麗なことこの上ない。やはり久能山は、城跡として行くより東照宮を見に行った方が感嘆する。
奥に見える東の物見台→DSC00533.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆ (これは城としての評価)
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/34.964889/138.467420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(4)  コメント(2) 

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コメント 2

ノリパ

お城じゃないんですね。そう思って見にいきますっ!
by ノリパ (2013-05-19 22:03) 

アテンザ23Z

>ノリパさん
特別な許可をもらわない限り、
城としては遺構を見て回ることはできないですね。
東照宮が素晴らしいので、
全く後悔することはありませんが。

というより、東照宮を見に行く方が「正」です(笑)
by アテンザ23Z (2013-05-20 09:39) 

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