石並城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]
←曲輪の切岸か?
石並城は、益子城の出城である。宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の重臣佐藤氏の居城とされる。佐藤氏は、源義経の家臣として有名な佐藤継信の裔を称していたらしい。鎌倉後期の1304年に佐藤備中守が築城したと言う。1589年に益子氏が滅亡すると、廃城となった。
石並城は、小貝川東岸の沖積地を望む台地先端部に築かれている。この台地を含んだ丘陵の北東端には益子城があり、益子城の後背部を防衛する出城であったことが容易に想像できる位置にある。昭和20年代の航空写真を見ると、台地上に方形の曲輪らしい区画が見られ、これが城跡であったと思われる。しかし現在は、採土や宅地造成で破壊され、遺構はほぼ湮滅している。わずかに民家の敷地が周囲より高くなっており、曲輪の切岸らしい跡が見られるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.456636/140.089127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
石並城は、益子城の出城である。宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団、紀清両党の一翼を担った益子氏の重臣佐藤氏の居城とされる。佐藤氏は、源義経の家臣として有名な佐藤継信の裔を称していたらしい。鎌倉後期の1304年に佐藤備中守が築城したと言う。1589年に益子氏が滅亡すると、廃城となった。
石並城は、小貝川東岸の沖積地を望む台地先端部に築かれている。この台地を含んだ丘陵の北東端には益子城があり、益子城の後背部を防衛する出城であったことが容易に想像できる位置にある。昭和20年代の航空写真を見ると、台地上に方形の曲輪らしい区画が見られ、これが城跡であったと思われる。しかし現在は、採土や宅地造成で破壊され、遺構はほぼ湮滅している。わずかに民家の敷地が周囲より高くなっており、曲輪の切岸らしい跡が見られるだけである。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.456636/140.089127/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1