SSブログ

桐生陣屋(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0045.JPG←陣屋跡地付近の現況
 桐生陣屋は、江戸初期に徳川幕府が設置した陣屋である。大久保石見守長安とその手代・大野八右衛門によって御陣屋敷が造られた。1779年に出羽松山藩主酒井石見守忠休に桐生5000石が加増され、1785年に御陣屋敷が新築された。以後幕末まで松山藩の上州分領であったが、明治維新後に陣屋は取り壊された。

 桐生陣屋は、現在の寂光院の辺りに築かれていたと言う。街道に面した傾斜地にあり、20m程の高台にある。明確な遺構はなく、保育園脇の神社のそばに「桐生陣屋空堀跡」の看板が立ち、また保育園の建物裏に、戦国時代に桐生氏の抜け道であったと言われる横穴が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.420471/139.340823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

小藩大名の家臣団と陣屋町 4 東北・北関東地方

  • 作者: 米田 藤博
  • 出版社/メーカー: 株式会社クレス出版
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

下田島城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN0021.JPG←南西部の櫓台跡
 下田島城は、現地解説板には岩松城と記載され、江戸時代前期の1663年に岩松秀純が構えた陣屋である。はっきりしないが、元々戦国時代に下田島城が前身として存在していたらしい。秀純の祖父守純は、重臣由良氏(横瀬氏)の下剋上によって没落していたが、1590年に徳川家康が関東に入部すると、家康に召し出された。岩松氏は新田一族の出自で、南北朝時代に新田宗家が南朝方に付いて衰亡した後、新田荘を掌握した岩松氏がその名跡を継承し、実質的に新田氏の嫡流となっていた。家康は、自身が新田氏の一族世良田徳川氏の後裔を称したことから、本家筋の守純に新田氏の系図を譲るよう要求したが、守純はこれを拒絶した。そのため家康の不興を買い、新田郡市野井でわずか20石の捨扶持を給されたのみであった。その後、豊純・秀純と続き、1663年に4代将軍家綱から100石を加増され、下田島城に陣屋を移した。明治に入ると新田姓を名乗り、男爵の地位が与えられた。

 下田島城は、現在太田フレックス高校(旧尾島女子高校)の校地に変貌している。『日本城郭大系』ではほぼ完全に遺構が残っていると記されているが、国土地理院の空中写真閲覧サービスで過去の航空写真を見ると、昭和40年代前半には校地拡張で破壊されている。現在はわずかに南西部の土塁と櫓台が残っている。『大系』の縄張図を見ると、北西に張出しの櫓台を持ち、北東に鬼門除けの角欠けを設け、全周を土塁で囲んだ単郭の城だった様だ。学校の校地拡張で遺構を破壊したことは、誠に残念でならない。解説板も消えかかっているのが悲しい。尚、学校の敷地内なので、見学に当たっては許可が必要である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.265262/139.315073/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:陣屋
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

新田の庄 その3(群馬県太田市・伊勢崎市) [古城めぐり(群馬)]

 新田一族が蟠踞した新田の庄。太田市周辺は、知る人ぞ知る新田源氏一族の史跡の宝庫である。以前に2度にわたって各所に散在している史跡を訪問しているが、今回はその補遺。

<田中館>
DSCN9990.JPG←北側に残る土塁跡らしい土盛り
 田中館は、新田氏の一族田中五郎義清の居館である。義清は、新田義重の子里見義俊の5男で、田中村に分封されて田中氏を称した。承久の乱の後、大島・大井田・鳥山などの新田一族が越後に移住して越後新田党を形成すると、田中氏も越後に移り、越後新田党の一員となった。南北朝の動乱では、新田義貞の挙兵に従った一族の中にも「越後国の一族、里見・鳥山・田中・大井田・羽川の人々」と『太平記』(第10巻)にあり、田中修理亮氏政は湊川合戦や武蔵野合戦など各地に転戦した。
 田中館は、現在長慶寺の境内となっている。元は放(宝)光寺と言ったらしいが、南朝第3代長慶天皇を新田一族が奉じて戦ったことから、長慶天皇の伝承の御陵塚を祀り、長慶寺と名を改めたと言う。遺構としては、境内北側に土塁跡らしい土盛りが残るだけである。尚、境内には長慶天皇と田中義清の宝篋印塔が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.299424/139.277576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<上田中屋敷>
周囲の水堀→DSCN9998.JPG
 上田中屋敷は、上田中馬場館とも言い、新田氏の庶流田中氏の一族と思われる岩崎氏の居館である。現在は民家の敷地となっているが、四周を囲む水堀がしっかりと残っている。この水堀は、国土地理院の1/25000地形図でもしっかりと描かれている。これほどしっかりと全周の水堀が残っている民家は珍しく、貴重である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305598/139.269959/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<西今井館>
DSCN0007.JPG←館跡の民家
 西今井館は、鎌倉時代に新田氏の一族今井氏の居館で、後の戦国時代には茂木氏の居館であったと伝えられる。茂木氏は桐生から移り住んだと言われ、当時境城主であった小此木氏と結縁があったと言う。
 西今井館は、西今井中世居館跡という史跡名で市の史跡に指定されている。現在は民家になっており、南と東に堀跡の水路が流れているようだが、夏場だと草むらに隠れてしまっていて、一部しかよくわからなかった。ちょっと残念な状況である。尚、堀は早川の水を貯水し、堰は水量調節の役目を果たすなど用水管理の一面を持っていたとされる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.285865/139.264723/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<安養寺館>
館跡の明王院→DSCN0110.JPG
 安養寺館は、新田義貞の館であったと推測されている。峰岸純夫著『新田義貞』によれば、義貞の法号は「安養寺殿」で、安養寺は義貞の菩提寺でもあった。また南の「寺屋敷」の部分から南北朝期の板碑・陶磁器類が多数出土し、明王院南西隅の一角で大規模な堀の一部が確認されたと言う。
 安養寺館は、現在は安養寺明王院の境内となっている。遺構は全く無い。ただ、義貞の弟で義貞死後も南朝方として各地を転戦し、最後は伊予で病没した脇屋義助を供養する板碑が、境内裏手に残っている。尚、明王院は、新田触れ不動尊としても知られる。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.258912/139.303240/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


<一井兵部屋敷>
DSCN0006.JPG←北側の堀跡
 一井兵部屋敷は、新田氏の一族一井兵部大輔貞政の屋敷である。一般には「蛇屋敷」とよばれるが、兵部屋敷の転訛である。貞政は、新田政義の3男堀口家定の2男で、一井(現・市野井)に分封されて一井氏を称した。貞政は、新田義貞に従って各地を転戦し、1337年に越前金ヶ崎城で厳しい籠城戦の末、新田義顕(義貞の嫡男)・尊良親王(後醍醐天皇の第1皇子)と共に戦死した。しかしその後も越前で戦った一井兵部少輔氏政が知られ、氏政は畑時能と共に鷹巣城に立て籠もり、城を包囲した斯波高経率いる幕府軍に徹底抗戦した。
 一井兵部屋敷は、現在工場と民家の敷地となっている。工場の北側に唯一の現存遺構である湧水の堀が残り、「新田の湧水 一の字池」という解説板が立っている。その中に、一井貞政の事も書かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.313880/139.308304/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

※過去の新田の庄の記事は、こちらこちら


新田義貞 (人物叢書)

新田義貞 (人物叢書)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2005/05/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

廣瀬屋敷(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9888.JPG←西側の水堀跡
 廣瀬屋敷は、群馬県遺跡地図では本郷A館と記載され、市野井・本郷遺跡(市野井城館群)の一つである。現地解説板によれば、廣瀬氏の環濠屋敷で、廣瀬氏は15世紀の末に近江国廣瀬村から金山城主岩松氏の家臣としてこの地に来住したと言う。

 廣瀬屋敷は、新田義貞挙兵の地として有名な生品神社の南方約700mの位置にあり、現在も廣瀬家の宅地となっている。北西から南西にかけての西面に水堀が残る他、東側にも堀跡が水路となって残っている。北側に湧水地があるらしく、ここからの湧き水が堀跡に流れ込んでいる様である。廣瀬屋敷に限らず、新田荘は大間々扇状地の扇端部を中心とすることから、豊富な湧水地に恵まれており、それを堀に引き込んで屋敷の防備を固めていたのだろう。宅地内は、周囲より一段高くなっており、西側には林の中に土塁らしい跡も残る。西側の堀の前に、湧水に関する解説板が立っており、その中に廣瀬屋敷の歴史が簡単に書かれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.310975/139.307338/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田義貞:関東を落すことは子細なし (ミネルヴァ日本評伝選)

新田義貞:関東を落すことは子細なし (ミネルヴァ日本評伝選)

  • 作者: 山本隆志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2005/10/10
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

小金井館(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9878.JPG←西側の水堀と土塁
 小金井館は、村田本郷館とも言い、岩松氏の一族で金山城主岩松昌純の家臣であった小金井繁光の居館と伝えられる。
 小金井館は、生品幼稚園の東方200m程の位置に築かれている。現在は民家の敷地になっているが、周囲に土塁が築かれ、西面から北面にかけては水堀も明確に残っている。市の史跡にも指定されていないが、貴重な遺構であるので、行政による保存の措置が望まれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.315730/139.319633/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

新田岩松氏 (中世武士選書 第 7巻)

  • 作者: 峰岸 純夫
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2011/09/08
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

彦部家屋敷(群馬県桐生市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9822.JPG←搦手の枡形虎口
 彦部家屋敷は、足利氏の譜代家臣高氏の庶流彦部氏の屋敷である。高氏は高階氏の出自で、古くは平安時代から源氏との関係を有し、鎌倉時代には代々足利氏の執事となって家政全般を取り仕切っていた。高氏で最も有名なのは足利尊氏の執事であった高師直で、その事績は師直塚の項に記載する。彦部氏の初代は光朝で、鎌倉時代に足利氏の一族斯波氏に仕えて陸奥国斯波郡彦部郷に入部し、彦部氏を称した。その後彦部氏は、南北朝の動乱の中で足利一門に従う高一族の一として活躍し、太平記にもしばしばその名が現れている。その後、多くの足利一門と同様、彦部氏も京都の室町将軍に仕える系統と、鎌倉府に仕える系統に分かれたらしく、彦部家屋敷の彦部氏は室町将軍に仕えた系統であったらしい。戦国後期の1560年、関白近衛前嗣が上杉謙信の招請に応じて関東に下向した際、彦部信勝は前嗣に供奉して桐生城を来訪した。前嗣はその後、越後を経由して京都に帰還したが、信勝は一族を頼って桐生広沢郷に留まり、金山城主由良成繁の庇護を受けて、1562年にこの屋敷を築いたと言われる。背後の山上には手臼山砦が築かれた。信勝は将軍家側近の格式であったことから、由良氏とは政治的に一線を画しており、豊臣秀吉の命で由良氏が常陸牛久城に移封となった後も、所領を安堵されてこの地に留まった。以後、この地で帰農し、現在に至るまでその系譜は連綿と続いている。

 彦部家屋敷は、現在は国の重要文化財「彦部家住宅」の敷地となっている。南西側以外の三方に土塁を廻らし、北西側には堀跡も明瞭に残っている。北東には櫓台を築き、その西脇に搦手の枡形虎口が残っている。屋敷地内には、主屋の他に長屋門・冬住み・文庫倉・穀倉が残っている。近代には桐生の織物業界で指導的立場だったとのことで、織物工場や寄宿舎も残っている。寄宿舎は重文の指定外のため、保存に頭を痛めているとのことである。また敷地奥の八幡神社は、源義国が石清水八幡宮(源氏の氏神)から勧進したと伝えられている。彦部家屋敷は、戦国時代の武家屋敷の面影を色濃く残す、貴重な史跡である。
北東側の櫓台と土塁→DSCN9873.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.373543/139.348258/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


高 師直 -室町新秩序の創造者- (歴史文化ライブラリー)

高 師直 -室町新秩序の創造者- (歴史文化ライブラリー)

  • 作者: 亀田俊和
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2019/05/17
  • メディア: Kindle版


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

本矢場城(群馬県太田市) [古城めぐり(群馬)]

DSCN9725.JPG←神社周囲の土盛り
 本矢場城は、上野の豪族由良氏の庶流矢場氏の城である。由良氏は元は横瀬氏と言い、足利氏・新田氏両方の流れを汲む金山城主岩松氏の重臣であったが、下克上で主家を追い落とし、自身が国主となって由良氏に改称した。永正年間(1504~21年)に横瀬国繁の弟国隆が、矢場郷に入部して矢場氏を称し、矢場城を居城とした。国隆の子植繁が、本矢場城に在城したとされる。その他の詳細は不明である。

 本矢場城は、現在は住吉神社の境内となっている。平地に築かれた平城で、神社境内の周囲には土塁らしい土盛りが見られる。但しこの土盛りは、神社建立の際の構築とも考えられ、城郭遺構かどうかは全く確証が持てない状況である。周りは住宅地で囲まれ、往時の雰囲気も失われてしまっている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.305338/139.418339/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

上野岩松氏 (シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)

  • 作者: 黒田基樹
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2015/05/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

川田館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9050.JPG←館跡の石碑
 川田館は、下野の名族那須氏の一族河田氏の居館である。那須頼資の6男資成が建仁~承応(1201~10年)頃に河田に分知されて、河田太郎を名乗り、河田氏の祖となった。南北朝時代には、那須資藤に従って1355年の東寺合戦に出陣した。1520年の縄釣台合戦や、天正年間(1573~92年)の合戦にも那須氏の家臣として出陣したと言う。

 川田館は、現在は一面の水田となっており、遺構は完全に湮滅している。わずかに車道脇に館跡の石碑が立っているだけである。南方には、高館城がよく見える。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.916480/140.130090/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

稲沢氏館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9036.JPG←国道脇に残る土塁
 稲沢氏館は、伊王野氏の一族稲沢氏の居館である。鎌倉時代前期に、伊王野次郎資長の弟五郎資家がこの地に分知されて稲沢氏を称し、この館を築いたと考えられている。以降、江戸初期まで那須氏の羽翼として多くの戦いで活躍したが、子孫は黒羽城主大関氏に仕えて黒羽城下に移住して、この地には稲沢氏支家が残った。

 稲沢氏館は、黒川西岸の平地に築かれている。西側には堀を兼ねていた小川(現在は水路)が流れている。国道294号線沿いにあり、国道脇に土塁が残っている。館跡は民家になっているので、立入りはできないが、外周の土塁は見ることができる。残っているのは全周ではなく、東辺の半分ほどと北辺だけの様である。また郭内は、北側1/3を区画するように東西に土塁が築かれ、南北2郭に分かれていた様である。車道脇の土塁には、「稲沢氏居館跡」の石碑が立っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.927270/140.131516/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鮎瀬氏館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9029.JPG←館跡の現況
 鮎瀬氏館は、長者平館とも言い、伊王野氏の重臣鮎瀬氏の居館である。鮎瀬氏は、下野の名族小山氏の庶流長沼氏の系統で、1395年に皆川義宗なる者が那須家を頼って都賀郡皆川館より鮎瀬村(大田原市寒井字鮎瀬)に移り、鮎瀬氏と称したと伝えられている。移住の経緯は不明だが、一族の内訌によりこの地に逃れたものであろうか。その後、次代の義顕が伊王野氏の家臣となり、伊王野に移り住んだと言い、この居館を構築したと考えられている。鮎瀬氏は、永正年間(1504~21年)頃から簗瀬氏・沼井氏らと共に諸記に登場するようになり、特に五月女坂合戦で宇都宮尚綱を討ち取った鮎瀬弥五郎はよく知られている。江戸初期に、伊王野城の大手口に移住したと言う。

 鮎瀬氏館は、黒川と三蔵川の合流点北側の段丘上に築かれている。地勢はよく残っているが、館跡は一面の畑となり、明確な遺構に乏しい。縁に土塁らしいものは見られるが、あまりはっきりしない。昭和20年代前半の航空写真を見ると、台地基部の北西から北面にかけて土塁と空堀があったようだが、現在は湮滅している。館跡には標柱もなく、残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.951521/140.146805/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2020/11/07
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

伊王野館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN9002.JPG←堀跡の根岸川と土塁跡
 伊王野館は、那須七騎の一、伊王野氏の居館である。伊王野氏は、那須頼資の次男資長が、1239年に伊王野に分知されたことに始まる。当初は平地に伊王野館を構え、那須氏の一族として重きを成し、那須宗家が上那須・下那須に分裂すると、上那須氏の重臣として活躍した。1487年頃に背後の山上に伊王野城を築いて移ったと言う。時代は下って江戸時代になると、1627~33年の6年間は、伊王野氏は山城から降りて再び伊王野館に居住したが、1633年に伊王野氏は無嗣断絶となった。

 伊王野館は、現在は伊王野小学校の敷地となっている。往時の主要街道であった東山道沿いという交通の要衝に位置している。土塁と水堀を廻らした単郭方形居館で、現在は北から西、及び南辺の西半分の土塁が残っている。北側の堀は、根岸川をそのまま堀として利用しており、現在もその姿を残している。伊王野城と共に、伊王野氏の往時の勢威が偲ばれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.958757/140.160109/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


日本の大名・旗本のしびれる逸話―名将・知将の頭脳とハート―

日本の大名・旗本のしびれる逸話―名将・知将の頭脳とハート―

  • 出版社/メーカー: 東邦出版
  • 発売日: 2019/03/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

備中郭館(栃木県那須町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8974.JPG←南側の土塁
 備中郭館は、伊王野氏の重臣薄葉氏の居館である。戦国末期~織豊期にかけての館主として、薄葉備中守の名が知られる。薄葉備中は、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた、伊王野資信が上杉景勝軍を撃退した関山合戦において、奮戦したことが伝えられている。館は、1634年の伊王野氏改易の頃まで使用されたと言う。

 備中郭館は、伊王野市街地を挟んで伊王野館伊王野城と相対する位置に築かれている。三蔵川南岸の比高10m程の河岸段丘の北縁部に当たる。概ね扇形をした居館で、現在は民家の敷地となっているが、南から西側にかけて大きな土塁が残っている。また北西部には堀跡も確認できる。あまり期待していなかったが、思った以上に遺構がよく残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.954642/140.163317/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大久保館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8945.JPG←北西に残る土塁
 大久保館は、この地の土豪大久保氏の居館である。大久保氏の事績については不明であるが、館の南東の山上に羽黒山要害があり、これも大久保氏関係の要害と考えられている。
 大久保館は、前松葉川沿いの平地に築かれている。現在は民家や水田に変貌しているが、北西部に土塁が残っている。また西側にも堀跡っぽい水路と低土塁が見られ、これも遺構ではないかと思われるが、その脇を通る車道の方が郭内より高い位置にあるのが、ちょっと気になる。近代の改変もあると思われるので、どこまでが遺構かはっきりしないところもある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.911041/140.164497/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

築地館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8908.JPG←唯一残る土塁
 築地館は、大館とも呼ばれ、伝承では平安時代末期に那須氏の祖須藤権守貞信がここに館を築き始めたが、途中で神田城に移ったと言われる。また一説には、那須与一の父資隆が居館を築いて移住した所ともされる。

 築地館は、那珂川西岸の平地に築かれている。館跡は現在、民家・工場・水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。館の構造には不明点が多いようだが、東西2郭で構成されていたらしい。昭和20年代前半の航空写真を見ると、既に東郭は一部しか輪郭が明瞭ではなく、明確なのは西郭だけである。その西郭も現在はかなり失われており、わずかに北西部の土塁だけが残っている。また東側の水田に段差があり、堀跡であった名残をわずかに残している。ただ、唯一残る土塁も草木が伐採されて今にも破壊されそうな感じである。何とか、遺構を後世に残していってほしいものである

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.872806/140.108610/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


那須与一伝承の誕生―歴史と伝説をめぐる相剋

那須与一伝承の誕生―歴史と伝説をめぐる相剋

  • 作者: 山本 隆志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

奥沢館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8885.JPG←西側の残存土塁
 奥沢館は、那須氏の重臣角田氏(後に奥沢氏を称す)が天正年間(1573~92年)に築いた居館である。角田氏は、三浦氏の後裔を称し、元々は八幡館を本拠としていた。後に大関氏に従い、天正年間(1573~92年)に大関氏が八幡館に入って黒羽城を築くと、角田氏は奥沢館を築いてここに移り、奥沢氏を称したと言う。その後裔は江戸前期の寛永の頃に野上に移り、館は廃された。

 奥沢館は、那珂川西岸の段丘上に築かれている。やや西に傾いた平行四辺形の単郭居館で、館跡の中心付近を十字に道路が貫通し、郭内は一部が民家、大半が水田に変貌しており、遺構の湮滅が進んでいる。しかし交差点北西の民家の裏(西側)に土塁が残り、また南の薮の中にも土塁が残っている。西の堀跡には水路が流れ、南西角部の土塁もわずかな土盛りとなって残っている。
南側に残る土塁→DSCN8891.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.879535/140.113009/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


タグ:居館
nice!(5)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

構え場館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8873.JPG←堀跡の道路
 構え場館は、天正年間(1573~92年)初期に伊王野城主伊王野資宗が大関氏との抗争に際して構えた出城と伝えられている。1585~6年頃に廃城となったと言う。
 構え場館は、松葉川と野上川に挟まれた比高15m程の河岸段丘の先端部に築かれている。ツノの様に突き出た台地の基部(東側)を土塁と空堀で分断し、先端部にいくつかの暖曲輪群を築いただけの簡素な城砦である。しかし東側の土塁と空堀は、耕地化で湮滅している。昭和30年代の航空写真ではくの字型に折れた空堀ラインがはっきりと確認でき、現在車道が通っているのが空堀ラインの一部であることがわかる。この他、氾濫原に面した西端部には堀切状の地形が見られるが、ほとんど埋もれている。弾正館と同様に、かなり残念な状況である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.872772/140.132160/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本



nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

弾正館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8834.JPG←南側に残る谷地形の水路
 弾正館は、伝承では伊王野氏の一族伊王野弾正が戦国末期に築城した出城と言われる。大関氏との抗争では伊王野側の最前線の拠点となった。しかしこの地が大関氏の支配下に入ると、廃城となったと伝えられている。
 弾正館は、野上川南岸の比高10m程の段丘北西端部に築かれていた。しかし現在郭内は星が丘団地という住宅団地に変貌しており、明確な遺構は残っていない。唯一、南側に天然の堀として刻まれていた谷が、現在も水路となって残っているだけである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.869837/140.131903/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

関東の名城を歩く 北関東編: 茨城・栃木・群馬

  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

中根館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8778.JPG←北東部の土塁
 中根館は、歴史不詳の城館である。『那須拾遺記』には「中桝のタテ(楯・館)」と記載されていると言う。
 中根館は、水田の中に建つ民家の敷地となっている。水田よりわずかに高い微高地で、方形の敷地となっており、民家の北東部にわずかに土塁が残る。東側の塁線はほぼ往時の姿を残しているようで、北側には堀跡らしい水路が流れている。西側は埋め立てられて、敷地が拡張されているので、往時の形状は失われている。昭和20年代前半の航空写真を見ると、周囲には堀の形状を残した水田があったようだが、現在は耕地整理で堀の形状は失われている。これ以上の改変が進まないことを望むみたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.828661/140.118642/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


下野の中世を旅する

下野の中世を旅する

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2020/10/28
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鷹ノ巣城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8769.JPG←城址遠望
 鷹ノ巣城は、梅ヶ平館を本拠とした土豪大金備後守重宣の弟、大金豊後守の居城である。豊後守は、兄と共に佐竹氏に属していたが、論功行賞の不満から那須氏に属するようになった。那須資胤から湯津上と亀山の一部を与えられ、鷹ノ巣城を築いて居城としたと言う。しかし豊後守は、1566年に佐竹勢が宇都宮氏・上那須勢と共に那須氏を攻撃して敗北した治武内山合戦の際に、討死したと言う。

 鷹ノ巣城は、那珂川西岸の河岸段丘の辺縁部に築かれている。西側に浸食谷が入り込んだ半島状の台地で、地勢は往時のままだが、現在はゴルフ練習場に変貌している。その為内部散策もできず、遺構も湮滅しているが、ゴルフ練習場の名は「鷹ノ巣城ゴルフ」で、しっかりと城の名が残されている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.816105/140.124693/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

戦乱でみるとちぎの歴史:「とちぎ」の源流を探る

  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大関城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8726.JPG←外周の土塁
 大関城は、山田館・下山田城とも言い、那須氏の重臣大関氏の一時期の居城である。元々の創築は、鎌倉初期に那須資隆の8男片田(堅田)八郎義隆によると伝えられる。義隆は、大関城の北東に山田城(亀山城)を築いて詰城としていたと思われるが、後に片平城を築いて移り、片平氏を称した。時代は下って戦国初期の明応年間(1492~1501年)に、大関宗増は黒羽八幡館から大関城に居城を移した。その子増次の時に、先祖の増清が応永年間(1394~1428年)に築城した白旗城を修築して居城を移し、大関城は廃城となった。

 大関城は、那珂川東岸の河岸段丘の辺縁部に築かれている。西側を那珂川の侵食崖に接し、それ以外の三面に土塁と空堀を廻らした方形の平城である。郭内は田畑に変貌しているが、現在も外周を高さ数mの切岸で囲まれた城の形状をよく残しており、土塁も北から東・南東部にかけてよく残っている。周囲の水田も、堀跡であることが明瞭であるが、昭和30年代の航空写真と見比べると、堀跡の水田はかなり広げられているようなので、往時の規模でないことに注意が必要である。尚、航空写真で見ると、主郭の南にも堀跡の様な水田で囲まれた方形の区画が見られ、馬出しか、或いは重臣層の館跡である可能性もあるが、水田地帯に囲まれて近づくことができなかったので、確認できていない。これほど良好に残っているにも関わらず、市の史跡にも指定されておらず、従って解説板はおろか標柱すらないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.806313/140.133190/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


常野記 (水戸藩領武茂郷と下野国黒羽藩の幕末・維新)

常野記 (水戸藩領武茂郷と下野国黒羽藩の幕末・維新)

  • 作者: 大金義昭
  • 出版社/メーカー: 随想舎
  • 発売日: 2017/08/30
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

上ノ原館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8707.JPG←水田の段差、手前は堀跡か?
 上ノ原館は、城之内・ゆうげの城(「ゆうげ」は要害の転訛)とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。『日本城郭大系』によれば、120m四方の方形単郭居館であったらしく、水田の畔により堀跡がほぼ確認できるとある。しかし現在は耕地整理が進んでおり、その位置も明瞭ではない。わずかに水田の南側に段差があり、その南西部は低い水田となっていて堀跡っぽく見える。また北には土塁か塚らしい土盛りも見られる。但し、これらが遺構であるかどうかは全く確信が持てない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.768713/140.128663/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


タグ:居館
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

三輪館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8682-001.JPG←畑の中に残る土塁(写真奥)
 三輪館は、歴史不詳の城館である。那須氏の一族片平氏の構築と伝えられ、『日本城郭大系』では、片平氏が片平城を本拠とし、戸田城をその砦に、三輪館を居館として使用したとの説を提示している。尚、西には後城館が隣接している。

 三輪館は、権津川西岸の段丘上に築かれている。正確な場所はわかりにくいが、遺構概要が『栃木県の中世城館跡』『那須の戦国時代』よりやや詳しい『日本城郭大系』の記述からすると、河岸段丘の北東端部にあったらしい。昭和20年代の航空写真を見ると、『日本城郭大系』の記述通り北辺と東辺に土塁があり、東辺の土塁の中央部から西に向かって一直線に土塁が伸びている。現地を歩くと、宅地化・耕地化で遺構はかなり失われているが、民家の脇に塚状の土壇や、西に向かって伸びる土塁が畑の中に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.760513/140.114940/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

[増補版]とちぎの古城を歩く:兵どもの足跡を求めて

  • 作者: 塙 静夫
  • 出版社/メーカー: 下野新聞社
  • 発売日: 2015/02/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

後城館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8662.JPG←南側の水路
 後城館は、歴史不詳の城館である。初期の那須氏関係のものとも、或いは、三輪館の西側に隣接して所在したことから、三輪館に付属するものか、三輪館に関連したものとも推測されている。

 後城館は、権津川西岸の段丘上に築かれている。正確な場所はわかりにくいが、遺構概要が『栃木県の中世城館跡』『那須の戦国時代』よりやや詳しい『日本城郭大系』の記述からすると、三輪郷倉が建っている場所の北東辺りに所在していた様である。昭和20年代の航空写真を見ても既に館の形状を追えない程、宅地化・耕地化による破壊を受けている。南に水路が流れているが、水路を挟んでわずかな段差があるので堀跡の可能性もある。いずれにしても、現在では失われた城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.760152/140.113621/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

「城取り」の軍事学 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 西股 総生
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/09/22
  • メディア: 文庫


タグ:居館
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

浄法寺館(栃木県那珂川町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8652.JPG←南東に残る土塁
 浄法寺館は、この地の豪族浄法寺氏の居館である。浄法寺氏の出自の詳細は不明だが、下野の名族那須氏の一族とも言われる。後に大関氏に仕えた。館は文禄・慶長(1592~1615年)の頃に廃されたと言う。浄法寺氏は、江戸時代には黒羽藩の大名大関氏の城代家老となり、松尾芭蕉の門弟で『奥の細道』にも出てくる浄法寺図書高勝(俳号は桃雪)を輩出した。高勝は、元は鹿子畑高明(左内)の長男であったが、母の兄浄法寺高政の養子となって、浄法寺家の家督を継いだ。城代家老であった高勝の屋敷は、黒羽城三ノ丸にあった。実弟は、同じ俳人で芭蕉の門弟であった鹿子畑翠桃(すいとう)である。

 浄法寺館は、箒川南岸の段丘の北縁に築かれている。館跡は民家や牛舎となっているが、南東部にクランクした鉤型の土塁が残っている。また館跡入口には標柱が立っている。館の東側には民家が立ち並び、なめり川が刻んだ渓谷で東側の台地と隔絶しているが、一部に土塁らしいものが見られ、その位置関係から浄法寺氏の家臣団居住地ではなかったかと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.786415/140.109565/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


奥の細道 現代語訳・鑑賞(軽装版)

奥の細道 現代語訳・鑑賞(軽装版)

  • 作者: 山本 健吉
  • 出版社/メーカー: 飯塚書店
  • 発売日: 2018/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

片府田館(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8640.JPG←館跡付近の現況
 片府田館は、下野の名族那須氏の庶流福原氏の居館である。片府田は元は上福原と言われ、那須資隆の4男四郎久隆がこの地に分封され、福原氏を称し、片府田館を築いて居館とした。以後、福原氏歴代の本拠となり、福原氏は那須氏の有力な支族として宗家を支えた。戦国時代に大田原資清は、次男資孝を福原氏に入嗣させて福原氏を乗っ取った。1563年5月、福原資孝は兄弟の大関高増・大田原綱清と共に謀略をもって佐久山義隆を殺害し、佐久山氏を滅亡させて、その遺領は福原氏に併呑された。1590年、資孝の子資保は、大田原氏・大関氏等と共に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され、新たに佐久山四ツ谷に新館(佐久山古屋敷館)を築いて、片府田館から居城を移し、片府田館は廃館となった。福原氏は江戸時代に入っても交代寄合旗本として存続し、1702年に古の佐久山城二ノ郭に陣屋を築いて移り住み、幕末まで続いた。

 片府田館は、箒川と蛇尾川の合流点に程近い、倉骨丘陵の南麓に築かれていた。東西約140m、南北72mの長方形の居館で、昭和38年の航空写真では田畑の中に外周の堀の形状を残していた。しかし現在は耕地整理で遺構は完全に湮滅している。遺構は残っていないものの、一応市の史跡に指定されている。以前は西側を通る市道脇に館跡の表示があったようだが、現在はなくなっていた。解説板と合わせて、あらためて館跡表示を設置してほしいものである。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.819025/140.066350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


栃木県の歴史散歩

栃木県の歴史散歩

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

荻野目城(栃木県大田原市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8635.JPG←道路脇の城址碑
 荻野目城は、下野の名族那須氏の庶流荻野目氏の居城である。元中年間(1384~92年)頃に玄蕃信隆が、荻野目城を築いて荻野目氏を称した。那須資晴の家臣の中に荻野目玄蕃の名が伝わっている。荻野目氏の事績は不明であるが、1590年の那須氏改易と共に荻野目氏も没落したと推測されている。

 荻野目城は、不動川沿いの平地に築かれていた。現在は耕地整理で遺構は完全に湮滅している。わずかに車道脇の小屋裏の土盛りに、荻野目城址と刻まれた小さな石碑が立てられている。ガードレール脇に隠れるように立っているので、よく探さないと見つけられないほど小さい。石碑の立つ土盛りと脇の水路は、土塁と濠の名残であろうか?

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.840013/140.032661/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


那須与一伝承の誕生―歴史と伝説をめぐる相剋

那須与一伝承の誕生―歴史と伝説をめぐる相剋

  • 作者: 山本 隆志
  • 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

稗田城(栃木県矢板市) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8584.JPG←稗田九郎朝隆の墓
 稗田城は、豊田城とも言い、下野の名族那須氏の庶流稗田氏の居城である。那須資隆の9男九郎朝隆(那須与一の兄)が稗田に分封されて、稗田氏を称し、1183年に稗田城を築いたと言われる。沢村城と共に塩谷勢に対する備えの役割を果たしていた。

 稗田城は、江川流域の平地に築かれた水濠で囲まれた平城であった。しかし現在は江川の流路は河川改修で付け替えられ、周辺一帯は一面の水田に変貌しており、遺構は完全に湮滅している。昭和20年代前半の航空写真を見ても、すでに明確な館跡の痕跡は確認できないので、城の正確な位置も不明である。ただ、城跡と思われる付近の北にあるバス停は「上屋敷」と言うので、その近くであった可能性がある。
 尚、稗田九郎朝隆の墓が城跡の北西の水田の中にぽつんと残っている。また豊田公民館の裏には、稗田城跡にあった五輪塔や板碑群が移転されて残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:(推定地)https://maps.gsi.go.jp/#16/36.804217/139.983555/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

中世の下野那須氏 (岩田選書 地域の中世)

  • 作者: 義定, 那須
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2017/06/01
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大久保城(栃木県塩谷町) [古城めぐり(栃木)]

DSCN8569.JPG←城地推定地の北側を流れる松川
 大久保城は、宇都宮氏の家臣大久保氏の居城である。大久保氏は、宇都宮氏の戦いの中でしばしばその名が見えている。1351年に足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の一環で戦われ、直義党の桃井播磨守直常・上杉氏家臣の長尾新左衛門尉景泰の軍勢を宇都宮氏綱軍が撃破した上野国那波荘合戦の討死者の中に「大久保玄蕃藤原清秀」の名がある。1380年に小山義政の軍勢を迎え撃った裳原合戦では、宇都宮勢の中に「大久保蔵人」の名が見える。1585年に那須氏と激突した薄葉ヶ原合戦では塩谷氏の麾下に「大久保太郎吉宗」の名が見える。また大久保氏は、氏家町の今宮神社の頭役を勤仕していたと言う。

 大久保城は、松川西岸の平地に築かれていたらしい。大正6年以前には四周に3~4.5m程の土塁が廻らされ、西方に大手を構え、松川を天然の外堀としていたと言うが、現在は耕地化によって完全に湮滅している。その場所も既に明確ではないが、昭和20年代の航空写真に写っている松川の流路から、その場所を推定した(但し、確証はない)。GoogleMapに市の堀用水と書かれているのが松川で、現在の流路だとおそらくその南側にあったのではないかと思う。いずれにしても、現在では完全に失われた城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.731421/139.895557/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

戦国大名宇都宮氏と家中 (岩田選書「地域の中世」 14)

  • 作者: 江田 郁夫
  • 出版社/メーカー: 岩田書院
  • 発売日: 2020/10/18
  • メディア: 単行本


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー