姫ヶ城(石川県輪島市) [古城めぐり(石川)]
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(2020年11月訪城)
姫ヶ城は、渡合城・興徳寺城とも言い、能登守護畠山氏の重臣で能登の有力国人であった長氏の一族三井氏の城であったと伝えられる。1487年の江州在陣衆の中に三井左京亮が見える。一方、三井町仏照寺縁起では、文明年間(1469~87年)に能登畠山氏の家臣で三井の城主温井備中の次男政貞が出家して興徳寺を号したと伝えている。この城のある三井郷は、長・温井両氏の勢力圏の接点に位置し、両者によって相次いで領有されたことがうかがわれる。
姫ヶ城は、河原田川と中川の合流点の北西にそびえる、標高200m、比高110m程の山上に築かれている。東麓から登山道が整備されているが、山の北側にぐるりと回ってから南下して尾根に取り付くルートとなっており、城に到達するまでの距離は長い。ほぼ単郭の小規模な城砦で、ほぼ円形の主郭を中心に2段の腰曲輪が廻らされ、背後の西尾根に堀切を穿って分断している。主郭には四阿があり、公園となっているようだが、行った時には草茫々になっていた。また西の尾根には若干の起伏があり、現地解説板では狼煙穴とされるが、よくわからない。しかし城の構造から考えて、物見や狼煙台を主任務とした城であったと考えられる。
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.325533/136.899465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
(2020年11月訪城)
姫ヶ城は、渡合城・興徳寺城とも言い、能登守護畠山氏の重臣で能登の有力国人であった長氏の一族三井氏の城であったと伝えられる。1487年の江州在陣衆の中に三井左京亮が見える。一方、三井町仏照寺縁起では、文明年間(1469~87年)に能登畠山氏の家臣で三井の城主温井備中の次男政貞が出家して興徳寺を号したと伝えている。この城のある三井郷は、長・温井両氏の勢力圏の接点に位置し、両者によって相次いで領有されたことがうかがわれる。
姫ヶ城は、河原田川と中川の合流点の北西にそびえる、標高200m、比高110m程の山上に築かれている。東麓から登山道が整備されているが、山の北側にぐるりと回ってから南下して尾根に取り付くルートとなっており、城に到達するまでの距離は長い。ほぼ単郭の小規模な城砦で、ほぼ円形の主郭を中心に2段の腰曲輪が廻らされ、背後の西尾根に堀切を穿って分断している。主郭には四阿があり、公園となっているようだが、行った時には草茫々になっていた。また西の尾根には若干の起伏があり、現地解説板では狼煙穴とされるが、よくわからない。しかし城の構造から考えて、物見や狼煙台を主任務とした城であったと考えられる。
主郭周囲の腰曲輪→
お城評価(満点=五つ星):☆☆
場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/37.325533/136.899465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1