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南部城山城(山梨県南部町) [古城めぐり(山梨)]

DSCN0340.JPG←堀切に架かる2本土橋
 南部城山城は、単に南部城とも呼ばれ、この地を本貫地とした南部氏の詰城であったと考えられている。しかし南部氏は、1392年に波木井(南部)政光が奥州八戸に移住してこの地を離れ、その後は甲斐武田氏の一族穴山氏がこの地に入り、下山に本拠を移すまで南部を本拠として活躍した。現在残る遺構からは、穴山氏支配時代に改修を受けたものと推測されている。

 南部城山城は、南部市街地の西にある標高230m、比高90m程の丘陵上に築かれている。T字型になった尾根上に曲輪群が展開している。南の車道脇から登道があり、以前は南部城山ふるさと公園となっていたらしく、今でも薮の中に一応小道が残っている。丘陵の主尾根は北西に向かって一直線に伸びており、ここに外郭に相当する遺構が残っている。最高所となる標高320mの峰に築かれた長円形の曲輪を中心に、幾重にも腰曲輪が築かれている。北西に向かう尾根筋には細尾根上の曲輪が続き、途中には一騎駆け状の土橋、更にその先に堀切に架かった土橋があり、北西端の峰に至る。北西端の峰は古城山と呼ばれ、砦があったらしく、頂部の平場を中心に腰曲輪が見られるが、あまり遺構は明瞭ではない。一方、これらの主尾根の曲輪群から途中で北に分岐した支尾根には、城の中心部がある。支尾根の付け根には平坦な広い曲輪があり、居住区とされている。この曲輪の先に堀切があるが、両側に土橋が2本架かっている。この2本土橋は非常に珍しい遺構で、以前に丹波地方の東掛城高城城で見たことがあるが、東国では見た記憶があまりない。その先にもう一つ曲輪が続き、その先端を斜めに穿たれた堀切が分断している。この斜め堀切の北に腰曲輪群が数段築かれ、最高所に主郭がある。主郭には土塁と櫓台が築かれている。主郭の北に2郭があり、その下方には堀切で区画された小郭があり、両側に竪堀が落ちている。特に左手の竪堀は大きく、腰曲輪群を貫通して下方まで落ちている。主郭の西斜面には数段の腰曲輪が築かれている。北の鞍部に配水池が建設されて改変を受けているが、その北に高台があり、烽火台とされている。烽火台の北にも腰曲輪と細く突き出た曲輪が置かれて城域が終わっている。
 以上が南部城山城の遺構で、主郭周辺の堀切や曲輪群はしっかり普請されているが、虎口や動線には技巧性はなく、平易である。遺構を見た限りでは、武田氏勢力の城というより、駿河今川氏の城の雰囲気を感じた。戦国期に何度も今川氏の軍勢がこの地域から甲斐に侵攻しているので、今川勢が中継基地として整備した城だったのかもしれない。
北端の烽火台→DSCN0301.JPG
DSCN0279.JPG←竪堀と腰曲輪

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/35.290232/138.451488/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1


甲斐の山城と館〈下〉東部・南部編―縄張図・断面図・鳥瞰図で見る

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  • 作者: 宮坂 武男
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2014/07/01
  • メディア: 単行本


タグ:中世山城
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