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有賀城(長野県諏訪市) [古城めぐり(長野)]

DSCN1692.JPG←北尾根の段状の曲輪群
 有賀城は、諏訪氏の庶流有賀氏の居城である。伝承では、承久年間(1219〜22年)に有賀四郎によって築かれたとされる。以後、有賀氏の歴代の居城となった。応永年間(1394~1428年)には有賀美濃入道性存・同豊後守泰時が居城したとされ、この二人の名は大塔合戦でも諏訪勢の中に現れる。戦国期の1542年に武田信玄が諏訪を攻略した後、有賀備前守昌武は武田氏に服属していたが、後に木曽義昌に通じて誅殺された。1548年、上田原の戦いで武田信玄が葛尾城主村上義清に敗北すると、諏訪郡の西方衆は武田氏に叛乱を起こしたが、鎮圧後に追放され、神氏系の反武田勢力は一掃された。叛乱鎮圧後、信玄は原美濃守虎胤を有賀城に置いて再度の叛乱に備えるとともに伊那口を守らせた。翌49年3月、有賀の地は千野靭負尉(ゆきえのじょう)に与えられた。1582年に武田氏が滅び、旧武田領を制圧した織田氏勢力も本能寺の変で崩壊すると、天正壬午の乱を経て、徳川領となった信濃の諸豪は徳川家康の麾下に属した。1590年の小田原の役後に徳川氏が関東に移封となると、諏訪氏一党も関東に移ってこの地を離れたが、1601年に諏訪頼水が諏訪に復帰すると、千野丹波守房清が有賀に戻った。

 有賀城は、諏訪盆地南方の丘陵地の一角、標高920m、比高100mの山上に築かれている。北東麓にある江音寺の北側から登山道が整備されている。ちなみにこの登山道の入口脇には、高島藩の家老となった千野家の墓所がある。また後で知ったが、山の東西にも登山道が整備されているらしい。だが江音寺北の登山道の方が、登りながら全ての遺構を廻ることができるので都合が良い。長方形の主郭を頂部に置き、北尾根に4つの方形の曲輪を段状に連ね、更にその前面に腰曲輪群を配置している。各曲輪はきれいに削平され、主郭・二ノ郭にはしっかりした土塁も築かれている。主郭背後の土塁の内側には石積みも見られるが、後世の構築である可能性がある。主郭と二ノ郭の間は堀切で分断されており、この堀切から左右に長い竪堀が落ちている。主郭の北東斜面には腰曲輪と堀切が穿たれ、この堀切から落ちる竪堀は、二ノ郭手前の堀切から落ちる竪堀に合流している。主郭の背後は、堀切と小郭を交互に連ね、三重の堀切となっている。中では主郭背後の堀切が深さもあり、切岸も鋭い。更にこの城では、主郭から北に連なる曲輪群の西側に、横堀による防御線が構築されている。この横堀からは数本の竪堀が落ち、一部は二重横堀となり、その他の部分も帯曲輪が築かれている。何てことない連郭式の城と思いきや、横堀・竪堀による側面防御が巧妙な縄張りとなっている。この横堀によって補強する手法から、武田氏統治時代の天正年間(1573~92年)頃の改修と宮坂氏は推測しているが、適切な評価であると思う。
主郭背後の大堀切→DSCN1780.JPG
DSCN1787.JPG←横堀・竪堀による側面防御

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:https://maps.gsi.go.jp/#16/36.017093/138.080785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1




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